・・・・そう言えば、あのバカ猿はどこへ何をしに行ったんだったか。
三蔵は短くなった煙草を灰皿の上で捻り潰し、冷め切ったコーヒーに口をつけた。
隣り部屋の2人と一緒に夕食をとってから1時間余り。2人が早々に自室に引き上げた後も一緒に宿題をするんだと悟空が
柚螺を引き止め、テーブルで隣り合った辺を占めて額を寄せ合っていたはずだったが。見れば、今は
柚螺が一人でノートにペンを走らせている。時々手を止めて考え込みながら書き続ける様子はしばらくこうして一人で作業をしていたのだろうと 思わせる。もう一冊開きっぱなしのノートと何色かのペンを転がしたまま、その持ち主であるはずの悟空の姿はない。と思ったその時。
「ふぁ〜、まだ何か口の中、辛ェ!」
首に巻いたタオルの端で口元をポンポン叩きながら悟空が戻ってきた。その仕草から歯を磨いてきたらしいことが三蔵にはわかったが。
三蔵は内心、首を傾げた。
まだ三蔵は歯を磨いてくるように怒鳴っていないのだが。それに、悟空が姿を消していたのは2分やそこらではなかったようだが・・・・というよりも恐らく 少なくとも10分以上はいなかった気がする。
「・・・ずっと歯を磨いてたのか?猿」
「うん!って・・・・猿じゃねェ!なあ!やっぱり俺、三蔵とキス、してぇ!あと
柚螺と!」
は?
三蔵の全身が一瞬で硬直した。
今、悟空は何と言った。
何が『やっぱり』だ?
「・・・頭沸いてんのか、コラ!何が『やっぱり』だ!」
スパーンという響きとともに三蔵のハリセンをまともに正面から受けた悟空は顔を顰めて額を撫ぜた。
三蔵が素早く視線を向けた先で、
柚螺はノートから顔を上げ不思議そうに2人を見ている。どうやら書くことに熱中していたため自分の名前がなぜか呼ばれたくらいにしか悟空の 言葉を聞いていなかったのだろう。
それでいい。
三蔵は改めて悟空に鋭い視線を向けた。
「目ェ、覚めたか」
「ってぇなぁ〜。だってさ、あん時、三蔵が言ったんだぞ!キスっていうのは自分がそうしたいといっぱい思った相手とするもんだって・・・・」
・・・あん時?
三蔵は悪びれた様子もなく真っ直ぐに自分を見ている悟空の顔を眺めた。背丈が大分伸びた今でも子ども臭い丸顔は幼い頃の面影がたくさん残っている。この 顔を見ているとまだ髪を長く伸ばしたままにしていた小さな姿をすぐに思い出せる。
キス、なんていう話題を誰かと・・・ましてや悟空と話したことがあっただろうか。苦手の極みといってもいい話題をいつまでも食い気ばかりの幼いこの猿 と。
・・・食い気?
三蔵はソファに身体を倒し、顔に手をのせた。
あれはいつだったか。この部屋に住みはじめる前、大きな館の小さな離れに2人でいたあの頃。そう言えば、そんなこともあった。
自分の手の下で目を閉じた三蔵の唇に小さな笑みが通り過ぎた。
「三蔵!大変だって!三蔵!」
小さな体いっぱいの力を振り絞って駆けて来た悟空は、ドアを開けると同時に勢い余って三蔵の腰にがっしりとしがみついた。
「ひっつくなと何度言ったらわかるんだ、このチビ猿!」
三蔵が片手で引き剥がすと悟空は高さ5センチの空中でジタバタと手足を振り回した。
「それどころじゃねぇ!大変なんだよ。あの髪の長い兄ちゃんが黒い髪の姉ちゃんを食べようとしてた!頭から!」
・・・はぁ?
三蔵は軽い眩暈を感じながらも悟空が描写した人物を思い浮かべた。紅孩児と・・・・何と言ったか、紅孩児がどこからか連れて来たという娘。その事で屋敷 の中が大騒ぎになったことはそろそろ記憶の中から消えかけていた。三蔵にはまるで関係のないことだったし、愛想のなさはお互い様だから未だに事情は一つも 知らない。その2人が・・・・・頭から?
「また何かおかしな絵本でも見たか?」
「じゃねぇよ!あの兄ちゃんがこうやって・・・姉ちゃんの顔を持ち上げて食おうとしてたんだって!」
幼いながら興奮しきっている悟空の演技はなかなか真に迫っていた。そのため、三蔵は今回の事情を即座に理解した。
「バカ猿。それは別に食おうとしてたわけじゃねぇよ」
溜息混じりに椅子に腰を下ろすと三蔵は煙草に火をつけた。
「だって・・・・じゃあ、何してたんだよ、あいつ!この間八戒から貰った絵本に出てくる人間のイ・・・イキ・・ギモを食っちまう鬼そっくりだったぞ?」
三蔵はまだ頭から湯気をたてている悟空を眺めながらゆっくりと煙を吐いた。
「・・・それは『キス』ってものだ。自分と相手の唇を重ねる、それだけだ」
「・・・口をくっつけるのか?なんで?それでどうなるんだ?」
「るせぇ。お前がもっとデカくになったときにそうしたいと強く願う相手がいたらすればいいことだ。その頃には少しは意味がわかってるだろう。俺に聞くな。 興味ねぇ」
「三蔵・・・したことないのか?したくないのか?その・・キス」
「・・・興味はねぇっつてるだろうが」
「じゃあさ、ちょっと俺と・・・・」
「殺すぞ。メンコやキャッチボールとは全然似ても似つかないモンなんだよ」
「ふぅん?」
悟空は少し呆けた顔で首を傾げた。
そうだ。そんな事もあった。もう随分前のことに思えるのだが、悟空はずっと覚えていて、それが『やっぱり』につながったのだろう。それはいい。問題は。
三蔵は顔から手を下ろすと予想通りじっと自分を見守っていたらしい悟空を下からねめつけた。
「で、なんでまた今頃話を蒸し返す?・・・メンコとは違うって分かってんのか?」
「もう、俺、子どもじゃねぇぞ!ガキの時よりはちゃんとわかってる!あのさ、今日、学校でショ・・・ショタイケン?の話をしてるヤツらがいて・・・」
三蔵は眉間の皺を深めた。
「・・・その連中に何をたっぷり吹き込まれたか、聞く気はねぇぞ」
悟空はブンブンと首を横に振った。
「俺もそういうの、わかんねぇし興味ねぇから最初は全然聞いてなかったんだ。八戒の弁当、すっげぇ旨かったし」
昼飯時にそんな話をしてるのか、悟空のまわりの連中は。三蔵はため息をついた。
「で?バカでかい弁当箱を空にしてたはずのお前がどうした?」
「うん。そん中でさ、キスがすげぇ嬉しかったってヤツがいたんだ。そいつ、相手の子とずっとずっと一緒にいたくて、でもそんなこと照れ臭くて言えねぇから 代わりにキスしたんだって!何か全部伝わった気がして嬉しかったって言ったんだ」
聞くことに苦痛を感じながらなぜ自分が悟空の話を止めないのか。三蔵は段々わからなくなってきた。
悟空は満面の笑顔になった。
「だからさ、俺、やっぱ三蔵とキスしてぇって思った。三蔵と
柚螺!ずっと一緒にいてぇし、キスのこと考えてる間、2人の顔しか浮かばなかった」
・・・・だからあんなに長い時間歯磨きを?
笑うしかない気分になった三蔵は一瞬視線を動かして目を丸くしている
柚螺の表情を確かめた。そのため、素早く身をかがめた悟空の動きを止めることができなかった。
ふわり。
ツンツン立っている悟空の前髪の先が額に触れた・・・・と思う間もなく、唇の表面にあたたかなものが触れた。思わずその熱に反応した自分の唇に驚きなが ら、三蔵は息を弾ませながら離れた悟空の大きな瞳を見上げた。
「そっか、キスって吸うのか〜。三蔵、すげぇ、知ってるんじゃん、キス。煙草の匂いはあんま好きじゃないけど・・・・ってぇ〜!」
悟空の頭の天辺にハリセンを命中させた三蔵は唇に向かいそうになる自分の手を拳を握って止めた。
「ヘラヘラとち狂ってんな、猿!二度とするなよ」
「うん、今日はもういい。すっげぇ嬉しいから。えっと、次は・・・・」
『今日は』だと?
呆れて頭を抱えたくなった三蔵は、悟空の次の行動を思い当たり、ソファの上で勢いよく身体を起こした。
ちょっと待て、バカ猿・・・・!
なぜか声が出なかった。
悟空はトトト・・・と
柚螺の方に走っていくと薄く頬を染め、まだ驚いたままの表情の
柚螺の顔を両手で包み、そっと唇の先にキスを落とした。
柚螺は瞳を大きく見開き、顔全体を真っ赤に染めた。
・・・・不意打ちか。
三蔵は言葉を失っていた。実際には
柚螺には十分状況を判断して逃げようと思えば逃げられるだけの時間があったはずではあったが。しかし、実は悟空に負けずとも劣らない『天 然』タイプの人間である
柚螺には、恐らく今も状況を理解できていないはずだ。
「ずっと一緒にいような、
柚螺・・・・俺と、三蔵と!」
ずっと。
その言葉は祈りを含んでいるように三蔵には思えた。終わらないものなどない。形が変わらないものなどない。先のことなど誰にもわからない。だから。けれ ど。
悟空の溢れる笑顔を追いかけるように、やがて
柚螺の顔にも小さな笑みが生まれた。
助かった。何となく安堵した三蔵だった。間違いない・・・
柚螺も恐ろしく天然だ。
「よし!じゃあ、あとは三蔵と
柚螺だけだ!」
パン!と両手を打ち合わせた悟空の姿に、三蔵と
柚螺は疑問符だらけの表情を向けた。
悟空は嬉しそうに2人の顔を交互に見た。
「だってさ、俺と三蔵、俺と
柚螺はもう、キス、しただろ?あとは三蔵と
柚螺がすればバッチリだ!」
何がバッチリだ。巫山戯るなよ、猿。
三蔵は悟空の顔を見据え、
柚螺の方は見なかった。
「どこまで頭沸いてんだ、猿。いい加減にしておけ」
悟空は驚いたような顔をして首を傾げた。
「え・・・・だって三蔵・・・・
柚螺とキスするの、嫌なのか?」
「嫌とかそういう問題じゃねぇだろうが!大体お前は・・・」
「ごめん、
柚螺!俺、あの・・・三蔵も大丈夫だって思って・・・」
悟空の理屈は三蔵にも
柚螺にも理解できるものではない。悟空の言葉に深い意味はない。ましてや性的なものなど皆無だ。それでも悟空にしかわからないその理屈を抱 えて
柚螺に向けたどこか必死な視線につられるように、三蔵も
柚螺を見た。赤い顔のまま、驚いた顔のまま、声が出ないまま無理矢理微笑もうとした少女の姿は・・・今までに経験したことのないやり方で三 蔵の胸をついた。
キスの意味は・・・・何だって?
三蔵はゆっくりと口角を上げた。
まったく。ガキばかりこの部屋には揃ってやがる。
「ったく・・・」
三蔵は立ち上がり真っ直ぐ
柚螺の顔を見つめたまま足を動かした。
「こんな馬鹿・・・お前たちだけだ」
静かに
柚螺の頬に触れた自分の指先は僅かに震えていたかもしれない。
背筋を駆け上ったのはこれまでに経験したことのない緊張で。
けれど決してそれを2人のどちらにも悟らせたくないから。
三蔵は
柚螺の顔を上向け、やわらかく口づけた。
自分のやり方が果たして世の中一般にキスとして通じるものかどうかは、実は知らない。他人に触れられることも触れることも嫌悪して生きてきたこれまでの 人生。それを遠慮なく、或いは偶然の悪戯的に崩してきたこの2人。
本当に・・・お前らだけだぞ。
「風呂・・・入る。もう寝てろ」
唇を離した三蔵はそのまま2人の顔を見ずに浴室に向かった。
唇にも身体のどこにも不快感はなかった。それどころか。それが驚きだった。
やがて、浴室から三蔵の無意識の鼻歌が聞こえはじめ、それを聞いた2人は照れ臭そうな顔を見合わせて微笑んだ。