眠りをさほど必要としない体質をこれほどありがたいと思う日が来るとは思わなかった。
自分と同じ『労働者』たちも、看守という呼び方のほうがふさわしい気がする監督たちもこの時ばかりは等しく寝静まった深夜。ロビンは移動することを許さ れている狭い空間の最深に向けて足音を殺して歩いた。我ながら身体の動きからしなやかさがなくなっていることに苦笑する。幼い頃に馴染んでいた肉体労働か ら離れて何年たったかはとっくに忘れたが、日々橋を作ることだけに体力を注いでいる今、心と身体の両方がきしむ筋肉の痛みを抱えているようだ。
1歩、1歩。歩くうちにロビンの表情から疲労の色は薄くなり、代わって輝き始める黒曜石の瞳には恐らく自分では気がついていない真剣さが溢れ出す。
どちらをより自分は怖がったのだろう。
海軍大将の眼前に倒れ伏したゾロが動けないままその鼓動を止められようとしていたあの時。
そして、以前その手で半死どころではない目にあわされた七部海の1人にむかってフラフラと立ち上がったその瞬間にゾロがどこかへ飛ばされてしまったあの 時・・・最初は飛ばされたとは見えず存在そのものを消されたのだと思ったあの時と。
嘘だ。
そんなはずはない。
心の中の悲鳴は1度も口から外へは出なかった。ただ、ロビンの全身を貫いた。
今、こうして深夜、1人きりになれることだけがロビンを支えている。1人になって自分が置かれた境遇を思い、そうするとゾロもきっとどこかへ飛ばされた のだと、つまりは生命力さえ途切れていなければきっとどこかで目覚めていると思える幸運。あのまま黄猿とバーソロミュー・くまに向かわなければならないの と比べれば、状況はかえってゾロとって好転したのだ。倒れたことに傷ついた自尊心はまたゾロの心に強くなるという火を燃え上がらせているはずだと信じられ ることは、ロビンにとって幸福としかいえない。どんなに心身に傷を負っていても命さえあれば。
ロビンは足を止め、そっと壁に背中を預けた。ゆっくりと視線を上げると天井の闇が夜空に見えた。
星が溢れていた海上の夜。
見つけてはそっと足音を忍ばせて近づいた大の字になったゾロの寝顔。
指先一つ触れはしなかったが肌に感じたゾロの熱さ。
大丈夫、自分はゾロのあの熱い生命力と己を強くすることへのあまりに固い意志を知っている。
大丈夫。
大丈夫。
「大丈夫」
いつの間にか囁いている自分の声に気がつき、ロビンは指を軽く唇に触れた。
ここにもゾロの熱が通り過ぎたことがある。
熱く、そして優しく、甘く。
その記憶は今思い出すには幸福すぎる。ゾロの優しさはその強さと同じでどこまでも深い。傍にいてその姿を見ることができる時は、その深さを感じるとまる で自分が子どものように、ほんの小娘のように感じられてしまうから。
傷は少しは癒えただろうか。
また無茶をしてかえって悪化させてしまってはいないか。
間にどれほどの距離があるのかわからないまま離れている今、自分は今度はまるで、多分、母親のようにあの強い身体の心配をしてしまう。
ロビンの顔にここしばらく浮かべたことのなかったやわらかな微笑が浮かんだ。
幼い小娘になったり母親になったり。
愚かな自分が思いがけず嫌いではなく、そうさせるゾロのことを今ある心すべてで想う。
あなただけだわ、こんなこと。ね?ロロノア・ゾロ。
背中を壁につけたまま静かに床に腰を下ろし、頭も預けて天井を仰ぎながら目を閉じる。
閉じたままそっと待っていると、頬が熱い手に包まれていくような錯覚が生まれ、思わず小さな吐息が漏れてしまう。
忘れるな、とあの声が言ったのはいつだったか。
ほら、ちゃんと忘れてはいない。それどころかこんなにも近い。近いのに遠く、熱いのに冷えていて心が幸福と不安の間をゆるゆるとたゆとう。
あなただけなのに、ゾロ。
どうすればいいのか。
どうすればまた会えるのか。
途方もない孤独を抱えながら再会を信じないではいられない不思議。
わかっている。
きっとまた会える。
その時はきっと・・・みんな一緒に当たり前のような顔をして・・・
ロビンは両手で静かに自分の顔を包んだ。
やがて両手は自然に滑り落ちて滑らかな肩を抱いた。
こんなに誰かを恋しがれたなんて。
額を伏せて唇を噛み、ロビンはじっと時の動きを肌で追う。
再会までの時が少しでも先へ進むように。
今は、ただ。
今は、まだ。
「ゾロ・・・」
1度だけ囁いた名前の余韻に怯えた。
返るはずのない声を両腕で抱きしめた。