ある除算

 悟空の両手はふさがっていた。
 まだ小さな手の平にしっとりと吸い付くような餅の感触。それが嬉しくて仕方がなくて食べたい気持ちをぐっと我慢して両手がふさがったままでいた。
 その時、窓から風が入った。押し寄せたというよりも細く道筋を選ぶように通り抜けた風は机の上で重なっている書類の間に透明な波を立てた。

「あ・・・」

 それは予感の声だったのかそれとも発見のものだったのか。わからないその瞬間に捲くれ上がった紙の上から細筆が床に落ちていった。

「こら!落ちんなよ、三蔵の筆・・・」

 咄嗟に突き出した右足の親指とその隣りの指の二本で悟空は落ちてきた筆をつかまえていた。
 自分がやった奇跡の技に目を丸くした悟空は驚きと嬉しさでさらに瞳を大きく見開き、反射的に机を挟んだ向こうに座る三蔵の顔を振り仰いだ。

「なあ、三蔵!見た見た・・・・・?・・・ってぇ!」

 顔を上げた途端にハリセンの一振りをもらい悟空は思わず餅を持ったまま両手で頭をかばった。

「足で持つな。それじゃあまんま猿そのものじゃねぇか」

「だって・・・だって!俺、今、こっちもそっちも手、使えねぇし」

 真剣な表情で口を尖らせた悟空の顔に三蔵は短い一瞥をくれた。

「・・・まだ食ってなかったのか。まさかとは思うが、腹の調子でも悪いのか?」

「腹?ちゃんとすいてるぞ」

「ならさっさと食って足を洗って来い。ったく・・・」

 筆に含まれていた墨で黒く汚れた小さな足がそろそろと机の上に這い上がる様子を見ながら舌打ちした三蔵はふと悟空の顔に浮かぶ無邪気な笑みに気がつい た。

「なあ三蔵、これできる?」

 そっと筆を置いた足はすばやく引っ込んでかわりに得意満面な幼い顔が机の上に現れた。それは三蔵に吐き出そうとした皮肉な言葉をなぜか飲み込ませてし まった。だから、三蔵はその呆けたように思える一瞬を埋めるために眉間に盛大な皺を寄せた。

「なあ、三蔵」

「るせぇんだよ、お前は。人間の足は物をもつようにはできちゃいねぇんだ。普通は必要ねぇからな」

「そっかぁ・・・なんだかすっげぇのになぁ」

 残念そうに呟いた悟空は視線を両手の餅に戻すとまたすぐに笑顔になった。けれどやはり、ニコニコしているばかりで食べようとはしない。何となく落ち着か ない気分になった三蔵はそれでも次の書類に視線を落とした。

「どっちから食べよっかな・・・」

 耳に入ってくる呟きがどうも気になる。

「でも・・・やっぱり・・・」

 ためらいがちな呟きが続いて耳に入ってくる。食事もたまにあたるおやつもいつも一飲みにする勢いで食べてしまう悟空が。
 三蔵は書類に書かれている文章の同じ行を二度読んでいることに気がついた。
 それも含めて心の中の苛立ちが大きくなってきた。

 悟空が手に持っている餅は先刻三蔵が寺院に戻った時に持ち帰ったものだった。今日行った先はこれまでにあまり足を向けたことのない方角で、細い道の途中 に唐突に一軒の店屋があった。飾り気のない、商売気のないその店は餅屋だった。行きは特に目を留めるでもなくその前を通り過ぎたのだが、帰り道、その店か らは甘い匂いが漂っていた。上等な手作りの餡の匂い。気がついたとき三蔵は店の前で足をとめていた。
 三蔵は実は餡が好きだ。酒と煙草、そしてマヨネーズ。その次くらいの位置に餡を入れてやってもいいと思うときもあるほどだ。その甘さを覚えたのはまだ幼 かった頃。それを教えてくれたのは月の光と穏やかな微笑が似合う今は亡き彼のただ一人の師だった。師がどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて袂から取り出す小さ な包み。開くと決まって肌が真っ白で滑らかな大福餅やつややかな饅頭が二つ並んで入っていて、二人でそれをひとつずつ分け合ってのんびりと食べた。「美味 しい」と素直に、ぶっきらぼうに言葉にして伝える彼に微笑んでくれた共犯者の笑顔はとてもやわらかく・・・・。
 三蔵の足はそのまま自然に店の中に入って行った。

 そう言えば、金山寺を下りてから今日まで三蔵は餡を口にしていなかった。放浪の四年間、慶雲院の責任者となってからの二年間、買おうと思えばいつでも餅 や饅頭を買うことはできたはずだった。けれど・・・そう、三蔵はまるでその思い出の甘味そのものの記憶を失っていたかのように菓子の存在に気がつかないま ま日々を過ごしてきた。煙草と酒の味を覚えいつの間にかそれらが日々の当たり前の一部となっていたのとは対照的に。
 それが今日、なぜか封印が解けたのだ。
 三蔵は店員の顔を見ながら瞬時迷い、結局餅を三個買った。一個では何となく告げにくかったし四個では多すぎる気がした。二個、という数を避けたのは恐ら く本能だった。
 包みを袂に入れると予想よりも重く感じられた。

「三蔵、おかえり〜!」

 どこから見ていたのか三蔵が執務室へ続く廊下に出た途端に悟空が転がるように駆けて来た。
 どうしてこの猿は外出から彼が戻るといつも遠慮なしに全力で彼の身体に抱きつく、という暴挙を凝りもせずに毎回繰り返そうとするのだろう。ハリセンと罵 声をくらうだけだというのに。
 ハリセンを取り出そうとした三蔵は袂の中の包みに手を触れた。

「・・・三蔵?」

 唐突に初めて抱きつくままにそれを許されてしまった悟空は三蔵の腰に手を回したまま不思議そうに彼を見上げた。

「・・・触んじゃねぇよ。行くぞ。部屋に着いてから・・・こいつを開けろ」

 差し出された包みを両手で受け取った悟空の腕が離れると三蔵は早足で先を進んだ。



「誤解するなよ。お前のために買ったわけじゃない。ついでだ」

 包みを開けて餅を見たときの悟空の顔があまりにくしゃくしゃに綻んだので三蔵は誤解を解くために早口で言った。すると悟空は笑顔のまま包みをそっくりそ のまま三蔵の方に押して寄こしたので手を伸ばして一つだけ取った。それでも悟空がそのままニコニコしているので二個残った包みをぐっと押しやった。

「これ・・・俺の?」

 三蔵が頷くと悟空はそっと静かに餅に手を伸ばした。そしてさらに嬉しそうな顔をして見上げようとしたので三蔵は手早く彼の分の餅を食べ、咳払いをしてか ら書類に手を伸ばした。そして時間は冒頭へと続くのだが。



 あんなに嬉しそうな顔をしたくせにまだ一口も食べていない悟空。
 今も笑顔なくせに食べようとしない悟空。
 実は餅はあまり好きではないのかもしれない。やはり慣れないことはするべきではなかった。いや、別に悟空の土産とかそういう理由で買い求めたのではない のだ。彼自身が食べるために買ったのだ。そして食べた。けれどおかしなことについさっき食べたはずの餅の味が思い出せない。何となく気がせいて急いで食べ たからだろうか。そうだとしたらこの猿のせいだ。悟空があんな顔をして見せたから。
 それなのに食べないとは。
 三蔵の右手はいつの間にかハリセンを握っていた。苛立ちは最高潮に達していた。

「もったいねぇなぁ。でも、すっげぇうまそうだし・・・クソ!我慢できね〜」

 『うまそう』?
 三蔵が右手を振り上げたまま固まった時、悟空が顔を上げた。

「あ、三蔵、もう食べちまったのか?う〜ん、じゃ、いいや!ハイ、こっち!いっしょに食べようぜ!」

 目の前に突き出された悟空の右手を三蔵は少しの間無言で見つめた。その右手の向こうには悟空の笑顔があった。

「・・・いつもの食い意地はどうした」

「だってさ、これ、三蔵が買ってきたんだろ?俺、そういうのはじめてで、もう、いっぱい嬉しいからさ。もったいねぇからさ、けどさ、でもさ、だからさ、三 蔵と一緒に食ったら、きっともっといっぱいになる」

「人語をしゃべれ」

「んだよ・・・」

 口を尖らせかけた悟空は三蔵の手が餅を受け取るのを眺め、それから首を傾げた。気のせいだろうか。いつも通りハリセン持って怒り出そうとしていた三蔵 が・・・ほんのちょっとだけ笑みを浮かべたような気がした。もう一度見ようと探してみても苦い顔で睨み返されただけだったが。

「ま、いいや。じゃ、いっただっきま〜す」

 悟空は一口大きくかぶりついた。

「うっめぇ!三蔵、これ、すっげぇうめぇ!」

 思わずつられるように一口噛んだ三蔵の口の中にやわらかな甘さが広がった。それは記憶の奥を揺さぶるひどく懐かしい味だった。

「フン」

 短く鼻を鳴らした三蔵の前で悟空はまだ、うめぇ!と声をあげている。顔と声だけでなく全身で喜びを表している様子は子どもの頃の彼とは恐らくひどく対照 的なのだろう。思わず綻びかけた口元を強く引き締めながら三蔵は思った。強く優しく大きかったあの師はもしも彼がこんな風に喜びをストレートに表現してい たらもっと喜んだのだろうか。それともしたくてもそうできない彼の心の内などとっくに見通されていたのだろうか。
 三蔵は手の中の一口齧った餅を見て、それを半分にちぎった。そして言葉が浮かばないまま黙って片方を悟空の顔の前に突き出した。すると悟空は目を丸くし た。

「すげぇ!三蔵、三個も半分こできるんだな!俺、知らなかった」

 3 ÷ 2 = 1と1/2

 食べ物に関する四則演算はすべて『ゼロ=悟空の胃袋行き』という答えになる悟空の脳内計算機に刻み込まれた一足飛びに高度な割り算。
 三蔵は悟空と同時に1/2を口に放り込んだ。
 『半分こ』の味は背筋にひどくくすぐったかった。

2006.3.31

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