解 放

 ごくう

 猿は自分の名前をそう俺に告げた。その短い音が耳に入った時、なぜか目の前の宙に流れていく二つの文字を読み取ったような錯覚があった。

 悟空

 空を悟る者。
 このチビでバカ面で大食らいのガキには随分と過ぎた名前じゃねぇか。もしかしなくてもこいつは自分の名前がどんな文字で構成されてるかってことすら知っ ちゃあいねぇだろう。それでもなぜかこのガキはその名前を大層気に入っているようで、呼んでやるまで何回でもしつこく俺に名前を教え続けるつもりらしい。
 馬鹿らしい。
 『猿』で十分じゃねぇか。
 ただ。
 なぜかその名を聞くたびにガキの首と手足に残る重い金属の枷と岩牢につながれていた名残の鎖の切れ端に目がいった。見た目も見た目以上のその重さもこの チビには不釣合いに思える。何も言わないところを見るともうそれが身体にはめられていることに慣れてしまっているのだろうが、俺にはその事自体に違和感が あった。




 満月。
 三蔵は寄りかかった壁にあいた穴から夜空に浮かぶ月を見上げた。心の中に蘇った師の言葉をもう一度繰り返して再生した彼の膝には眠っている子どもの小さ な頭がのっていた。法衣を通して伝わってくる温かな体温を感じていると不思議と気が抜けてほんの少し前の出来事が嘘のように思えた。
 ゆっくりと見下ろすと子どもの顔には流した涙の跡が幾筋も残っていた。それでも眠っているその顔はここ五日の間に何度か見かけたふっくらした頬の大福 そっくりな寝顔そのもので、涙の方が間違いに見える。
 斉天大聖孫悟空。五百年前に天界から追放され封印された天に等しい力を持つ魔物。
 小さな身体を取り巻く焼け付くような気を感じた肌がビリビリと痺れていたあの時、三蔵の心にあったのは間違いなく恐怖だった。一瞬身体を竦ませたその感 情を打ち消した時心に浮かんだ子どもの笑顔。それから後、経文の力で動きを封じ頭を押さえ込んだ三蔵はただその魔物を元の幼い子どもに戻すことだけを考え ていた。
 逆だろう、と今ふと思う。昏々と眠るこの幼い者の本当の姿こそが斉天大聖・・・あの姿なのだ。額の大きな金鈷に封じられている本来の姿。

「・・・ただのバカ猿にしか見えんな」

 呟いた三蔵は子どもの身体を両腕に抱いてゆっくりと立ち上がり、重さに顔を顰めた。
 岩牢の外と中で初めて顔を合わせた時の間抜け面。
 大福餅そっくりの寝顔。
 ふくれっ面と笑顔の間でコロコロ変わる表情。
 煩いほどに彼の名前を呼ぶ声。
 大きな金色の瞳から溢れる涙。
 静かに足を運びながら思い出すのは子どものいとけなさばかりであることに気がついた三蔵は唇をゆがめた。

「お前には似合わん・・・」

 寝台の上に子どもを寝かせると三蔵はいつからか気になって仕方がなかった鉄枷に手を伸ばした。指先で触れるとこれをつけた者が施した封じる術の気配を感 じた。これを外すためには三仏神の力を借りなければならないだろうか。一旦枷から指を離した三蔵は目を閉じて呼吸を止め強く念じてから再び指先を触れた。 枷は音もなく外れて布団の上に転がった。

「・・・やけに簡単だな」

 首に続いて両手両足とすべての枷を外した三蔵は寝台の端に腰を下ろして深く息を吐いた。本当はかなりの集中力と気力を消費していた。それでも枷から解放 されて眠る子どもの姿は三蔵の目にひどく自然なものに思え、眺めていると心に満足感のようなものが浮かんでくる。

「フン」

 三蔵は顔を上げると煙草を一本箱から振り出して唇に挟んだ。




「服がでかいな」

 朝一番で水を浴びさせて新しい服を渡すと子どもは目を丸くし、それから顔全体が崩れるほどの笑顔になった。袖と裾を幾重か折り返すとなんとかそれらしい 形がついた。
 子どもを彼の手元に置くことになったことを特に告げはしなかったのだがいつの間にか通じているらしい。

「三蔵」

「・・・なんだ」

「へへっ。なあ、さ〜んぞぅ!」

 この繰り返しはいやになるほど覚えがある。三蔵は背筋を伸ばして座っていた寝台から立ち上がった。

「・・・悟空」

「・・・へ?」

 豆鉄砲を食った鳩というのはこんな顔をするのかもしれない。三蔵はほんのわずかに口角を上げた。

「どうした。これがお前の名なんだろう?・・・行くぞ、悟空」

「お、おう!」

 悟空に背を向けて歩き出した三蔵は後ろからついてくる軽い足音を耳で捕らえた。もうそこに鎖の音はない。今思えばなぜ彼が悟空の名前を素直に呼んでやる 気持ちにならなかったのかが不思議なくらいだったが、一旦呼んでしまうとその名前は喉の奥に懐かしさのようなものを残す。

「なあ、三蔵、ハラ減った!」

「るせぇな。部屋に着くまで少し我慢しろ」

 一緒に食べ、同じ部屋で眠る。
 それがその日から二人の『当たり前』になった。

2006.4.2

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