貸 切

 夕暮れが近づいた頃、前の晩から降り続けていた雨が上がった。
 悟空はどことなくいつもよりも呆けた顔で床で胡坐をかき、紙に筆を走らせている三蔵の顔を時折見上げていた。この姿を朝からずっと見せられている三蔵は なぜか無言で苛立ちを抑えていた。
 実は、悟空がこうして三蔵の表情を確認して安心した様子を見せるのは昨日の夜からだった。雨の音に神経を揺さぶられてなかなか寝つけないでいた三蔵が小 さくため息をついた時、むっくりと起き上がった悟空が三蔵の寝台の横へ立った。

「どうしたんだ?三蔵」

 心配そうなその声の調子を聞いたとき、三蔵の胸の奥で何かが小さく揺れた。けれど三蔵は悟空に背を向けたままでいた。

「るせぇ。お前と違ってたまには眠れない夜くらいあるのが人間だ」

「眠れないって、どっか痛いのか?ハラ?」

「だから、てめぇじゃねぇっつってんだろうが。いいから、寝ろ。余計眠れなくなる」

 悟空がもぞもぞと布団の中に戻る気配がして、それから少し経つと規則正しい寝息が聞こえはじめた。その向こうに相変わらず雨の音が聞こえた。
 雨の日は苦手だ。
 煙草を吸いたくなった三蔵が枕元にいつも置いてある煙草と灰皿に手を伸ばした時、また悟空が起き上がった。

「・・・まだ眠れねぇの?三蔵」

 半分寝ぼけたままの言葉のひとつひとつがよく聞き取れない悟空の声に三蔵は苦笑した。

「寝ろ、バカ猿」

「う・・・・ん」

 悟空は布団の上にゴロンと丸くなった。
 煙草をあきらめた三蔵は目を閉じて悟空の寝息に気持ちを向けた。そうすると少しだけ雨の音が遠くなった。眠れるわけではなかったが、心に焼きついている 記憶も少しだけ遠くなった気がした。

「大丈夫か?三蔵」

 再び悟空が起き上がったのは一時間ほど過ぎた頃だっただろうか。
 思わず目を閉じた三蔵の顔を枕元に立って確かめた悟空は三蔵の布団を丁寧に掛けなおすと自分の布団に戻った。
 騙せたか?
 三蔵はいつのまにか自分が呼吸を止めていたことに気がついた。
 チビのくせに時々妙に敏感に空気を感じ取ってしまうバカ猿。おまけに妙に・・・なんだかまるで保護者みたいな態度を取りやがって。
 それでも三蔵は目をつぶり続けた。
 案の定、また一時間ほど経った頃、悟空は再び起き上がった。
 そうこうするうちに三蔵は本当に眠ってしまった。眠りの中で何度か悟空の気配を感じた気がした。それでも目を覚まさなかった自分をあり得ないと思った。
 朝目覚めた時、三蔵の身体は布団にしっかりとくるまれていた。起きた悟空はどうやら夜の間のことをほとんど覚えていないようだった。それでも雨が降って いる間中、悟空は三蔵の顔を確かめ続けた。
 お前に何がわかるというんだ。何を感じ取ったんだ。
 三蔵が筆を置いた時、立ち上がった悟空が窓辺に走って行った。

「雨、やんだ〜!」

 そりゃあいつかはやむだろうよ。
 三蔵は煙草を咥えた。

「な〜にやってんだよ、チビ猿!雨の中わざわざ招待しにきてやったんだ、感謝しろよ」

 聞き慣れた声が窓の外から流れ込んだ。

「すごいんですよ、悟空、三蔵。僕たち専用の温泉ができたんです」

 招待。温泉。
 三蔵はいぶかしげに眉をひそめた。

「え、なに、なにそれ!食える?ウマイ?」

「バ〜カ、お前は温泉も知らねぇのかよ。猿っつえば温泉だろ?こう、身体の芯からあったまってよ、お肌すべすべのツルツルで、風呂上りには良く冷えたビー ルをキューッとやるんだよ」

「・・・なんだ、風呂か」

「馬鹿にすんじゃねぇぞ!なんせ温泉、露天風呂だ。綺麗なねぇちゃんたちを呼ぶ前にまずはお前たちで実験してやる。飲み物と玩具も特別に持ってはいってい いぞ」

「うわ〜、なにそれ!めっちゃくちゃ楽しそ〜!」

「だろ?」

 悟浄と悟空が盛り上がる中、八戒は窓から部屋の中をのぞいた。

「もちろん、三蔵も来てくれますよね、僕たちの温泉」

「・・・なにか薄汚れてないか、お前たち?」

 日頃から崩れたファッションを定番としている悟浄ときっちりした服装の印象がある八戒。その二人ともが泥汚れや埃だらけの作業服らしきものを着ていた。

「ついさっき、ようやく完成したんですよ、露天風呂。穴を掘って大きな石を運んではひとつひとつ床から壁を埋めていって・・・・。大変だったんですよ。丸 一週間かかりました」

 悟浄と八戒が住む森の奥まった辺り。山でもないそこになぜか突然温泉が湧いたのだと八戒は説明した。通る人も滅多にない森の中だ。これはもう悟浄と八戒 のために大地が恵んでくれたとしか思えない。そこで二人は設計図まで描いて大人の4、5人は十分入ることができる露天風呂を作ったのである。

「行こうぜ、三蔵!俺、おもちゃとコーラ、持って来る〜〜〜〜!」

「あ、悟空、コーラならうちに・・・・って行っちゃいましたね、もう」

「どうせタオルなんてもんまで気が回るわけねぇからよ、ちゃんと二人分準備しろよな、保護者!」

「誰が保護者だ」

 言いながら三蔵はため息とともに立ち上がった。




「俺、いっちば〜ん!」

「馬鹿言うな!一番は俺だ〜!」

 あっという間に服を脱ぎ捨てた悟空と悟浄がしぶきを高く上げて飛び込んだ。

「あつ〜〜〜っ!あっついけど気持ちいい〜〜〜」

 浮かれた悟空が湯の中ではねるので悟浄は波に身体を揺られ、慌てて悟空の顔に湯をかけて反撃に転じた。

「ほんと仲がいいですね〜」

 ニッコリと微笑んだ八戒は脱いだ衣類を一枚ずつ畳みながら三蔵を見た。

「あの二人はなんというか裸丸出しで飛び込むタイプですが・・・三蔵、実はちょっと抵抗あります?恥ずかしいとか・・・」

 確かに三蔵が衣類を脱ぐ手はゆっくりで気が進まないようにも見えた。

「別に。・・・あの騒ぎの中に入るのが気が進まねぇだけだ」

「あ、なるほど」

 八戒の納得した様子に三蔵は内心ホッとした。実際は抵抗があるというよりも慣れない感覚がくすぐったかったのである。まだ少年の年で三蔵法師になって以 来、三蔵は水を浴びる時、常に一人だった。男だけの寺で生きてきた三蔵であったが考えてみれば他の僧侶の裸体を見ることもましてや彼の身体を見せることな どほとんどなかった。例外は・・・光明三蔵と・・・それから、悟空だ。出会った頃の悟空は水を浴びるのが嫌いでかなり三蔵の手を焼かせた。なんでここま で、と思いながらも無理やり頭を洗い身体をこすってやったことが何度もある。

「三蔵〜!早く来いよ〜!」

 いつの間にか八戒も黄色いアヒルがぷかぷか浮いている湯の中に入っていた。悟空と悟浄は水鉄砲で激しい戦いを繰り広げている。
 あんなに寝ぼけた顔をしていたくせに。
 三蔵は笑ったり怒ったり忙しい悟空の顔を見て口角を上げた。それからゆっくりと湯の中に身体を沈めた。




「で、どうするよ、こいつら」

「そうですね〜、気持ちよさそうなんですがこのままだとふやけちゃうかもしれませんよね」

 悟浄と八戒は半分呆れたような笑顔で湯の中でぐっすり眠り込んでいる悟空と三蔵を眺めた。いいだけ騒ぎ終わった悟空が最初にあっけないくらい簡単に眠っ てしまい、その悟空を起こそうとしていたはずの三蔵も気がついたら眠っていた。二人で頭をもたれあいながら眠っている顔は平和そのもので、三蔵の顔は思い がけず穏やかだった。

「こんな顔して眠るんですね、この二人」

「ったく、無用心にもほどがあるってんだ」

「まあ、どうせここは僕たちの貸切ですからもう少しだけそっとしといてあげましょうか。湯あたりでもしたらうちに泊まってもらってもいいですし」

「こいつら、床で毛布決定な。お前も甘やかしてベッド譲ったりすんなよ」

「わかってますよ。僕は寝場所にはうるさい方ですから」

 黄昏時はとうに過ぎ、空にひとつ、またひとつと星が現れはじめていた。
 悟浄はビールの最後の一缶に口をつけてぐっと飲んでからそれを八戒に回した。

「ぬるくなったけど美味しいですね。今度は日本酒も持ってきましょうか」

「だな」

 梟がホウと一声鳴いた。
 それは宵闇の訪れのしるしだった。

2006.4.7

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