木々のざわめき

 慶雲院の境内に植えられている数も種類も数え切れるはずがない木々。それが風に揺れて枝と鳴らすとその音は淀みなく流れる川の音に似て聞こえる時がある。 そうかと思えば嵐にも似て雷鳴が混じらないのが不思議にも思え、ここからは遥か遠い海の波しぶきを連想させたりもする。
 流れ行く雲の隙間から途切れ途切れに差し込む月の光の中、悟空は寝台の上に正座して窓の外を眺めていた。

(・・・怖いのか、この音が?)

 寝返りを打った三蔵は薄く目を開いて幼い後姿を見た。じっと座ったまま動かないその姿はまるで目に見えない鎖に縛められているようだ。山の頂の岩牢で彼 が解いた鎖と同じような。悟空はまた捕らえられようとしているのではないか。その身体に秘められた神にも等しい力のために。
 三蔵は片肘をついて身体を起こした。

「悟空・・・?」

「あ、さんぞ〜!」

 振り向いた顔と零れた声は三蔵の不吉な想像とは似ても似つかない笑顔だった。薄闇に似た想像は一瞬でどこかに消えた。

「・・・こんな夜中に何をしている」

「三蔵、聞こえるよな、この音!すっげぇなぁ。こんな夜にも音がするんだな〜」

 三蔵はその時困惑した。
 これはまたいつもの猿語なのだろうか。意味がまったく伝わってこない。

「音がするのは当たり前だろうが」

「だって夜中だぞ、三蔵。朝も昼も夜も夜中もちゃんと音がするなんて、すげぇよな〜、なんか全然一人じゃねぇな。一人ってさ、まったく音がしねぇもん」

 そういうことか。
 三蔵はようやく悟空の言葉の意味を理解した。
 岩牢の中は外界とは時間も含めてすべての意味で切り離されて封印された空間だったようだ。その中では時は流れず音も流れなかったのだろう。今の悟空に とってその静寂さが孤独を象徴するものになっているなのかもしれない。
 お前は一人じゃねぇだろう・・・今は。
 心に浮かんだ言葉は口から出すにはかなり抵抗があり、三蔵はすぐにそれを飲み込んだ。『一人』という言葉には物理的な意味と精神的な意味がある。たとえ 傍らに人がいても己一人である場合も多い。いやむしろそれが真理かもしれない。人はすべて生まれ落ちたときから一人なのだから。自由とか可能性という孤独 の中で。

「三蔵?」

 悟空の大きな瞳が返ってこない言葉を求めるように瞬いた。

「・・・頭沸かしてねぇで寝ろ」

「う〜ん、もったいないからもう少し」

 何が勿体無いのだか。
 再び身体を横たえた三蔵はこれまた再び彼に背を向けて窓の外に見入る悟空の姿を視界に入れた。風の音ひとつも楽しいか。ならば今夜はさながら自然の宴に 聞こえるだろう。

「なあ、三蔵」

 振り向かないまま悟空が言った。

「何だ」

「こんないろんな音の中でも俺の声って聞こえたの?」

「・・・ああ。煩くてしかたがねぇから一発殴ってやろうとずっと考えてたな」

「なんだよ、それ〜。もういっぱい殴られてるじゃん。一発じゃねぇよ!」

 意味が違うのだ、と説明するのはやめておいた三蔵だった。
 他の音とは聞こえ方も違ったのだ、ということも言わなかった。耳を通してただ通り抜けていく日々の音とは違い、悟空の声は直接、まっすぐに頭の芯に響い てきたから煩かったのだ。それは時に気持ちのどこかを駆り立てるような声で、だから尻の重い三蔵も負けてしまったのだと。

「なあ、三蔵」

 悟空はまだ振り向かない。

「・・・何だ」

「時々さ、俺にも三蔵の声が聞こえる気がするんだ。三蔵、ケチだから全然時々で、だからうまく聞こえねぇ時もあるんだけど」

「・・・あんだけ怒られてりゃ・・・そうだろうよ」

「そういうんじゃねぇって!・・・でも、だからさ、俺、外で遊んでてもいつでも三蔵のとこに帰れる」

「・・・寝るぞ、もう」

 三蔵は目を閉じた。振り向きそうになった悟空の後姿がそのまま瞼の裏に見えたから、寝返りをうった。
 窓の外から聞こえてくる絶え間ない木々のざわめき。
 その間をぬってふと、今は懐かしい声が聞こえた気がした。

2006.5.1

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