臙(べに)

 喧嘩は4人の中では日常茶飯事である。悟空と悟浄、悟空と三蔵、悟浄と三蔵。悟空・悟浄・三蔵の3人は時により自由自在に組み合わせを変える。その中に八 戒もいつも当たり前の顔をして存在しており、『怒らせたら怖い人間』としては三蔵の銃に匹敵するほどの存在感がある。しかし、ふと冷静に考えてみれば。そ こまで考えて悟浄は口をすぼめて細く煙を吐いた。

「喧嘩、じゃねェんだよな、あいつのは・・・・」

 自己主張して互いに言い合い怒鳴りあう喧嘩と、八戒の普段のそれとは微妙に違う。八戒のそれは『復讐』だと他の3人は時折口にする。何か、言葉のはずみ や行動が八戒の中のセンサーに触れて八戒を怒らせ、それを八戒はその場ですぐにぶつけるのではなく熟慮の末に別の形に変えて行動するのである。
 例えば・・・・先日それこそ言葉のノリで『じじむさい』という言葉を八戒に向けてしまった悟浄は、その後一見別の流れでなぜか1人チクチクと言葉遊び ゲームのようなもので餌食になったのだが。どうやら悟空と三蔵には八戒がそのゲームを始めた理由と目的を分かっていたらしかったが、悟浄は後々になるまで 半信半疑でいた。どうも自分だけがいじめられている気がしながら、八戒が笑顔で「そんなことありませんって」というのを聞いてしまうと確信が持てなかった のだ。
 だから。そう。八戒のそれは『喧嘩』ではない。八戒は3人のような単純な喧嘩ができるタイプではないのかもしれない。
 ならば、八戒の『喧嘩』とは。
 悟浄はもう1本、煙を吐いた。

「・・・てめェの部屋は隣りだろうが。ったく。巻き込むなよ、こっちの部屋を。俺はもう眠てェんだよ」

 見上げると、右側のベッドの上で同時に煙を吐き終わった三蔵の深い紫色の瞳があった。

「ほんと、9時過ぎたらすぐにおねむだもんねェ、三蔵様は。それがしっとり色白お肌の秘訣ってヤツ?」

 三蔵は何も言わなかった。
 怒りの反応を見せる価値がないほどしょぼくれて見えるのだろうか・・・・悟浄は溜息とともに自分の身体を見下ろした。

「何だよ、悟浄、どうかしたのか?なあ、まだこっちにいるならトランプでもしようぜ?」

 左側のベッドから覗いてくる悟空の笑顔の中にはどうやら何かを感じているらしい気配があった。
 お前らにそんな顔されるようじゃ、まだまだだな、俺も。
 悟浄はゆらりと立ち上がり、悟空のベッドに仰向けに寝転んだ。

「もう1本、煙草、吸わせろ。そしたら行くからよ」

「もう!ったく、ベッドに灰、落とすなよ?」

 悟空の言葉と同時に三蔵が自分の煙草を捻りつぶしたあとの灰皿をポンと悟浄の顔の横に投げた。

「とにかく、そこの河童が出て行ったらとっとと灯りを消せよ、悟空」

 そう言って布団に潜り込んで2人に背を向けてしまった三蔵に、悟浄はニヤリと笑った。

「へぇへぇ、有難いことで。眠れなかったら子守唄、歌ってやろうか?」

 三蔵は返事をしなかったし、悟浄もそれは予想していた。
 寝転がったまま天井を見上げ、煙草を一吸いする。悟空はもうトランプをねだりはしない。黙って悟浄の周りの空気を感じている。
 八戒とよ、どうやら喧嘩しちまってよ。
 胸の中に浮かんだ言葉を悟浄も口にすることはない。
 自分だけがこの2人に言う訳にはいかないから。自分ひとり心の重さを少しでも先に下ろすわけにはいかないから。
 フウッ。
 吐いた煙はゆっくりと宙に拡散した。




 ノックはせずにドアを開けた。
 想像していたのとは全く違う、真っ直ぐに向けられた翠瞳が悟浄の顔を射抜いた。その真摯さに驚いた悟浄は、ただそれを受け止め、何秒か過ぎてからやっと 口角を小さく上げた。

「お前との喧嘩は怖ェな。できれば滅多に体験したくないモンだ」

 口でなら、言葉でならいくらでも悟浄を負かすことができるはずの八戒が、あの時、強い視線を向けた後で沈黙と共に背を向けた。なぜかひどい焦りを感じて すぐにその姿を追いかけ前に回りこんだ悟浄は、それでもやはり沈黙を返すことしか出来なかった。
 沈黙と沈黙。
 そのぶつけ合いはどんな暴力的、意味深な言葉よりも深く互いの胸を抉り、身体と思考をがんじがらめにした。

「だって・・・・あなたがあんな風にあなたを見ている女性と・・・・あんなに軽く遊ぼうとするから・・・・」

 ねぇねぇ、よくわからないんだけど、アンタのその赤い髪、キンキとかいうスゴイもののしるしなんでしょ?やっだァ、目も赤いんだ。すごいわねェ。ねぇ、 キンキの人って、女を泣かせる腕もモノスゴイってホント?もしホントならさ、アタシを天国に連れてってよ。イイ思い、させて?

 恐らく一言一句違わずに八戒の耳が覚えているはずの女の言葉を、悟浄はほとんどまともに記憶していない。別に初めてではないのだ・・・・あの手の誘いを 受けるのは。以前はいちいち『赤』という言葉が癇に障って不機嫌な顔を見せたりもした。けれど、実際に髪が赤いことは変えようのない事実なのだから仕方が ないのだと分かっていた。なら、その赤さに何やらおかしな想像をしてホイホイと身体を差し出す女の誘いにのってやるのも一興ではないか。誰も損するわけで はなく、お互いにちょっとイイ思いができればそれでいい。いつの間にか悟浄の頭にはそんな思考回路ができあがっていて、だからいちいち自分に向けられた言 葉を細かいところまでなんて記憶する必要もなかったのだ。
 けれど、八戒は。
 慣れていないのは当然だし、まるでそのことに傷ついたような顔をし、それから女に身体の芯まで凍りつかせそうな視線を向けた後、女の肩に手を回しかけて いた悟浄の顔を見た。普段は区別がつかないほどの出来の義眼も、あの時はまったく本物の瞳とは違っていた。本物に溢れている力強さや光が義眼を圧倒してい た。

「あのなァ・・・・・俺のことだろ?俺の、俺だけの話じゃねェか。なんでお前がそんなに・・・・怒ったり傷ついたりしてんだよ。俺はあのおネエちゃんに 『噂』通りの腕前を証明できていい思いができればむしろ得なんだよ。だろ?」

 悟浄は八戒の視線に促されベッドに腰を下ろした。それと入れ替わるように八戒はドアに向いていた椅子から立ち上がり、ゆっくりと悟浄の前に歩いた。

「・・・・はっ・・・・かい?」

 八戒は静かに手を伸ばして悟浄の髪を一房手に取った。手の平にのせたその髪をじっと見つめる八戒の顔にいくつもの小さな感情の動きが通り過ぎ、やがてそ こにはやわらかな微笑が浮かんだ。

「臙色、という言い方も似合うかもしれませんね」

 べに、という耳慣れない響きに悟浄はゆっくりと首を傾げた。

「それは・・・・アレか?口紅、とかの『べに』?」

「う〜ん・・・・僕が思っているのはもう少し複雑な文字の『べに』なんですけどね。べにという色の赤さは実は一種類じゃなくて、花が原料のものとある虫の 雌から原料を採取するものがあるんですよ。臙脂(えんじ)、と言ったほうがわかりやすいかもしれませんね」

「・・・・なんとなく、しかわからねェ」

 八戒は声を出して笑った。

「いいんですよ、悟浄。僕が勝手に思って想像しただけなんですから。さっき不本意にも僕の中に満ちてしまった冷ややかさも熱さも丸ごと僕だけのものですか ら。あの時、自分でも驚くくらい余裕がなくて思わずあなたにぶつけちゃいましたけど・・・・・あんなことすべきじゃなかったです。僕は、喧嘩、好きじゃあ りませんから」

 悟浄の名を八戒はこの上なくやわらかく呼んだ。悟浄はそこに含まれている残留する痛みを感じ、思わず目の前の八戒の手に己の手を重ねた。

「どうしたんです?悟浄」

 笑う八戒の手をそのまま強く引き、倒れ掛かる八戒と身体を入れかえてベッドに押し倒した。八戒は少しも抵抗しなかった。

「ほら・・・・やっぱりあなたも傷ついていたんじゃないですか。僕に隠したいならもうちょっと技術を磨いてくれなくちゃ」

「・・・・お前が思ってる傷つき方とはちっとばかり違うかもしれねェけどな」

 女の言葉そのものには、多分、やはり傷ついてなどいないのだ。あの女の言葉に傷ついたのが八戒だったから・・・・八戒を傷つけたことが堪え、居ても立っ てもいられない気分になったのだ。
 悟浄はそっと八戒の身体から手を離し、隣りにゴロリと横たわった。

「喧嘩は難しいですねぇ」

 八戒が呟いた。

「特に、お前みてェな、一度喧嘩しちまったらどっかのどん底にたどり着くまで戻って来れねェんじゃないかと思っちまう相手とはな」

 悟浄が呟いた。

「おや?悟浄、あなた、やっぱり僕が怖いんですね?」

 笑みを含んだ八戒の声に、悟浄は笑みを返さなかった。

「怖ェよ。・・・・ものすごく怖ェ」

 その囁きに八戒は驚いて起き上がり、悟浄の顔を覗きこんだ。

「・・・・悟浄?」

「な〜んつってな!ハハ、本気にしたか?迫真の演技だったろ。負けっぱなしじゃ悔しいからよ」

 一瞬見開かれた八戒の目がふっと和んだ。
 やがて再び隣りに感じた八戒の体温と呼吸を、悟浄は目を閉じて全身で受け止めた。
 深まる唇の曲線を抑えられず、煙草の代わりに口笛を吹いた。

2007.10.14

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