生まれた日、を喜ぶことができるのは、幸せであることの証拠以外の何物でもない。今だけの幸せではだめなのだ。生きて重ねてきた年の数だけ幸せなその日の 記憶があるのでなければ、今年のこの日を嬉しいとは思えない。ある時に止まってしまったきり動かないその幸福を刻む時計。それを持っている己はもう喜び事 とは縁を切ったのだと。心に語りながら視線を合わせた鏡の中の顔が、静かに一つ、頷いた。思わずそこに探した懐かしい人の面影は、どこにも見つからなかっ た。
「・・・おや?どうしたんです?悟浄。また何かやっちゃって、僕の機嫌をとっとく必要でも出来ました?」
食事から帰り、身体を洗ってすっきりした気分で部屋に戻った八戒の声にはやわらかな笑みが含まれていた。その視線の先には淹れたばかりの湯気が立ってい るコーヒーで満たされたサーバーを持って立っている悟浄の姿があった。
「いやよ、ちょっと飲みてぇなって思ったんだけど、お前、いなかったから」
「あなたのコーヒー、ホッとする味がしますからね。ありがとうございます。お相伴させてくださいね」
「ほらよ・・・っと」
悟浄が差し出したカップを受け取った八戒は寝台に腰掛け、二人はほとんど同時に一口飲んで、小さく微笑を交わした。
「そう言えば、三蔵と悟空はどうしたんです?そろそろ三蔵はベッドの上に陣取ってる時間なのに」
「ん?ああ、何か探し物があるとか何とか言いながら出てったぜ。途中で寝こけてなきゃいいけどな、あのクソ坊主」
「それよりも眠気で殺気立って銃を乱射したりしてないかが心配ですよね。二人で探し物なんて珍しいですね。一体何なんでしょう」
「さあな〜。ほれ、もう一杯どうよ?」
「はい、いただきます。とっても美味しいですよ。腕が上がりましたね、悟浄」
「淹れ方にも味にも煩せぇヤツがいるからな〜」
「美味しさに免じて聞こえなかったことにしてあげますよ」
「そりゃ、ありがてぇことで」
もう随分遠いことのような懐かしい空気を感じていたのは二人同時だったかもしれない。人里から少し離れた森の中の四角い家。淹れたてのコーヒーを飲みな がら交わした二人だけの会話。
「結構遠くまで来ちまったな・・・」
「そうですねぇ。ふふふ、毎日毎日飽きる暇は全然なかったですけどね。多分、これからも」
「そうだな〜」
聞こえる気がするのは木の枝が風で擦れる音と夜に鳴く鳥の声。賊よりも熊を警戒した方が良いかもしれない土地だった。
悟浄が目を閉じるのを見た八戒は自分も目を閉じようとした。もしかしたら聞こえてしまうかもしれない雨の音も今なら平気な気がしていた。
「八戒〜!」
名前を呼ぶ声が聞こえなかったら、てっきり妖怪の襲撃だと勘違いしただろう。それほどに勢い良く、大きな音をたてて部屋の扉が開かれた。
「誕生日おめでとう、八戒!」
飛び込んできたのは悟空だった。
「え・・・」
「ば、馬鹿野郎!それだけは言うなっつただろうが、この猿!」
一瞬で冷えて固まったような空気の中、三蔵が悟空の後ろから部屋に入ってきた。
「眠てぇ。コーヒーくれ」
「あ、ああ・・・・はい、どうぞ、三蔵」
「ああ」
法衣の上衣から腕を抜いた三蔵は見慣れたアンダーシャツ姿になってカップを持ってベッドに上がった。何となく他の三人全員がその姿を目で追っていた。の んびりとカップを唇にあてた三蔵は三人には目を向けずに眉間の皺を深めた。
「・・・俺に振るな。責任は自分で取れ・・・悟空」
悟空はカシカシと頭を掻いた。そして、笑った。
「ごめん、八戒。言われんのイヤかもって知ってたけどさ、でも、俺、おめでとうって一言だけ、どしても言いたくなった」
「でも、悟空・・・どうして」
八戒の唇は震えた。知っているはずがない、悟空が。誕生日も、そして彼がその日を嫌っていることも。旅立つ前だって一度も話題にしたことはないのだか ら。八戒はちらりと悟浄を一瞥した。悟浄はため息とともに咥えた煙草に火をつけた。
「悪りぃな、喋ったのは俺だ。でもな、きっかけんなったのはお前がおかしいって猿と坊主に気づかれたからなんだぞ?」
「おかしいって・・・・僕がですか?」
心外だ、と言いたげに八戒が首を傾げると悟浄は笑った。
「バレてんよ。なあ、悟空?」
問われた悟空は大きく頷いた。
「だってさ、さっきのメシの時、八戒、メニューをちょ〜っと見ただけで、注文、決めたからさ!」
八戒は目を丸くした。
「ええと・・・・それって変ですか?」
「うん、八戒だとヘン!」
「いつこれが最後の食事になっても悔いがないようにっつ〜選び方するもんな、普通は」
「何だか怖い響きですよね、それ。三蔵、僕、本当に変でした?」
「だから何で俺に振る。・・・まあ、確かにお前は朝からおかしかったがな。走行中に俺が悟浄に向けて銃を撃っても、ただあっけらかんと笑いやがって」
ただ、それだけで。そんなことだけで。
納得するべきかどうかまだ迷いながら八戒は苦笑した。
「・・・はぁ。何というか、これもつきあいの長さの困ったところ、ですかねぇ」
「え、なに、八戒、困ってんの?俺、言わなきゃ良かった?」
慌てて八戒の顔を覗き込もうとした悟空の頭に悟浄の指先があたった。
「ば〜か。こんな感じの時によ、今更素直に喜べねぇだけに決まってんだろ。にしても、八戒、お前、かなりの意地っ張りよね〜」
「折り紙つきのな」
三蔵は飲み干したカップを窓枠にのせ、身体を伸ばした。
「・・・あなたたちには言われたくないですね、悟空も含めて」
「げげっ。俺も〜」
「でもよ、ここでこうして軽口叩いて笑ってられんのもよ、突っ込まれて困ってんのもよ、どっちも俺たちが生きてるからってことなんじゃねぇの?っつぅこと で、誕生日ってのも案外悪いモンじゃねぇって」
「・・・生まれなければよかった、と思ったことがあっても?」
「うおっ!いきなり来るのね、お前。でもよ、前に生まれなきゃ良かったって思ったことがあったとしてもよ、今、死にたくねぇって思ってんならトントンなん じゃねぇの?生まれなきゃ死ぬことってねぇんだし。何かを思うってのも生きてるからだろ」
「うわぁ、悟浄、なんかすっげぇマトモに見える!」
「・・・フン」
八戒はゆっくりと三人を一人ずつ順番に見た。時々彼が忘れかけていたことを思い出させる三つの顔。偶然の出会いが重なっただけとは思えない縁(えにし) を感じることもある。笑うこと、あがくこと、自分という存在を自分の手で守ること。猪悟能の名を捨てた時に見えたすべてのものの源がそこにある。
「僕は・・・」
八戒は何とか胸の中に溢れたものを言葉にしようとした。けれどそれは簡単ではなかった。煙に巻くためなら、誤魔化すためならきっと言葉は滑らかに流れ出 ただろう。そうそう生まれ持った性質は変わらない。人に本音を話すということは彼にとってはまだひどく難しい。
「あのさ、八戒・・・これ!」
迷っている八戒の前に進み出た悟空が上向けた両手を差し出した。左右ぴたりとくっつけあった手の平には小さな包みがのっていた。
「悟空」
八戒の頬に赤みが差した。訴えるような悟空の大きな瞳に乞われるままに包みを受け取った。すると包みの中で揺れ動くものの気配を感じた。
「開けて・・・いいですか?」
悟空は照れくさそうにまた頭を掻いた。
「う、うん・・・・。俺が選んだからさ、やっぱ、ちょっと、八戒にはガキくせぇかもしれないけど・・・」
八戒は指先に気持ちを集中してそっと包みを開けた。
ザァッ
途端にテーブルの上に手の上から溢れた流れたできた。
「うわ、大丈夫か?八戒!」
「あ、ああ、ごめんなさい、悟空。大丈夫、全部ほら、床には落とさなかったし割れてませんよ」
咄嗟に八戒が両腕でテーブルの上に作った輪の中で小さな硝子球がそれぞれの方向に揺れていた。
「ビー玉ですね、これ。光があたって綺麗ですね〜」
悟空はテーブルの上にあった皿を見つけるとそっと大切そうに硝子球をひとつずつ皿に移しはじめた。
「綺麗だろ?これさ、八戒の目に一番似てるヤツを選んだんだ」
「え・・・?」
「いつもはもうちょっと濃い色だけどさ、お日様の中だと八戒の目、こんな風に見える時があるんだ。ちゃんと三蔵にも確かめた」
八戒はすっかり眠る体勢に入っている三蔵に目を向けた。
「悟空が選んで、あなたが買ってくれたんですね?三蔵」
「・・・・なんで誕生日にガラス玉なのかは理解してねぇがな」
「ふふ。ありがとうございます、悟空、三蔵。とても嬉しいです」
心軽く微笑んだ八戒の顔を黙って見ていた悟浄の唇が僅かに綻んだ。
その後、2人部屋に別れた後には静かにこんな会話が交わされた。
「ありがとうございます、悟浄」
「あン?なに、突然どうしたの、お前」
「いえ・・・さっきコーヒー淹れてくれたのも・・・もしかしたら誕生日の贈り物だったんでしょう?」
「・・・言うな、マジで激照れくせぇ」
「あなたには沢山お世話になってますねぇ」
「お前も負けないほど世話焼いてるけどな・・・・多分、お袋みてぇに」
「姉のように、かもしれませんね」
交し合う微笑に曇りはなかった。ただ、穏やかさが満ちていた。
「あなたが言ったとおりですね、悟浄」
「なにが?」
「誕生日も捨てたもんじゃないなと思いまして」
「だろ?」
それでもまだどこか、これでいいのだろうかと自問する声がそれぞれの中にあった。
胸の奥に生まれているこそばゆいあたたかさがいつかそれを打ち消してくれることを願った。