古木は煙る夜霞の中、ただ当たり前のようにそこに生えているように見える。近づくに連れてその輪郭が鮮明になり、実はそれが己の纏う静寂さとは違って盛り というべき時期にあるのだとわかる。それがバレてしまったからというわけでもないのだろうが、空気が流れ風が生まれ始めた。動き出した霞と一緒に三蔵の頬 に触れてから地に落ちたのは淡い色の花弁だった。
とっくに騒いでいてもおかしくない、いやむしろ正常なはずの悟空は口を開かなかった。
悟浄は空を振り仰いで昇りかけているはずの月を探した。
八戒は頬に指を触れる三蔵の仕草を黙って見守った。
春という季節。
それをこんなにも意識させる花が他にあるだろうか。
眺めようによってその人の心を穏やかに包みもしよう、ざわざわと心の底を掻きたてもしよう、酔わせもしよう。そんなこの存在の下に集おうとしている自分 たちは、何を感じようとしているのか。
先頭を歩いていた三蔵は1人先にその下に立つと節くれだった幹に右手を触れた。その微細な振動が伝わったのか、或いは吹きぬけた風のせいか、枝たちが 揃って揺れた。
「・・・冷てェ」
恐らく丸みを帯びた雫となって落ちた露に濡らされた三蔵の呟きが静寂を破った。
「・・・大丈夫か?三蔵!」
「・・・また見事に濡れましたね」
「・・・水も滴る・・・ってヤツ?ははっ、似合わね〜」
なぜか揃って囁きながら歩いてきた3人が枝の下に入ったのを確認してから、三蔵は再び幹に手を伸ばした。
「「冷てェ〜!!!」」
「おやおや、道連れ、ですか」
それでも、それ以上騒ぐ声はなく。
それぞれに見上げる視線を花たちは黙って受け止めた。
「あの繊細な花びらのひとつひとつが抱いていた小さな雫が集まって、僕ら、こんなに濡れてるんですよね。何だか不思議な気がしませんか?」
「・・・フン」
「こうやって下から見てもさ、すっげェキレイだな!」
「こうなったらよ、身体あっためるためにも、やっぱ酒の出番だな」
「だいぶ晴れてきましたし、今夜はここで野宿にしましょうか」
濡れ鼠なのに不思議と寒さは感じない。
三蔵はまた梢を見上げた。
何だろう、と思う。
なぜこんなにも惹きつけられるのか。
当たり前のように木の下に立つ自分たちを、その顔ひとつひとつを確かめたくなるのか。
「桜、か・・・」
一陣の風とともにまた花びらが流れていった。
盛りを誇りながら次の瞬間に散っていく潔さ。もしかしたらそこに惹きつけれらる人間もいるのかもしれない。今の自分のように。
「三蔵?」
見上げる金色の目の丸さに思わず三蔵の口角が上がってしまった。
「・・・馬鹿猿」
「んだよ、突然、ひっでェの」
口を尖らせる悟空の目には笑いが溢れている。
濡れた衣類に張り付いた花びらたちをそっと指先で摘み剥がしている悟浄と八戒の口元にも同じ空気が漂っている。
どこまで、いつまでかはわからない旅の中、今宵は桜の下で。
こんなに静かな夜はもうないかもしれない。
ポケットに手を入れた三蔵はそこまでで止めた。最初の1本は酒を飲んでからがちょうどいいかもしれない。
雲間から現れた月が地上を照らした。
その冴えた光も花びらにあたるとやわらかなあたたかさを帯びたように思えた。