ふぅ。
ロビンの艶やかな唇から小さな吐息が漏れた。
黒い瞳はじっと目の前の対象を見つめ、そのものを映しとってしまいたいとでもいうように時々瞬きを忘れた。
それなのに。
「・・・難しいわね」
呟いたロビンは背後に現れた気配に思わず身体を硬くした。
「難しいってのは今のお前の顔か?何を力んでる。珍しいな」
誰もが寝静まったはずの船の中。ダイニング・ルーム。
テーブルに向かいながらその上に広げたものを一瞬隠そうとしたロビンは、やがて諦めたようにため息をつき、身体の力を抜いた。スタスタと歩み寄るゾロを 見上げた顔にはやわらかな微笑がランプに照らし出されていた。
ゾロは、息を呑んだ。それでも身体の芯を貫いたその小さな衝撃を眉を顰めた表情の奥にしまいこんだ。
「絵、描いてたのか、わざわざ夜中に」
「1人でじっくり描きたかったのよ。それに、私・・・・睡眠時間はあまりいらない体質だから。あなたとは正反対にね・・・・ゾロ」
ゾロ。
短い自分の名前を呼ぶロビンの声の響きを、ゾロは受け止めた後じっくりと味わった。
「だいぶ緊張しなくなったみてぇだな」
1人1人、仲間の名前を呼ぶことに。
ロビンは小さく笑った。
「そうね。・・・・あなた以外はね」
ゾロは疑うように片方の眉を上げた。
「どういう意味だ?俺が・・・・怖いか?」
どうしてそんな言い方になってしまったのか、ゾロ自身にもわからなかった。口をついて出たその言葉にロビンは笑うのをやめてじっとゾロの顔を見た。
「・・・・そうね。その通りだわ、きっと。『海賊狩りのゾロ』を怖がってるわけじゃないけど。ただ・・・ロロノア・ゾロが怖いわ」
「俺は怖くねぇがな・・・・ニコ・ロビンを」
本当にそうだろうか。それなら今胸の奥に感じている切羽詰ったような感情は何だ。背筋をピンと張らせているこの昂りは。どちらも怖れに似てはいないか。
ゾロはゆっくりと首を振り、ロビンの肩越しにテーブルの上を見た。
「そいつは・・・・枯れた花か?」
乾燥して縮んだ花と葉。
テーブルの上の1枚の紙の前に置かれたそれをゾロは見た。
花びらの色と良く似た色の柄の絵筆が1本。
何色もの絵の具のチューブ。
絵の具が搾り出された木のパレット。
紙にはまだ形らしいものは書かれていなかった。ただ、縁を取るようにぐるりとたくさんの筆の跡があった。それも花びらに似た色の・・・・一刷けだけ試し た色の数々が。
「ドライ・フラワーと呼んで欲しいわ。大事にとっておいたのだけど、海の上はやっぱり安全な保存場所とは言えないようなの。だから・・・・紙に写しておこ うと思ったのだけど。でも、ダメね。どうしても同じ色を作れない。たくさん、試してみたけれどね」
「確かに・・・たくさんやってみたみてぇだな」
そんなことに力いっぱい没頭していたのか。
そんなゾロの声の調子に気がついたロビンは、ゾロの顔をじっと見たが何も言わなかった。
ロビンの頬にほのかに差した朱の色に、ゾロは・・・・思いだし、思い出したことを後悔した。
この枯れた花・・・・かさかさと乾いて散っている花と葉の正体は、ゾロがロビンにやったものだ。W7を離れた日。ルフィの祖父だというあの豪快としかい いようのない男が率いた海軍を振り切ってこのサニー号で船出した日。走り抜けた街の中でなぜかふと目にとまってしまった花。いつだったかロビンが、ゾロが 気まぐれで渡した花をひどく喜んで・・・・・そんなことを思い出してふとその前で足を止めてしまったのだ。
サニー号が安全な海域に入るまで、飛んでくる砲弾を切って切って切りまくった。だから、ポケットに入れておいた花なんてきっとバラバラになっているだろ うと思った。しかし、夜になり1人になってから取り出してみた花は不思議なほどそのままで・・・・だから、その記念にゾロはロビンにその花をやった。『あ の街からひとつくらいお前に貰ってもいいだろ』。そんな風に理由にもならない言葉を呟きながら。ロビンは黒い瞳を大きく見開き、静かに花を受け取った。そ の後に続いた笑顔はゾロの中にしっかりと刻まれている。
そうだ、あの花だ。
ゾロは小さく口角を上げた。
「そんなものを紙に描いておいて、どうなる?忘れたくなかったら頭の中で覚えてりゃいいんじゃねぇか?」
ロビンは首を横に振った。その姿は頑固な子どものように、ゾロには見えた。
「色ってね、覚えておくのがとても難しいのよ。花のことは覚えていられる。種類も、どこで、いつ、誰がくれたのかも。でも、その花自身の香りや色は、どん どん薄れていってしまう。私は・・・・それが嫌なの」
「忘れたくねぇのか」
「ええ。・・・・ずっとずっと覚えていたいわ」
「じゃあ・・・・覚えてろ。ずっとな」
ゾロはロビンの頬に手を触れ、驚いたロビンが逃げる隙を与えずにそっとその唇をふさいだ。
逃がすつもりはなかった。
自分の心の震えを悟らせるつもりもなかった。
ただ、刻みたかった。ロビンの中に、ロロノア・ゾロを。
ゾロが唇を離した後もロビンはしばらく目を閉じていた。やがて、目を開けた時、そこには純粋な驚きと艶やかな笑みが一緒にあった。
「・・・どうして?ゾロ」
少女のようにまっすぐな、そして女らしいやわらかな声がゾロを満たした。
今話すと声がかすれてしまわないだろうか。
ゾロはロビンの黒髪を指で撫ぜ、ゆっくりと口を開いた。
「この方が忘れないだろ・・・・強い記憶が重なるとどっちもなかなか忘れられなくなるからな」
ロビンはゾロの瞳をじっと覗いていたが、やがて小さく微笑んだ。
「なかなかの心理学者ぶりね。あなたはいつも自分は鈍いんだと思わせたがるけど・・・でも、とても鋭いわ・・・私のことは、ね・・・」
おそらく、互いに心の震えを見せまいとしていた。
口づけの記憶が全身に染みわたるのをじっと待っていた。
身体の中に、記憶に、この花びらの色がくっきりと刻み込まれた気がしていた。
「ずっと、忘れるな」
強い光を帯びたゾロの目を、ロビンはまっすぐに見て頷いた。
「忘れないわ。・・・・ありがとう、ゾロ」
新しい震えを帯びた声がゾロの名前を呼んだ。
この女が愛しい。
ゾロは大切なものからそっと手を離し、1歩下がってロビンを見つめた。
ゾロの視線に全身を包まれたロビンはそれを愛撫のように感じ、小さく震えた。
優しくて、そして、ずるいわ。
ロビンがかすかに唇を尖らせると、ゾロは笑った。
まだだ。そして、これからだ。
大切すぎる相手をどうしたらいいのか。
同じ戸惑いの色が2人の顔を過ぎた。
花びらの色と口づけの感触。
自分の中に得たものをしっかりと抱きしめた。