雨のち晴れ

 雨の音がまだポツポツ聞こえてた。
 三蔵は雨の日があまり好きじゃない。だから、部屋の中にいる時はできるだけおとなしくしてる。
 でも、あの山にいた時は。雨は時々友達みたいな気がした。あの牢の中にいると外のいろんな音はすげぇ小さくしか聞こえなかったけど、雨が地面に落ちるの を見てるのは案外面白かったんだ。落ちて、跳ねて、ちょろちょろってちっちゃな川みたいに流れはじめて。なんでだろう、あんな雨の中でびしょびしょになる まで遊んでたことがあったような気がした。
 バシャッバシャッ。
 水溜りに飛び込むと面白ぇんだ。どうしてかわからないけど、すんげぇ笑いたくなってさ。
 今朝も三蔵はさっさと仕事しに行っちまったから、俺はずっと窓から外の雨を見てた。見てるうちにわくわくが抑えられなくなってそのまま外に飛び出した。
 バシャン!
 いい感じの水溜りができてて、右足を突っ込んだら水がすげぇ高く跳ねた。それからそっち、あっち、向こう、その次。水溜りをピョンピョン飛んでくと、庭 中を探検できた。

「・・・何やってんだ、この馬鹿猿!」

 首の後ろを掴まれて一番大きな水溜りから引っ張り出された。三蔵。怖い顔で俺を見てる。けど、それだけじゃない気がして・・・・

「ごめん!三蔵。俺・・・三蔵がここまで来なくても呼ばれたらちゃんと帰ろうって思ってて・・・」

「どうだかな。とにかく、さっさと中に入るぞ。濡れついでだ、水を浴びてちゃんと着替えて来い」

「へへ」

「何を笑ってる」

「俺を怒ってる時は、三蔵、雨でもいつもと同じだな」

「・・・毎度のことだが、人語を喋れ。全くわからねぇ」

「ちぇ〜っ!」

 それから水を浴びに行ったらなんでか湯を沸かして持ってきてくれた坊さんがいたりして、耳の後ろなんかもしっかり洗わせられた。疲れた。三蔵の仕事の部 屋に戻ると三蔵はまた手に紙をいっぱい持っていて。

「・・・・書類に近寄るなよ。濡らしたら殺すぞ」

 うん。わかってるよ、三蔵。俺、今、何だかほわほわした気分だし。
 窓のそばに椅子を引っ張っていって座った。三蔵の真面目な顔がよく見える。大好きな金色の髪も。

「なあ、三蔵・・・」

 腹へった。言うより先にあくびが出た。三蔵はちょっとこっちを見て、またすぐに紙に戻った。
 パラパラパラ。
 まだ、雨の音が聞こえる。さっきよりも小さくて軽い音になったけど。
 大丈夫だよ、三蔵。俺、窓のそばでこうやって座ってるから。雨なんか、部屋の中に入れないから。
 三蔵の指が動いた。口もほんの少し。ああ、煙草、吸いたいのかな。
 俺はまた金色の髪を見た。




「な〜、金蝉、腹へった!」

「・・・あのなぁ、お前は今日すでに2食を食い終わり、3食目もあと2時間もしないうちに食えることになってる。ついでに言えば天蓬がお前にと置いていっ た菓子も丸ごと平らげたんだったよな?それを思い出したら少しは我慢ってものをしろ」

「だって・・・・すっげぇ腹へったんだもん」

「ったく、どんだけデカイ胃袋をしてやがるんだ、お前は」

「・・・・イブ・・・クロ?何だ?それ。食える?旨い?」

「猿の胃袋なんぞ、食うやつがいるか」

「ああ!もう〜!食うとか食えるとか・・・俺、すっげぇ〜〜〜腹へった〜〜〜〜!」

 まったく、どうしてこの猿は。
 金蝉は悟空と出会って以来毎日のように思う疑問をまた心の中に思い浮かべる。大地から生まれたというこの生き物は育ち盛りだか何だか知らないがとにかく よく食べる。よく笑う。騒ぐ。ごねる。拗ねては金蝉の身体に抱きつこうとする。天蓬と捲簾と知り合ってからは悟空も結構出歩くようになって金蝉が一人きり でいられる時間も少しは戻ってきたが、そうなればなったでなぜか以前と全く同じというわけでもないらしい。それが少々面白くない。

「ああ、もう、煩ェ!」

 立ち上がった金蝉を怖がる様子はなく、悟空は大きな瞳を輝かせて金蝉を見上げた。

「金蝉、俺、大盛り!腹へってるからちょっとくらいまずくても山盛り食べれる!」

 まったく、どうしてこの猿は。
 金蝉は小さくため息をついた。なぜ悟空は時々金蝉の次の行動を読んだような言動をするのだろう。できるのだろう。そんな風に子どもの目からも読みやすい ほどに単純だっただろうか、自分は。何を考えているかわからない、とか。遊びの一つも知らない飾り人形とか。そんな風に言われていることは知っていたけれ ど。それで上等じゃないかと思っていたのだが。先に死すらない人生は区切りも変化も面白みもなくただ日々が同じように過ぎていくだけで、倦怠感ばかりが溢 れていたはずなのに。
 金蝉はゆっくりと足を動かしはじめた。厨房に行けば適当な材料は常に揃っている。心配する必要もないのだか、葱・・・・はちゃんとあるだろうか。あれが ないラーメンはこだわりのない金蝉にもひどく間が抜けて感じられるのだ。

「えっへっへ。ラーメン、ラーメン!」

 後ろから小躍りしながらついてくる悟空の気配が余りに明るく陽気で。そうさせているのが自分だと意識すると思わず口元が緩みそうになる。
 チビで単純な猿。
 ジャラジャラいう鎖の音があまりにも不似合いだ。

「これはこれは・・・金蝉童子様!」

 厨房の中で一人火の守りをしていたらしい男がすっくと立ち上がり、深々と頭を下げた。
 苦手だ。意味のない名前に頭を下げられることが。天蓬や捲簾のようにその武勇や知識の深さを認められている存在とはまるで意味が違うと感じる。自分は書 類に判子をつくだけの存在価値しかないのに。
 金蝉は軽く手を左右に振った。

「少しだけ厨房を借りる。外へ出て構わないぞ。火の始末はできるから」

「は・・・はい!ではお言葉に甘えて茶の一杯でもいただいてまいります」

 男は首を傾げるようにして悟空の顔を覗き、それからさらに首を左右に捻りながら廊下に出て行った。

「なんかさ、ずいぶん俺の顔をじ〜っと見てったな。なあ、金蝉、俺、どっか変?」

 悟空の金晴眼。首と両手足に架せられた鉄輪と鎖。誰もがそれだけでこの幼い姿を異端の者だと知る。先行する噂にも彩られた結果、あれらの目に悟空はどの ように見えているのだろう。

「煩いほど腹を減らしてるのがわかったんだろうよ。いいから、お前はその辺から丼を持って来い」

「わかった!」

 零れるような笑みを残して悟空は棚を覗きに走っていった。喜ばせるのも怒らせるのもしごく簡単な猿。
 金蝉はゆっくりとした手つきで葱を刻みはじめてから、先に湯を沸かすべきだったかと思い当たった。鍋を火にかけてから葱の続きに戻り、満足できるほどの 量を切り終えた時にはぐらぐらと湯が煮え立っていた。

「金蝉、沸いてる!お湯、沸いてる!」

「るせェ、見えてる」

 およそ2人分程と見当をつけた量の麺を湯の中に落とし、それから菜箸を探した。見つけた頃には麺は団子になりかけていて、手早く必死でそれをほぐした。 どうやら、普通は麺が浮きはじめたら茹でるのをやめるらしいが、金蝉自身は柔らかめの麺が好みだ。だからもう少しいいだろう、と泳ぎはじめた麺を観察す る。

「金蝉、俺、今日はいつもより硬いヤツがいいな」

 ・・・猿のくせに生意気な。こうなったら意地でもさらに時間をかけてやろうと心に決める。

「なあ、金蝉〜」

「煩いぞ。手元が狂うから離れておとなしくしてろ!」

「ちぇ〜っ!」

 悟空は素直に火に向かう金蝉から離れ、近くに置かれていた踏み台に座った。
 黙ってればすっげェ綺麗なのにな、金蝉。
 背の高い姿に纏った白い服のおかげで一層映えている長い髪。時々、金蝉が眠った後にこっそりと手で触ってみる憧れの金色。金蝉の姿を眺めている悟空の唇 に小さな微笑が浮かんだ。
 なあ、金蝉、俺さ・・・・・
 柔らかな小さな表情には気がつかずに、金蝉は熱い湯と湯気と戦っているようだった。




「・・・・あれ・・・・三蔵、髪、切った?」

 椅子の上で身体を丸めて眠っていた悟空は目を開けると身体を伸ばした。瞼の裏の残像はあっという間に薄れて消えていく。

「何寝ぼけてんだ、猿」

 見れば三蔵の手に紙はなく、机の上に綺麗に積み上げられた一山があった。どれだけ眠ってしまったのかはわからないが、もしかしたら三蔵は悟空の寝顔を眺 めていたのかもしれない。そんな風に感じた悟空は笑いながら頭を掻いた。

「あのさ、夢の中でさ、三蔵、髪がすごく長かった・・・・みたいな気がする。金色でキラキラなのは同じだったけど。長いのもすげェ似合ってた」

「・・・・勝手に人を変装させるな。そんな夢を見ながら涎を垂らしてたのか、お前は」

「う〜ん・・・・・なんかさ・・・・食ってた気がする。あんまり旨くねェんだけど腹がいっぱいになってしあわせなもの!」

「500年分の空腹、か」

 三蔵は悟空の笑顔を見た。なぜか頬を摘んで左右に限界まで引っ張ってやりたい気がした。

「三蔵、腹へった!」

「予想通りだな。ったく、わかりやすい胃袋だ」

「イブ・・・・クロ?」

 その言葉を聞いた悟空の顔から笑みが静かに消え、その代わりにどこか遠くを見るような、何かを思い出そうとしているような表情が浮かんだ。

「それって・・・・食えたっけ?」

「猿の胃袋なんぞ、誰も食わん」

「へへ、そっか〜」

 なぜだろう。
 悟空は一瞬痛んだ自分の胸の上に手を置いた。
 その様子を見た三蔵は目を細めた。
 記憶に残っていないはずの消えてしまった時間。
 自分とは違うはずの他人が生きていたはずの時間。
 ふとした時に感じることがある捉えどころのないその感覚を、二人は同時に心の中から振り払った。

「三蔵、俺、ラーメン、食いてェ!」

「却下。夕飯まで待て。もうじきだ」

「三蔵、散歩行こう、散歩!」

「却下。肉まんも大福も買う気はねぇ」

「んもう〜〜!三蔵〜〜〜〜」

 戻ってきた時間を楽しむように二人はいつもと似たような会話を続けた。
 いつの間にか空は晴れ上がり、黄昏時の彩りに染まりはじめていた。

2007.1.8

お題最後
りかりんさんからいただいた誕生日リクエスト
「金蝉が時々作ってくれるまずいラーメン」
長いことお待たせしてしまいました
よく考えたらラーメンそのものには会えなかったですが
一度書いてみたかったんです、少しだけ感じるそれぞれの時の流れ
外伝はいよいよ最後に向かって加速し始めた気もしますし、
本編はギリギリのところが続いています
そんな中で日常のほんのひと時がものすごく愛しく思えます

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