ページを捲る手

 傍らにある小さな姿が放つ熱が触れている腕の表面から伝わってくる。
 うとうととしながら時々薄く開く金晴眼はすぐ横にいる三蔵の姿を確認すると安心したようにすぐ閉じる。
 日によって気温の差が大きなこの季節柄だろうか、待合室には診察を待つたくさんの患者の姿がある。突然飛び込んできた初診の患者の名前はなかなか呼ばれ ない。基本的に気が短い三蔵は苛立ちながらちょうど手を伸ばせば届く距離にあった棚から一冊の雑誌を手に取った。
 『味覚満足--初夏の甘味特集--』
 偶然ではあったがこの分野には興味がないわけでもない。三蔵は寺院にいては見かけることすらない種類のその雑誌の表紙をゆっくりと捲った。

「・・・うま・・・そ・・・」

 小さな声に見下ろせばまた悟空が目を閉じるところだった。どうやら表紙の写真を見たらしい。こんなに熱い額をして頭の中で考えることはやはり食べ物のこ となのか。煙草を吸えない三蔵はただ口からふぅっと息を吐いた。



 激務続きの数日。昨夜も三蔵は夜半を大きく過ぎた頃に部屋に戻り、悟空が自分の寝台でちゃんと寝ているらしい布団の盛り上がりを確認するかしないかのう ちに三蔵自身が寝台に倒れこんで眠ってしまっていた。そして朝。起きたらどうも悟空の様子が変だったのである。大抵三蔵よりも先に目を覚まして飛び乗って きては怒られて・・・そんな悟空が目を覚まさない。ちょっと目を開いたかと思うとまたすぐに眠ってしまう。おまけに空腹を訴えない。とろんとした目つきで 三蔵を見上げるとニパッと笑ってまた眠る。
 どう見てもおかしい。ふと三蔵が手を伸ばして悟空の額に触れてみると、何かひどく熱かった。
 多少の熱は寝ていれば治る。他に症状が出るか悪化するかがはっきりするまではとにかく寝ている。それが彼自身のことであったならきっと三蔵はそうしただ ろう。けれどこれは悟空なのだ。どれだけ一晩腹を出して眠っても、雨の中ではしゃいでずぶぬれになっても、春まだ浅い頃に身を切るような風の中で手を氷の ようにして遊んでもくしゃみひとつ、鼻水の一滴とも縁がなかった悟空。その悟空が朝から一度も『腹へった』と言わない。一人で朝食を終えて一旦は執務室に 入った三蔵だったがなぜかどうにも落ち着かなかった。
 寺院に出入りの医者に診せようと使いを走らせれば人外の生き物は診察の対象外だというふざけた返事がかえってきた。三蔵が微熱を出そうものなら大げさな 見舞いの言葉と一緒に山ほどの薬を押し付けてくるというのに。どの僧侶が入れ知恵をしたのか確かめる気はなかったが不愉快さだけが残った。確かに悟空は寺 ではその存在を持て余されている。悟空の真の姿を見た者の中では半ば恐れながら悟空を不浄の存在と見なしている者も多い。
 バカ面で大喰らいのガキなのに。
 三蔵は知らぬふりをしているが、悟空が三蔵のそばに他の者たちとはまったく違う形で存在することを許されていることを面白くないと思っている者たちも少 なくないのだ。思い出してみればどこでも同じだ、と三蔵は呆れるしかない。光明の元にいた江流のことを僧侶たちがどんな風に口にしていたか・・・ちょっと 思い出すだけでくだらなさにうんざりだ。

「気になりますか、三蔵様?朝から何も食べずに眠ってばかりとはたしかに悟空殿にしてはちょっと・・・・。いっそどうでしょう、こちらから医者のところへ 連れて行かれては?」

 書類と一緒に茶を運んできたその僧侶は穏やかな空気をまとった老僧で、寺院では小坊主より一つ、二つ上というその老齢には不釣合いな位にあった。時々小 坊主と交代で三蔵と悟空の食事を運んできたりする。静かに悟空を見る顔には絶えず微笑が浮かんでおり、やわらかな好意がうかがえた。

「医者・・・か」

 今日も忙しいことはわかっていた。
 ちょっと席をはずそうものならあっという間に書類の山と面会を待つ人間の列ができるだろうということも。おまけに三蔵は医者が嫌いで薬もほとんど飲む気 がしない。
 だから、絶対に医者など行かない・・・それが己のことならば。

「・・・どこかいい医者を知っているか?」

「おまかせ下さい。評判がいいところを知っております。それだけにちょっと混んでいるやもしれませんが・・・」

 老人の目があたたかい光を浮かべた。



 はじめは何とか悟空を起こして歩かせた。
 夢うつつのままふらふらと足を動かす悟空・・・仕方なく手を引いた。

「さん・・・ぞ・・・?」

 見上げてニッコリ笑顔を投げてきたかと思ったらぎゅっと手を握り返された。それでも悟空は目を覚まさず頭がグラグラ揺れるようになったから、三蔵は低く ため息をついた。

「・・・のれ」

 膝を落として背中を向けてやるともぞもぞと悟空がよじ登ってきた。それから三蔵の首に腕を回して満足そうに額をこすりつけるとまたすぐに眠ってしまっ た。
 調子にのるなよ、猿。
 そう思った三蔵だったが、同時にその額の熱さを法衣越しに感じて足を速めた。背中に感じる重さは悟空くらいの年齢の子どもではどうなのだろう・・・重い のか?それともこのくらいが普通なのか?耳に近く聞こえる呼吸の速さが一層三蔵の歩みを速めた。
 病院に着くと中は混んでいて奥の一番端に悟空を座らせた。眠ったのを確かめてから受付をしそこでされた質問に首を傾げた。
 症状に気がついたのは・・・・ついさっきだ。
 普段の食欲と比べて・・・・昨夜もいつもと変わりなかった・・・もっとも普段のそれが悟空の場合は恐らく常人の想像を超えているのだが。
 熱をはかりましたか・・・・いや、少なくとも三蔵は熱をはかる道具を持っていない。
 では、と差し出された細い棒のようなものを三蔵は眉間の皺を深めながら受け取った。
 体温計。これを・・・どうしろと?
 悟空のところに戻ってみると赤い顔が小さく笑った。

「ここ、どこ?三蔵」

「熱、はかれとよ」

「・・・へ?」

 顔の前に体温計を突き出しても悟空は目を丸くして首を傾げるばかり。もしかすると病院も初めてなのかもしれない。三蔵はまたひとつため息をついた。悟空 の隣にすわると服の喉元をゆるめて強引に体温計を入れる。

「・・・冷てぇ」

 予想に反してまったく抵抗しないまま悟空は脇に体温計を挟まれた。

「このまま腕を閉じていろ」

 三蔵が腕を回して悟空の身体を抱えると悟空は三蔵を見上げた。その顔に浮かんだ表情は読み間違えようのないものだった。

「・・・喜んでんじゃねぇよ」

「だって、さんぞーだから」

 なにが。
 三蔵のしかめ面が問えば悟空は笑顔で答えを返す。それが三蔵にとってはくすぐったくてたまらない感じがするものだったので視線を外した。それからしばら くただ前を見ていると悟空の身体がだんだんもたれかかってきた。見れば思ったとおり、また眠っていた。



 待合室はもちろん禁煙。それがひどく辛くなってきた三蔵だった。気を紛らわすために雑誌のページを捲るとそこから起こった小さな風が悟空の前髪を揺ら す。まだ熱いのだろうか。金鈷が普段よりも邪魔なものに見えた。指先を触れて熱さを確認すると悟空が目を開けた。

「三蔵・・・それ、俺も見たい」

 悟空の視線が求めるままに雑誌を下げて三蔵の膝の上に広げる。のぞきこんだ悟空は嬉しそうな声を上げた。
 漢字がまざった文を悟空は読まない。だから写真だけを眺めた後は三蔵が詳しい説明文や店の案内などをすべて読んでしまうまで黙って待っている。そうなる と自然に三蔵が二人の真ん中においた雑誌の次のページを捲ることになる。すると悟空がまた嬉しそうに覗き込む。
 これ、食いたいな。あ、それもうまそう!
 勝手にはしゃぐ悟空の声に振り向いた子ども連れの母親が微笑みかける。
 親子・・・かしら。それとも兄弟?仲がいいこと。そんなことを考えている女に悟空はもちろん三蔵も気がつかないままに雑誌に見入っていた。
 とうとう次のページを待ちきれなくなった悟空が雑誌を持つ三蔵の手に小さな手を重ねた。それでも強引に捲ろうとはしないでそのままの状態で三蔵が読み終 わるのを待っている。その手のあたたかさが三蔵の口から怒りの言葉を奪ってしまう。

「バカ猿が」

 三蔵が呟くと悟空は頭を掻いて明るく笑った。



 結局その日は熱が出る原因は特定できず、悟空はとりあえずということで数種類の薬を処方された。けれど最初の一回で薬のまずさを知ってしまった悟空はそ れきり決して飲もうとはせず、それでも次の日には熱は下がっていた。
 その数日後、仕事の途中で寄った森の中の一軒家で三蔵は思いがけない話を聞いた。

「ああ、もしかしたらそれは『知恵熱』だったかもしれませんね。その悟空が熱を出した前の日、僕、町で程度のいい古本の絵本をたくさんもらって帰って来た んですよ。で、それを悟空にあげたんですが、きっと一度に一生懸命読みすぎたのかも」

「うちから帰るまでにも本に頭突っ込んで何冊か読んでたよな〜。ったく、慣れねぇことすっと大変だな、子ザルちゃん」

 八戒と悟浄の言葉を裏付けたのは寺院に戻った三蔵が夜に悟空の寝台の下に見つけた本の山。悟空に問えば確かにあの前の晩、三蔵が部屋に戻る直前まで絵本 を読んでいたことをすぐに認めた。

「・・・んなだけで熱なんて出してんじゃねぇよ」

 三蔵の呟きは悟空には届かず、悟空は八戒からもらった宝物の山を抱えて三蔵の寝台に上がってきた。

「なあなあ、今度は俺が三蔵に読んでやる!おっもしろいんだぜ〜。えっと・・・まず、このおにぎりがでてくるヤツ!」

「乗ってくるな。狭いだろうが」

「じゃあ、この一冊だけ!」

 ちゃっかり布団に入った悟空は三蔵のとなりに座ってさっさと絵本を広げてしまった。
 触れている腕から伝わってくる体温は熱くはなく、ただあたたかかった。思わずそれを確かめていた三蔵は悟空を追い出すタイミングを逃した。悟空の大きな 声がたどたどしくたあいもない物語を読みはじめる。そして1ページ読み終わるごとに小さな手でそっと大切そうにページを捲る。

「お、じ、い、さ、ん、は、ね、ず、み、の、し、っぽ、に、つ、か、ま、って・・・」

 耳に入る音節ひとつずつが眠気を誘っていく。
 三蔵は枕に頭をのせて目を閉じた。悟空はそんな三蔵の様子に気がつかずに夢中で文字を追っている。
 最後に三蔵の記憶に残っているのはページを捲る悟空の手だった。力を込めれば大の大人を殴り飛ばすことも平気なその手はいかにもやわらかく幼く見えた。

2006.5.19

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