もうすぐ

 八戒の荷物には日常生活の必需品や思いがけない場面で役立つものや・・・数多くの場面と状況を想定したような道具や小物が入っている。

「さあ、悟空、こっちへどうぞ。失礼してちょっとこのシーツを借りちゃいますね」

 きっちり畳まれた予備のシーツをパンっと音をたてて広げた八戒はニッコリと微笑して悟空を促した。悟空はすでにどこかくすぐったそうな顔をして首を縮め ている。

「八戒〜、今日じゃなきゃダメ?」

「四人部屋になっちゃいましたが幸い部屋そのものは広いですし、ほら、まずは最初の悟空が終わらないと悟浄や三蔵が待ちくたびれちゃいますよ」

「・・・やっぱさ、俺も切んの?俺は伸ばしっぱなしが気に入ってんだけどな」

「・・・このままでいい・・・」

 重なる低音を気にする風もなく八戒はさらに笑みを深めた。

「悟浄、傷んだ毛先が目立ってきてますよ。三蔵もあんまり目に髪がかぶさってると銃の命中率に影響が出ます。今夜はみんなすっきりして寝ましょうね」

 静かな中に「本日の予定決定済み」の響きを含んだ八戒の声。これはつまり妖怪たちの奇襲でもなければこの決定は滞りなく実行される、ということだ。

「じゃあ、俺、いっちば〜〜〜ん・・・・・」

 口の中でモゴモゴと呟いた悟空が椅子に座ると八戒の手がすばやく悟空の身体にシーツを巻きつけた。それから彼が手縫いと思われるスリムな袋から取り出し たのは2丁の鋏。その髪切り鋏と梳き鋏は部屋の明かりを受けて銀色に輝いた。



「悟空の髪は本当に癖が強いですよね」

「三蔵もいっつも文句言ってた」

「へぇ・・・・・悟空の髪、三蔵が切ってたんですか?」

「切ってたっつぅか、ぶたれてたっつぅか・・・」

 口を尖らせる悟空の顔からその散髪光景が目に浮かぶ気がして八戒と悟浄は笑った。

「・・・てめぇが他の連中だと暴れて手がつけられなかったからじゃねぇか、このバカ猿!」

 一応反論する三蔵の呟きは鋏の鋭い音に消され、明るい茶色の髪が白い布の上に落ちていく。
 他の僧侶が嫌だというよりきっと三蔵がよかったんですよね。
 思った八戒だったがそれは言葉にせず口の中にしまい込んだ。



「悟浄の髪はとても硬いんですよね。とにかく真っ直ぐで」

「ん〜、俺ってほら、こう見えて心の中は素直でまっすぐな男だし」

 誰かさんとは違って。そんな視線を悟浄が三蔵に向けると三蔵はそ知らぬ顔で煙草に火をつけた。

「ほんと、そうですね」

 八戒は指の間に悟浄の毛先を挟んで丁寧に鋏を入れる。そうすると天然とは思えない紅の色がパラパラと布を彩っていく。禁忌の色。禁忌の手触り。けれどこ れはこんなにも真っ直ぐで鮮烈だ。
 前に悟浄は自分で髪をばっさりと切ってしまったことがある。それはもしかしたら・・・と八戒は思う。悟浄が髪を切ったのは猪悟能という男がこの世からい なくなった時期と一致する。そして悟浄は猪八戒という今の彼が生まれていたことを知らなかったのだ。
 思い上がり・・・かもしれませんけどね。
 八戒は小さく口角を上げた。



「ほら、次は三蔵、こっちへどうぞ」

「いや・・・・やっぱりいい」

「なんだなんだ、もう眠くなってんのか?ったく、三蔵爺様よ、寺ではいっつも何時に寝てたんだよ」

 三人の会話をまるで聞いていない悟空がどこか思いつめた様子で立ち上がった。

「なぁ・・・あのさ、俺・・・切っていい?三蔵の髪」

「はぁ?」

 疑問の声を上げる悟浄と鋭い視線を向ける三蔵。しかし八戒だけは納得していた。悟空は三蔵の金色の髪に微笑ましいのほどの憧れを持っていた。それは彼が 知り合ったときからずっと同じで、金色の髪を見上げる悟空の顔が眩しそうで嬉しそうで素直に可愛いと思っていたのだ。

「・・・俺は刃物を持った不器用猿に首を預けるほど馬鹿じゃない・・・」

「不器用じゃねぇよ!そりゃさ、髪を切ったことはないけどさ、でも俺、鋏の使い方は八戒からちゃんと習ったし・・・」

「ですよね。悟空の紙切り細工はなかなか上手でしたよ。・・・それに、実は悟空の癖毛と悟浄の硬い髪を切ったら、ちょっと僕の腕、疲れちゃったようなんで す。悟空が代わりに切ってくれるなら、ちゃんとそばで見てて教えてあげますよ」

「やっり〜」

「・・・お前ら・・・」

 眉間の皺を深くした三蔵に有無を言う暇を与えず、八戒はすばやくシーツを巻きつけた。三蔵の身体がわずかに反応し唇を噛んだことに気がついたが何も言わ なかった。
 ほら、三蔵。あなただって実は悟空の方がよかったんじゃないですか?わかってないのかもしれないけれど。
 三蔵は誰かに触れられることを極端に嫌う。それは相手が八戒や悟浄であってもほとんど同じだ。まったくの他人よりはましかもしれない。少なくとも彼が傷 で倒れた時に八戒の手でそれを癒すことはできた。悟浄がからかい気味にわざと三蔵の肩に腕を回すときもそれをはねつける動作は以前よりもちょっとだけ鈍っ たようにも見える。
 けれど、悟空は。
 もちろん三蔵は悟空でも同じように触れてくれば排除する。ハリセンで撃退する。
 けれど、なのだ。知り合ってからこの数年の間に八戒は何度か三蔵のそばに存在することを許されている悟空の、その距離のなさに驚いたことがある。距離が ないというのはちょっとちがうかもしれない。八戒がそう感じるとき、悟空は身体は三蔵の傍らにあって心はまるで三蔵の内側に受け止められているように見え たのだから。例えば、あの砂漠で。刻々と尽きようとしていた三蔵の命を助けるために本来の姿になって紅孩児に向かっていった悟空を鎮めた後、胸の上にのっ た悟空の頭をまるでそっと抱いているように見えた三蔵の手。瀕死の状態でありながら悟空をしっかりと受け止めている三蔵と己の存在すべてをあずけている悟 空。どんな力の持ち主であれ悟空はやはり悟空なのだとあの時ほど感じたことはない。

「なあ、八戒。どうやって切ればいいんだ?」

「そうですね、じゃあ、三蔵の髪を流れている向きに逆らわないで指ですくって、しっかり端を挟んだら毛先を2センチくらい切っていきましょうか」

「すくってって・・・こう?」

 静かに息をひそめるようにして悟空は三蔵の髪に指を入れた。
 三蔵は眉を顰めたがそれだけで何も言おうとはしない。

「うわ・・・すんげぇ・・・キラキラしてる」

 そっと動く悟空の手はまるで三蔵の頭を撫ぜてやっているようで、悟浄の口元がゆるんだ。

「るせぇ。切るならさっさと切って終われ」

「なんか・・・もったいねぇなぁ」

 シャキッ。
 思い切って一度鋏を閉じた悟空は思わず目も閉じていた。目を開くとシーツの上に散った髪が光っている。

「三蔵、痛くねぇ?」

「・・・いいから、さっさと終われ」

 悟空はまた静かに髪を指にとり、そっと鋏を入れた。

「もうすぐだからな、三蔵」

 繰り返す悟空の言葉に三蔵はかなり前、まだ慶雲院にいた時に悟空の髪を切った時のことを思い出した。くすぐったいだの何だのと動きたがる悟空に何度も 『もうすぐだから黙って座ってろ』と怒りをとばした。同じ言葉を何度も呟く悟空だが、言葉の響きは随分彼のものとは違う。一回一回、多分自分自身にも言い 聞かせているのだろう、悟空は。
 頭を動かすわけにもいかず、三蔵は首の辺りに疲れた痛みを感じはじめていた。それでもなぜかそのまま口を閉じたままでいた。

「一生懸命ですね、悟空」

「親子猿の毛づくろいってか?」

 誰が親子だ。三蔵は目を閉じた。悟空の手のあたたかさがすこしずつ場所を移動していくのがわかった。普段にはまったく似合わないほどの慎重さと丁寧さ。 切られた髪が落ちる軽い音。それは三蔵を次第に眠りに引きずり込む。

「もうすぐだぞ、寝るなよ、三蔵」

 悟空の声にふと我に返るが目を開けるといかにも眠りかけていたのを認めるようで面白くない。三蔵はそのまま目をつぶり続け、やがてまた意識が遠のいてい く。

「ああ、もう、三蔵!もうすぐなのに〜」

 それでも悟空は慌てずに大切そうに三蔵の髪を切り続ける。

「なんかよ、見てるこっちまで疲れてこねぇか?」

 別に見ている必要はないのだということに気がついていない様子の悟浄に八戒は微笑した。

「もうすぐ、だそうですから待ってあげましょう。そうだ、三蔵が終わったら次は悟浄、あなたが僕の髪を切ってくれますか?」

「・・・俺がか?」

「ダメですか?」

「ん〜」

 悟浄は少しだけ短くなった髪をかき上げた。

「いいけどよ。・・・お前の髪、素直そうだから切りやすいかもな」

「どうでしょう。こう見えて結構強情かもしれませんから気をつけてくださいね」

「んじゃ、まんまお前じゃん」

 悟空の『もうすぐ』はまだ続いている。どうやら三蔵は頭をまっすぐにしたまま眠るコツを見つけたようだ。そのどちらが今、より幸福なのか。八戒の目には 両方とも負けていないように見えた。

2006.5.10

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