ただ、同じ部屋にいる。
それぞれに己の趣味や楽しみに没頭し、或いはそうではないまでも思うままに時間を過ごす。
三蔵の視線はいつからか新聞の紙面を離れて宙を向き、音のない歌にのせて唇の形だけを変えている。
八戒は数種類揃えたコーヒー豆を目の前に並べ、納得できるブレンドを生み出す努力で心を遊ばせている。
悟空は窓辺で空の雲を眺めていたと思ったが、いつの間にか柔らかな光の中で夢の世界へ旅立った。
悟浄は寝起きの頭に残っている気がするアルコールを消すために100%果汁、ミルクを試し、今、恐る恐る味噌汁の椀に手を伸ばした。
昼下がり。
そんな4人の姿の背後にいつからか小さな音が流れ続けていた。
サササ・・・とスケッチブックの厚紙の上を走る鉛筆の音。いつまでも途絶えないその音に最初に気がついたのは三蔵で、それでも気がついたことを誰かに悟 られることに抵抗があったため黙って音がする方に視線を向けたままでいた。口の中で歌っていた歌をやめ、なぜか呼吸さえ低くして。視線の先には描くことに 没頭している
柚螺の姿があった。
線を描きながら次々と鉛筆の先で光と影をつけていく。すると部分がふわりと浮き上がり、小さな空間が生まれ続く。ページの最下部からはじまったそれはど んどん上に伸びていく。
わかりやすくリアルなそれを無心に描き続ける
柚螺の背中で長い髪が揺れる。手を動かす変則的なリズムに合わせて上へ、下へ、小さく弾む。
三蔵はテーブルに突っ伏して頭を抱えた悟浄と追加の湯を沸かしに行くらしい八戒の後ろ姿を確認してから、ゆっくりと立ち上がった。ほんの数歩近づくと
柚螺が描いているそれが見えた。
螺旋。
登り続ける階段。
三蔵は何となく拍子抜けすると同時に胸の奥に何かを覚えた。鉛筆を動かす
柚螺をそうさせている衝動の根源は何か。長く続く形はふとDNAの二重螺旋を連想させ、あらぬ方向に気持ちを引かれる。腕に2列の数字を持 つ一般人、1列しか持たないナンバーズ、そして何も持たない己の腕。三蔵は走り出した思考を遮断するため、軽く首を振った。
その瞬間、まったく別のことに興味を持った。
柚螺が描いている階段は直にそのページの天辺に届いてしまう。そうしたら少女はどうするだろうか。
ふ。
心の中でその単純さに苦笑した。
暇だな。
自分に呟いた。
パラリ。
天辺の端まで描き込んだ
柚螺はページを捲った。そしてスケッチブックの上下を入れ替え、描き終わったばかりの縁のすぐ裏側に鉛筆をのせ再び描きはじめた。
ごく自然に。そうするのが当たり前のように。
くっ。
三蔵の喉の奥が小さな音をたてた。幸いにもそれに気がついた様子はなく、
柚螺の無心さは続いていた。
「精神分析医が喜びそうな絵、ですよね」
左耳のすぐ後ろで囁いた八戒の声に三蔵は驚きを呑み込んだ。
「・・・あれがか?」
振り向かなくても三蔵には八戒が頷いたことがわかった。
「上昇志向、とか現状からの脱出、とか・・・ほら、いろいろそれらしい解釈を語る声が聞こえてくるような気がしませんか?ふふ、
柚螺はただ純粋に楽しんでいるだけに見えるんですけどね」
純粋に、か。
三蔵は改めて
柚螺の姿を眺め、DNAを連想した自分に苦笑した。
「あなたには何が見えたんです?三蔵。教えてくれたら、僕が丁寧に分析してあげますよ」
「・・・遠慮する」
三蔵は肩を竦めポケットに手を入れて煙草を弄んだ。
「ダメだ、いっそ楽になりてェ・・・・・おい、八戒、こうなったらもうお前のコーヒーに俺の命、預けるしかねェ」
ずるずると足を引き摺るようにして(実際には極力音をたてないようにして来たのだが)八戒に並んだのは悟浄だった。若干顔色が悪く見えるのは二日酔いの 残留効果だろう。そんな悟浄も
柚螺の姿を見て目を細め、描いている螺旋には首を傾げた。
「なんだ?すっげェ夢中になってんな」
「この集中力は才能の一種ですね。教師としてはとても興味深いところです」
「ただの猪八戒としては?」
「ふふ、そうですね、妹の溢れる絵の才能にうっとりする兄ってところでしょうか」
「ま、そうだな。とにかく力いっぱい描いてんな」
三蔵は口から出かかった言葉を戻し、小さく鼻を鳴らした。
「なになに?うわ、すっげ〜。階段じゃん!」
常に直球ストレート、かつ全力投球。
遠慮のない悟空の声に思わず身体を縮めた3人は驚いたように手を止めた
柚螺を見守った。
「なんかさ、本物みてぇだな。俺、こんな階段、登りてぇ!」
・・・・登ってどうする、何があるんだ。
恐らく同時に突っ込んだ3人がただ見守る中、
柚螺の表情から驚きが消え、入れ替わりに恥ずかしげな微笑が浮かんだ。
「ったく、声がでかいんだよ、猿」
「るせ〜!猿って呼ぶな、このエロエロゴキブリ!」
三蔵と八戒が小さくため息をついている前で、
柚螺はポケットから端末を出した。
どこかで見たことがある気がして
時々夢にも出てくるの
長く長く続く螺旋はもしかしたら地下と地上を繋いでいたのだろうか。
それとも、その形状に子どもの頃の
柚螺の心が強く惹かれただけなのか。
或いは。
柚螺は不思議そうに自分を囲む4人の顔を順番に見上げた。照れ臭さとともにどこか不安を含んだその視線に、4人は同時に膝を折って目線を合 わせた。
「床に座って足を伸ばすと何だか全身が一気にリラックスできますよね。待っててください、悟浄。ちょっと一休みしたらほぼ完成の段階のブレンドを淹れてあ げますから」
「ありがてェ。な〜んか頭の中がすっきりしないおまけにグルグルしやがってよ。こら、猿、あんま大声出すなよ。俺に殺されたくなかったらな」
「へへ〜んだ、そんなのちっとも怖くねぇからな!ほらほら〜」
顔の前に手を突き出してヒラヒラと振る悟空を悟浄はぐっと睨みつけた。
「おい、ハリセン貸せ、三蔵!遠慮なしの景気いいやつ、一発喰らわせてやる」
「・・・るせぇ。俺を巻き込むな」
すぐ近くに投げ出された4人分の足。そのどれもがなぜか裸足で。
柚螺の口元が綻んだ。
窓から差し込む温かな日差しの中で。こんな時間がとても好きだ。
柚螺は静かに試すように鉛筆を動かした。並んだ足の輪郭を描いてみた。
くくっ。
悟空の指先が元気に動いた。それがまるで挨拶をしているようで、お返しに頷き返した。