白 雲

写真/青空と白い雲 最初はあからさまに溢れる敵意とともに向けられていた視線が変わった。
 船長と他の船員たちが拍子抜けするほど気楽に女の存在を受け入れた直後、視線はすっと沈み込んだ。けれどそれは消えたわけではない。深く、静かでさらに 危険なものに変化しただけのようにも思えた。
 その視線は気がついているだろうか。女がこれまで使ってきた『役に立つ仲間』という仮面をかぶって見せる前にすっぽりと受け止められてしまったことに対 する戸惑いを。己が演じるべき役を与えられないままほとんど素に近い『当たり前』でいることが裸身を晒しているような感覚であることを。思いがけず彼女の 命を拾い上げてしまった船長と彼女にしては一手ともいえない言動だけで彼女に笑顔を向けるようになった船員たちよりも、その冷ややかに物騒な視線の方が彼 女に安堵の息をつかせていることを。
 破天荒な、まだ少年である船長の言葉を絶対と認め、そうでありながら己を揺らされることなくただ己としてそこにある青年は傷だらけになりながら船に戻り それを気にする風もなかった。無口ゆえに鈍感と彼を判断する者は敵であればたちどころに後悔することになるのだろう。青年は常に一歩、あるいは半歩離れた ところから船長と仲間たちを見ていた。かと思えば突然甲板で眠り込み、数時間前までは敵か味方かわからなかった男と酒を酌み交わして笑顔を見せる。その口 から出る言葉は単純明快で隠すところも曇るところも知らない。そんなところは船長ととてもよく似ている。
 わかっているのだろうか、今は見られる側になっていることを。そう思ったとき男の視線が通り過ぎた。やはり、男は愚鈍ではない。



 森の中でその男と二人の組み合わせになったのは偶然だった。当然、自分を先に行かせるだろうと予想した女が足を踏み出しかけたとき、男は何も考えていな いように女に背を向けて先に立った。なぜだろう。決して彼女の能力を軽視しているわけではないだろうし、疑う気持ちに変化があったはずもない。わかりやす いはずの青年の胸の内が今は見えない。
 当然のように自分が虫網を持ち、当然のように前に立って歩を進める男の後姿に従いながら、女はふと感じた気配に足を止めた。二人を阻止しようと近づく何 かの気配。見れば男は網を左手に持ちかえ、右手を刀の柄にかけてまっすぐその気配に顔を向けて立っている。木陰から黒い影が飛び出すと同時に鮮やかに円を 描いた一閃。同時に別の場所から聞こえた悲鳴の残余。
 女は男と二人になってから初めて口を開いた。

「悲鳴が聞こえるわね・・・」

「放っとけ・・・・・」

 地に落ちたムカデは男が持ち上げると人の背丈ほどもありそうな身体を震わせながら泡を吹いた。

「いちいち討ち取っちゃうのはよくないわ。可哀想よ・・・」

「俺に挑んできたコイツが悪りィ。俺に意見するな」

 ストレートに返される言葉。男の眉間に寄った皺。そして突き離すような目。

「だいたい・・・いいか、まだシッポは出さねェ様だがおれはお前を信用しちゃいねェんだ。それを忘れんな・・・」

 そう、それが当たり前だと女は思う。だからそう言いながら背を向けて先に行こうとする男の行動がわからない。そして・・・何の躊躇いもなく今来た方の道 に戻ろうとしているその背中が。わからなくて、そしてこの瞬間はつい微笑みを誘われてしまう。
 女は男を先導する側に回り、ようやくその視線を背中に感じた。これが自然だ。そう感じた。



 大渦を前にして普段と変わらない口調で仲間に話しかけた青年は自分が賞金首になったことを聞いて笑った。船が海から突き上げられて空に向かって昇りはじ めたときもすべてをあるがままに受け入れて己の中で消化して短くて素直な感想を言葉にする。年齢には似合わないものを持っている事は確かなようだった。
 やがて船が雲に突っ込んだ瞬間からはじまった呼吸不可能な永遠とも思える時間の中で、女は追いつめられることなく心の中に浮かび上がる記憶に蓋をするこ となく甘受した。彼女を包みこもうとする闇はどこまでも広く、それでもこうして船に乗って空にいることは光を目指すことのように思えた。今ここで命を落と しても悔やむ事はないのかもしれない。夢と冒険、そんな空気を初めて身に纏ったまま時間が閉じるなら。彼女自身の夢はあの砂の国で終わっているのだから、 これは贈り物なのかもしれない。
 目を閉じていた女は全身に感じていた圧力が消散した瞬間に大きく息を吸い込んだ。死ななかった。時は先に続いた。続いてしまった。

「・・・・・・・・・!!まいった・・・何が起きたんだ。全員いるか・・・・・?」

 波の音も何もない空気の中、青年の声が響いた。
 全員。
 その中に自分も含まれていることを感じ取った女は小さく動揺した自分を心の中で笑った。疑うと言いながら案ずる。やはりこの男はわからない。
 座ったままちらりと見た男の顔から視線を動かすと視界いっぱいに白い雲が見えた。真っ白な中で波音が聞こえ、時間が動きはじめた。

2005.10,11
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