机上の影

 白い紙の上に文字・内容とも四角四面な文章が飽きもせず続く。そんな書類が集まった束の上から十枚ほどにまとめて印を押し終わった三蔵は唇の間からふぅっ と短く息を吐いた。 慶雲院という大寺院はここ一箇所だけですでにひとつの大きな組織とも言え、その中を一日で百を越える数の書類が行きかい、最終的にそ のほとんどが統括責任者である三蔵のところにあがってくる。極端な例をあげれば、ある一室に安置してある仏像の位置をわずか数センチ移動する件に関わる申 請書及びそれに添付された状況説明、申請する理由等々を綴った書類。当然三蔵はその仏像を自分が見たことがあるのかさえわからない。わからないままに印を 押し、決済終了の箱に入れる。こんなことは口頭で一言確認をとればいい話ではないか。さらに言えば三蔵の許可が必要な事柄とも思えない。その部屋を担当し ている小坊主なり何なりが作業がやりやすくなって満足すればそれだけでいいはずだ。三蔵はそう思う。それでも日々、書類はやってくる。僧侶たちは最終決定 を下したのが三蔵であることに・・・何があっても最終責任は三蔵にあることを確認して満足したいのだ。
 責任者の仕事なんて大半はそんなものだ。それを知っているから三蔵は黙って印を押す。書類の山の原因は三蔵がまだ年若いことにも原因がある。それか ら・・・三蔵法師であることにも。もしかしたら髪が金色であるということにも・・・常に銃を携帯しているということにも。
 つまり、三蔵は責任者であり最高僧であると同時にある種の異端の色を帯びて見える存在なのだ。逆に言えば三蔵が三蔵法師であり最高責任者であるからこの 寺院に存在を許されているとも言える。そうでなければ・・・。その先が容易に想像できるから三蔵には時々この寺院におけるすべてが茶番に見えて仕方がな い。

 組んでいた腕をといた三蔵は、ふと、残りの書類の山の上で微動した黒い影に目を留めた。見上げれば深い翠瞳が大きくひとつ瞬きをした。

「まだまだたくさんありますね、書類。三蔵も大変ですね」

 同情しますよ、という微笑を浮かべた整った顔の持ち主、猪八戒。今日も悟空の家庭教師として慶雲院の門をくぐってきた。嬉しそうに出迎えた悟空は今日も なるべく沢山の笑顔と誉め言葉を得るために手足の指を全部使って算術に取り組んでいる。それを見守る八戒の顔には常に悟空が顔を上げた時に優しく受け止め るための笑顔が浮かんでいた。
 しかし。
 無言で目を向けたままの三蔵の前で八戒の微笑がほんのわずか、揺らいだ。
 やはり、そうか。
 三蔵はなにか納得できたような気分になって袂から取り出した箱から煙草を一本ふり出した。

「三蔵・・・?」

 煙草を吸わない八戒はライターを貸すことも火をつけてやることもできない。ただ黙って三蔵が煙草に火をつけて静かに一口吸うのを見ているしかない。こん な時の八戒の顔に三蔵は苛立ちを読み取ることができる。そしてそれに満足のようなものを感じる。

 人間と妖怪の大量虐殺、という陰惨な事件に絡んで初めて八戒と出会ったとき、その礼儀正しさと己の心と状況を冷静に分析している姿に高い知性を感じた。 それと同時に八戒が・・・猪悟能がそれまでにやってきた殺戮をかえりみてその内側に秘められているはずの熱い情の存在を強く意識した。人間が妖怪にな る・・・そのことの原因は未だにはっきり解明されたわけではない。ただ、その原因が八戒自身の中にあることは確かだった。
 それから裁きが決まるまでの間に八戒が自ら語った事の詳細。三蔵はそのすべてを聞いた。そして助命を願い出た。その時の八戒の顔には確かに謝意が溢れて いた。闇の中に真っ直ぐ差し込んだ光を見つけそれを見失わないようにしっかりと見据え・・・ただ、あったのはそれだけではなかったと三蔵は思っている。

「三蔵?」

「・・・ああ」

 微笑の中に戸惑いを隠して軽く覗き込む八戒の顔に視線を返す。この、三蔵の前にいる己を深く愛しすぎた男。人の前では己を完璧に見せることを好み、己が 選んだものに徹底的にこだわる男。己自身が憎い妖怪に成り果て生きていかねばならない男。そうしていつの間にか自分を憎むことも覚えていた男。
 すべてが終わった時に失われるはずだった命を生かされたことをこの男は恨んでいる・・・ほんの時たまではあるが。さっきのような一瞬に三蔵はその感情の 気配を読む。そして銃口を己の頭に当てながら生きていた時を思い出す。

「どうかしましたか?」

「いや」

「そうは思えないんですが・・・」

 その先を八戒が言いかけたとき、やっと与えられた問題の答えを見つけたらしい悟空が全開の笑顔で走ってきた。

「八戒〜!やっとできた。あのさ、答え、14?14であってる?」

 虚を衝かれたような一瞬の無表情。そしてふわりとそこに現れた優しさ。偽りが含まれている余地のない微笑。

「よくできましたね、悟空。大正解ですよ」

「やっり〜!なぁなぁ、聞いた?三蔵」

「・・・ああ」

 ピョンピョン跳びはねて喜ぶ悟空の頭上、三蔵と八戒の視線が再び出会った。

「三蔵?」

 不審そうな八戒の顔を見た三蔵の唇に見えないほどの笑みが通り過ぎた。
 ひとつ、忘れていた。猪悟能から猪八戒に変わるきっかけを与えた三蔵を八戒が苦く思う理由のひとつは多分、負けず嫌いだ。誰かに何か借りがあると感じら れる状態を八戒はきっとひどく苦手だろう。この男は一見素直そうに見えて実はなかなか曲者だ。だから先を見たい気分にさせられてしまうのだ。生き様・・・ のようなものを。

「なんでもない」

「・・・おかしな人ですね、あなたは」

「お前ほどじゃ・・・ねぇがな」

「敢えて反論はやめておきますね」

「そうしろ」

 再び書類に向き直った三蔵は一番上の紙の上にある八戒の影を見た。
 光があれば影が出来る。人は両者のバランスをとりながら生きていく。自分なりのバランスを。
 一番上のその紙を取るとそこにいた影が小さくひとつ頷いたように見えた。

2006.5.15

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