うたたね日和

 窓から入る日差しがテーブルの上に穏やかな場所を作っていた。

「なあ、あいつらが起きて来たらメシ・・・」

 隣室からふらりと顔を覗かせた悟浄は目に入った光景にゆっくりと口を閉じた。
 やわらかな光の中でテーブルに頭をのせて眠っている八戒の顔。眠りながらわずかに上向いている唇の両端。
 テーブルの上に伸びた八戒の片手のすぐわきに今はもう半分以上乾いたような布巾がある。三人が寝に行った後でせめて片づけを済ませてから寝ようとした八 戒の様子が想像できた。徹マンでほとんど一人勝ちした八戒が最後の最後までこの部屋の居心地を保つことにこだわって。それが習い性に逆らえない性分による ものなのか、それともこだわりなのかはわからなかったが部屋の中はすっきりと片付いている。そうして最後の最後にテーブルをふこうとしてそこで気が緩んだ のかもしれなかった。

「やっぱ、黒じゃねぇんだよな・・・」

「何がだ」

 不意に返ってきた低い言葉に慌てて振り向いた悟浄は煙草を唇に挟んだばかりの三蔵と顔を合わせた。

「脅かすな、クソ坊主」

「てめぇがぼんやり見とれてやがったんだろうが。訳のわからない独り言まで聞かせやがって」

「・・・見とれてっつぅのは何か誤解されそーな・・・。いやさ、あいつの髪、普段は黒かなって見えるんだよ、俺には。でもよ、ああやって光があたってると それよかちょっとばかり明るい色なのな」

「・・・それがどうした」

「どうしたって言われても困るんだけどよ。お前、ほんとに坊主のくせに会話ってのが下手な野郎だな」

 二人が心持ち声を低くして会話を交わしていても目覚める気配がない八戒に悟浄と三蔵は一緒に視線を向けた。

「しょっちゅう腹すかして叫ぶチビ猿に何だかんだ言いながら台所で食い物を作ってやってたからな〜。麻雀はほとんど勝ち逃げだし。はは、参るね。んで、そ の猿はまだ寝てんのかよ」

「ああ。一番騒いだヤツと一番働いたヤツが揃って寝てやがる」

「しょうがねぇな〜。おい、三蔵様、お前、ちょっと湯、沸かせ。俺はたしか棚にしまってあるコーヒーの粉、探すからよ」

「・・・チッ」

 二人は台所に入り、三蔵が素直にやかんに手を伸ばすのを確かめた悟浄は棚の扉を開けて整理が行き届いている中を覗き込んだ。

「ホラ、あったぞ、コーヒー!やっぱ最初からここに住んでんのは俺だしな。早々迷子にはならねぇ・・・・」

 気のせいか語尾が小さくなっていく悟浄を一瞥した三蔵は片方の眉を上げた。

「で、フィルターは」

 棚の中はいつでもすぐにコーヒーがいれられるようにあとはフィルターをセットするばかりに準備が整っていた。3つ並んでいる小ぶりの袋には八戒が数日前 に豆を挽いたばかりの粉がひとつずつ名前を書いたラベルを貼られてきちんと収まっている。
 悟浄はすばやく隣りの扉を開け、さらに棚の周辺に目を走らせた。

「湯が沸くぞ」

「るせぇな。すぐだ、すぐに見つけてやる!」

 三蔵はそんな悟浄の様子を横目で見ながらちゃんと四人分伏せて並べられていたマグカップをひっくり返して並べ直した。この場所が八戒の領域であることは 一目瞭然だった。清潔で整えられた調理器具、調味料、食器の類。埃ひとつ入る隙はない。この中で悟浄の領分といえば・・・おそらく棚の上に無造作に積み重 なっているハイライトの箱と片隅の床に置かれた蓋が開いた缶ビールの箱だ。気が向くままに煙草を買い置きビールを冷蔵庫に入れて冷やし、それだけで満足し きっている悟浄の様子が想像できた。残りはすべて八戒が。それがこの二人の間に自然に決まった陣地の形。
 三蔵はふと寺の彼の執務室を思い浮かべた。この間悟空が嬉しそうに持ち帰ったコーヒー・ミル。それを悟空にやったのは八戒らしく、悟空はずっと豆を挽く 八戒の姿に憧れていたらしかった。あの日から悟空は毎日はしゃぎながら豆を挽く。寺院内では基本的にコーヒーは無用の刺激物であり嗜好品とみなされるから 三蔵は数日に一度くらい自分でコーヒーを淹れればいい程度だ。だから、悟空が挽いた粉はどんどん溜まる。もうパンパンになった袋がいくつになっただろう か。
 それでも悟空はまだ豆を挽く。その豆の出所が何度もせがまれるのに懲りてある日三蔵がこっそり背負って帰った大袋である・・・ということはあまり思い出 したくはない。

「ったく、どこにあるんだよ・・・ひょっとして昨日飲んだときが最後のやつで切らしちまってるとか・・・・」

 いや、それはない。悟浄の呟きを聞きながら三蔵は思った。最後の1枚だったとしても八戒はおそらくすぐに買い置きを補充しておいたはずだ。
 三蔵はフィルターの面積を頭に描きながらぐるりと台所の中を見回した。そして、さり気なく置かれた蓋付の缶に手を伸ばした。

「あ・・・?」

 三蔵の手がパカッと蓋を開けると中に整然と詰められている白いフィルターが見えた。三蔵が無言でそれを悟浄の顔の前に突き出すと悟浄は唇をゆがめて頭を 掻いた。

「マメなんだよな〜、あいつ。なんだ、わざわざ箱から出してこんなとこに入れてたのか」

「フン」

 悟浄の手に缶を渡すと台所の入り口に戻った三蔵は壁に背中をもたれて傍観を決め込んだ。

「ハイハイ。ったく、俺が淹れりゃいいんだろ。味は保証しねぇからな」

 無造作に茶色の粉を入れその上からやかんの湯を注ごうとした悟浄を止めたのは聞きなれた爽やかな声だった。

「ダメですよ、悟浄。ドリッパーもポットも温めて、粉の量をきっちり量って、沸騰したお湯は火を止めて2、3分そのままにしておきます。それから先ず、粉 全体が湿る程度にお湯を注いで少し蒸らすんです。そうするとしないでは味わいと香りが断然違ってきますよ」

「・・・お前、ずいぶん突然なやつだな」

 悟浄は素直に八戒に言われるままに最初からやり直し始めた。

「一日の最初のコーヒーにはちょっとだけこだわりがありますから。さて、そろそろ粉の準備が整った感じですね。そうしたらゆっくりと『の』の字を書くよう にお湯を注いでください。ドリッパーの淵からふんわりと天辺が盛り上がっている状態を保ってくださいね」

「・・・こうか?」

「そうそう、上手ですよ。ほら、いい香りがするでしょう?」

 まるで教師のような八戒と生徒のような悟浄。
 三蔵は黙ったままテーブルに移動すると椅子に浅く腰を下ろし右ひじをついた。気がつけば陽光の中で何となく八戒が語ったドリップの手順を頭の中で復唱し ていた。これでは彼も悟浄と同じだ。

「さあ、とても美味しそうにはいりましたね。最後にちょっと温めてからカップに注いでください」

「あっためんのか?」

「ドリップしている間にどうしてもすこし冷めてしまうんですよ。最初の一口はやっぱり熱々じゃないと」

「へぇ〜」

 なるほどねぇ、と呟きながら悟浄はカップ3つに琥珀色の液体を注ぎ、八戒がトレーにのせて運び出した。

「あれ・・・」

「どうした?・・・って、今度はこいつが寝てんのかよ!」

 さっきまで八戒が眠っていた席の向かい側。右腕に額をのせて三蔵の金色の頭が突っ伏していた。隠れている顔の表情はわからないが肩がゆっくりと上下して 規則正しい呼吸が行われていることを告げている。

「気持ちよさそうですね〜」

「俺はさっきもそう思ったぜ」

「あはは、失礼しました。でもね、あの体勢でずっと寝てたからちょっと身体が痛いかな。きっと三蔵は大丈夫ですけどね」

「なんで?」

「ふふ。わかりませんか?」

 八戒は柔和な微笑を浮かべ、悟浄は首を傾げた。
 空腹に耐えかねた悟空が三人の耳をろうせんばかりの大音声を張り上げながら飛び込んできたのはそれからちょうど10分後だった。

2006.4.26

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