忘れ物

 悟浄が傘を忘れていった。来る時にはしとしとと降っていた細い雨が帰るときにはきれいに上がって空が晴れ渡っていたのが理由だろう。つまり、あの背ばかり 高くて目つきの悪い男はやっぱり悟空と同じレベルだということだ。三蔵は扉のすぐ横に立てかけられたままの傘を見た。寺院の入り口で小坊主や僧侶たちがし つこいくらい預かろうとしたはずの濡れた傘。床に出来た水溜りはまだほとんど乾いていない。なぜこんな奥まった部屋までいかにもありふれて安物らしい傘を 後生大事に抱えてきたのだか。おまけに仕舞いには持って帰るのを忘れるのだから片腹痛いどころの話ではない。

「なあ、三蔵。悟浄の傘、届けた方がよくねえ?追っかけたら間に合うかも」

「ほっとけ。雨は止んでる。まあ、濡れたところであいつは大して堪えるわけでもねぇだろうがな」

「う・・・ん」

 悟空は半分気のない返事をしながら窓の外を見ている。さっきまで『でかガッパ』だの『えろガッパ(意味はまだわかっていないらしい』だの、『チビザル』 だの『おこちゃま』だのと騒音にしか聞こえない応酬を繰り返していた相手のことを今は本気で気にかけているらしい横顔は普段より幼いように見えた。

「なあ、三蔵・・」

「なんだ」

 三蔵がわざと書類を手にとって読みはじめると悟空は口を閉じた。ここ数日の三蔵の多忙ぶりは夕食も就寝も一人でしている悟空にはよくわかっていた。机に 置かれたあの書類の山が片付かない限り、きっと今夜も同じことになるだろう。それはイヤだ、と悟空は思う。三蔵がいなくてもあたたかい食事は美味い。三蔵 がいなくても疲れていれば眠ることは出来る。でも。三蔵がいたら悟空は嬉しくてあったかくなる。何かで体の中がいっぱいになって大きな声で笑いたくなる。
 だから悟空は我慢して口を閉じたままでいた。そして視線は再び外へと戻る。

「・・・おい!」

 寺院内で悟空以外がたてたことがないと思われるにぎやかな足音が近づいてきた・・・と思ったときには扉が乱暴に開かれ、戸口には肩で息をしている悟浄が 立っていた。

「あ、悟浄!よかった〜」

「滑稽なほど慌ててるな」

 悟空と三蔵の視線を受けた悟浄は開いた口から零れかけた言葉を飲み込んだように見えた。すっと背を伸ばし、表情を整えてさり気なく変える。

「少しばかり歩いたらよ、ちょっと小雨が降りやがってさ。俺・・・ここに傘、忘れてったろ?」

 声も言葉もさり気なく。普段はもう少しましな演技をする男ではなかったか。傘の一本に何を気取ることがある。逆に興味を惹かれた三蔵は悟浄を見上げた。 どうやらこの傘にはこだわる理由があるらしい。何物にもつながれることなく生きているのが自慢のはずなのに。

「雨音はしなかったようだが」

 三蔵が呟くと悟浄の頬に薄く赤みが差した。

「通り雨だよ!だから・・・きっとこの寺の上は通らなかったんだろうが。とにかく傘は、持ってくぜ」

「すげぇ大事なんだな、その傘」

 ピョンと立ち上がった悟空はとことこと走って傘を持ち、悟浄に差し出した。

「よかった。俺、追っかけた方がいいかな〜って思ってたんだ」

「あ・・・ああ、悪いな。この傘は八戒が・・・・いや、八戒のやつ、俺が傘をなくすと結構怖ぇんだよ」

「三蔵も俺が傘を壊すと怒る」

「壊すってお前・・・そりゃあ、当たり前だ、当たり前。どうせ浮かれて傘を振り回して遊んじまうんだろ」

「あのさ、雨で濡れた傘をさ、開いてお日様の下でパ〜ッと回すと、いっぱい光って、飛んで、時々虹が見えるんだ!」

「ほ〜ら、やっぱり振り回すんだろうが。ほんと、お子ちゃまね、お前」

「お子ちゃま、言うな!」

 結局さっきまでの状況と変わらなくなったことを確認すると三蔵は書類に目を戻した。悟浄の口から八戒の名前が出た時に理由がわからないまま何か納得した ような気分になった。それにカマをかけるなら八戒の方が手ごわいだけに面白いかもしれない。もっともそれまで三蔵が一本の傘と言う些細なことを覚えていた らの話だが。

「さ〜る!チビザル!」

「さる言うな、クソガッパ!」

「うるせぇぞ、てめぇら!頭にハリセンくらいたいか!」

「「うわ〜〜〜」」

 身体を寄せ合って声を揃える二人を見た三蔵の唇が小さく上向いた。

 あなたもこういう人種に弱いんですよね。

 どこからか八戒の声が聞こえた気がした。

2006.5.31

お題六つ目
この傘はあの日八戒が悟浄に届けに来た傘・・・というお話

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