漆黒の瞳が驚いたように瞬いた。
さりげない視線でそれを確かめたサンジはロビンが座るテーブルの正面に回ってニッコリと微笑みかけた。
「びっくりした?ロビンちゃん。それさ、非常食とクソゴム用のやつなんだ。すっげェ甘いだろ?ご安心を。ロビンちゃんのためのとっておきの大人の味はこっ ちだから」
悪戯っぽい笑みを浮かべたままサンジが差し出したそれまで後ろ手に隠していた皿の上にはカカオの色がもっと濃いハート型のチョコレートがのっていた。
「俺のハートをおひとつ、どうぞ」
指の先でそっとチョコレートを摘んだロビンは静かにそれを口に含んだ。その仕草にはサンジをハッとさせる思いがけない艶やかさがあり、サンジは思わずち らりと少し離れたところに座り込んでいるゾロの表情を窺った。重たい鉄アレイを両手にひとつずつ握っているゾロは規則正しいペースでそれを上下させてお り、己を鍛えること以外の何物にも興味をひかれた様子はまったくなかった。
「とても美味しいわ、コックさん。だけど・・・」
ロビンの顔に不意に『無邪気』な笑みが浮かんだ。
サンジは波打ちはじめた心臓の上に手をあてて続く言葉を待った。
「さっきの甘いチョコレートもとても素敵だったわ。子どもの頃を思い出す味っていう感じかしら」
「・・・嬉しいな、すごく」
サンジは囁いて一礼した。その姿はまるで己がコック以上の何でもないことを見る者に伝えようとしている風にも見えて・・・ロビンは通り過ぎる風のような 笑みを浮かべた。
「リップサービスってやつか。まめなことだな」
ナミにチョコレートを食べさせるためにサンジがその場を離れた後。
ロビンは不意に掛けられた言葉に読んでいた本から顔を上げて声の主を見た。真っ直ぐに彼女を見るゾロの瞳にはその生き様に似合った鋭利さが宿っていた。
「何のことかしら・・・・あなたが引っかかった言葉は一体どれなの?」
反射的に切り返したロビンは自分の声の中に本音に近い響きを見つけてすぐに口を閉じた。もう身体の一部になっているはずのそつのなさはどこへ隠れてし まったのか。それでもすぐに笑みという名の鎧を引っ張り出して己を武装した。
ゾロの片眉が小さく上下した。
「お前に心当たりがねぇんなら、別に言うこともないが」
ただ何となくとしか言い様がなかったゾロは鉄アレイを置いて立ち上がると大きく腕を伸ばした。その姿には彼が内心自分が口にした言葉に対して消せるもの なら消したいと願っていることをうかがわせるものは少しもなかった。
ただ、彼はもっと本当の『無邪気』さを以前にロビンの顔に見た瞬間があった気がした。だからさっきロビンがサンジに向けた笑みを偽モノだと思った。だが そのことを口にしたのは間違いだったともすぐに思った。なぜなら彼がそれを口にした時、そこには余計な感情がくっついている気がして居心地が悪かったの だ。心のどこかでそれが偽モノであって欲しいと・・・もしかしたらそう願ってしまっただけではないのか。今のゾロには完璧な自信はなかった。
「・・・あなたが私の何を知っているというの」
自分の言葉の中にあった嘘を誰よりも知っているロビンは自分がゾロに対して張っている防御の網を意識せずにはいられなかった。もしも今ゾロがこの網を 破って二人の間の距離をつめてきたら。それを恐れているのかそうではなくて実は望んでいるのか。本を閉じたロビンはゾロを見つめる自分の目に自然と力が 入ってしまうことに気がついていた。
二人は互いの目を凝視した。
「知らねぇよ・・・感じるだけだ」
言ってすぐに小さく舌打ちしてから離れていく後姿をロビンは瞳を大きく見開いたまま見送った。
ナミはサンジが持っていったチョコレートの味を絶賛した。「これでそのチョコレートに合う飲み物を作ってね」と大切にしている蜜柑を両手一杯、くれた。 嬉しさに頬を紅潮させたサンジはラウンジへの扉を押すと一歩踏み込んで眉をひそめた。
「何お天道様が登ってるっつぅのに光合成をさぼってやがる、クソマリモ」
ハッとしたゾロの手が何かを隠した。腹巻の中に。
サンジはその慌てように驚いて目を細めた。いつものふてぶてしさが見当たらないゾロなんて、ありか?それでもすぐにゾロは睨むような目でサンジを見上げ たから、口角を上げたサンジはゆっくりと歩いてゾロの腹の状態が見える位置に移動した。
ボコボコと不自然な形に盛り上がった緑色の腹巻。それを隠しきれていない不自然なゾロの左手。
「・・・んだ、何見てやがる」
「いや。腹でも痛ェのかと思ってさ・・・つぅか、何隠してんの?お前」
不意に言葉を直球に変えたサンジに向かってゾロは短く唸った。いかにも不機嫌そうなその声に嬉しくなったサンジは一歩ゾロとの距離を縮めてテーブルに片 手をついた。そうやってゾロを見下ろすとゾロの眉間の皺の深さがよくわかる。
「お前さ、あの後ロビンちゃんに何か言ったのか?」
「何であの女の名前が出てくるんだ」
「俺にもよくわからねェ」
鉄アレイに集中していたように見えるゾロの身体から放たれる熱を感じていたのだ。サンジはあの時確かにその冷たい熱っぽさが目の前にいた神秘的な大人の 女性に向けられているように思った。いつ頃だったか、一番最初にその感じに気がついたときには動揺したゾロの胸襟。「やめておけ」・・・そう思った気持ち は今ではいつのまにか「しょうがねェな」に変わっている。自分と同じ年のこの男には手が届くはずも護り切ることもできないであろう幽遠な華。そう思いなが らももしかしたらゾロの目と心はその華にサンジとは別のものを見ているのかもしれないとも思う。もしもそれが一人の女性の幸せにつながる可能性にほんの僅 かでも通じる可能性があるのなら。
サンジの青い瞳を見上げていたゾロの瞳が物騒な光を落とした。
「アホか、お前は」
ため息とともに呟いたゾロの言葉に不思議とサンジは怒りも抵抗も感じなかった。
ゾロはゆっくりと腹巻から取り出したものをテーブルに置いた。コトン・・・と小さな音が響いた。
「やる。どうとでも好きに使え」
今度こそ本当に驚いてしまったサンジは言葉を返すタイミングを逃した。そのモノから顔を上げた時にはすでにゾロの姿は消えていた。
窓から入る薄日を受けて透き通った曲線の美しさを見せている一脚のグラス。あのマリモ色の腹巻の中からこんなものが出てくるなんて半端な手品よりもよっ ぽど驚きだ。
ゾロはどこのどんな店で何を思ってこれを買ったのだろう。サンジはむき出しに置かれたそれが新しいものであることを疑わなかった。小さな傷も曇りひとつ ない透明な輝きを見ればわかることだ。
サンジはポケットから煙草を取り出して唇に挟んだ。片腕に抱えていた蜜柑をテーブルに置いた顔に微笑が浮かんで消えた。
ただそのグラスを持つ女の手を見たいと思った。理由のない衝動に突き動かされて気がついたときには手に包みを持って店を出ていた。グラスの脚から曲線を 描いた透明な肌にのぼって静かにそれを包む女の指を見たかったのだ。そして唇がそっと円を描いた縁に触れ傾けられたグラスの中の液体に向かって隙間を作 る・・・その無防備を想像するとなぜか居心地の悪い気分になった。
ゾロは力強く頭を振った。置き去りにした幻から己を解放するように。
「ナミすわ〜〜〜〜ん、ロビンちゃ〜〜〜〜ん、ナミさんの蜜柑のスペシャルドリンクができましたよ〜〜〜〜!ついでにクソ野郎ども!おやつもつけたから食 いたかったらさっさと来やがれ!」
ゾロは甲板に置かれた折り畳みテーブルから少し離れた床の上でサンジの声を聞いた。それは1時間ほど前にサンジがロビンにチョコレートを食べさせていた 時に座っていたのとまったく同じ場所だった。一眠りするにもなかなか気分がいい場所で、耳に入るどやどやとクルーたちが移動する物音に一瞬心に浮かんだ人 影をすぐに消し、ゾロはゴロリと身体を仰向けに横たえた。
日が落ちた直後の暮れかかった空が見えた。こんな時間におやつとは珍しいこともあるもんだな、とぼんやりと思った。その時、近づいてくる足音を聞いた。
「もうすぐ最初の星が見えるから特等席で。みんなにはホットで用意したけどロビンちゃんにはすっきりした感じを味わって欲しかったし」
サンジとロビン。
身体を硬くしたゾロは起き上がって自分がここにいることを見せるかどうか迷った。
「あら、でもどうして私だけなの、コックさん?航海士さんも不思議そうな顔をしていたわよ」
笑みを含んだ女の声にゾロは・・・目を閉じた。二人の足音がすぐ近くまで来て止まった。
「理由は、まあ、いろいろとね。このチャンスにぜひロビンちゃんに愛の告白を・・・とかね」
閉じた唇に力が入ったゾロは思わずこぶしを握りそうになった手を必死でこらえた。
「それは素敵ね。でも誤魔化すのはあまり上手じゃないわ」
椅子を引く音、女が座った気配、涼しげな氷の音。
ゾロの神経のすべてを聴覚が支配していた。
「ほんとはさ、ロビンちゃんに似合いそうなグラスがひとつ手に入ったからちょっと試して欲しかっただけなんだ。それだけ」
・・・グラスだと?
ゾロは思わず目を開けた。
「おかしなコックさんね。でも・・・これはとても綺麗だわ。私には勿体無いくらい」
「俺が見つけたんじゃないんだけどね。まあ、あとはちょっと想像してみて。そういうの、楽しいだろ?」
ロビンの返事を待たずに遠ざかるサンジの足音。
ゾロはただ目の前の光景を目に映していた。
ちょっと首を傾げた後に微笑を浮かべた深い色の唇。流れる黒髪。それから静かに伸びた指先がグラスの脚に触れ、もう一方の手が繊細なガラスを守るように 添えられる。今は中に満たされた果汁の明るい色のおかげでそれ自体がひとつの果実になったような滑らかな肌を女の細い指がゆっくりと包み込んだ。
そうだ。見たいと願っていたそのものが目の前にあった。
慎重に息を吐き出したゾロはその僅かな気配で彼の存在に気がついた黒曜石の瞳と目を合わせた。
「・・・剣士さん?起きていたの?」
グラスを持つ大人の女の手と対照的にその刹那に女の顔を通り過ぎたきわめて幼い面影。
ゾロの唇に満足の笑みが浮かんだ。彼が見ているものにロビンが気がついていないことを確信していた。そしてそのことに深く満足していた。
「素敵な夢を見たのかしら。ご機嫌が良さそうね」
年上らしく話しかけてくるロビンの声にゾロの笑みは大きくなった。
「まあな。今はこのぐらいでいい」
再び目を閉じてしまったゾロの顔にロビンはしばらく視線を落としていた。やがてその視線は手の中のグラスに落ちた。甘い小さな疑惑が心の中に浮かぶのを 止めることはできなかった。
「バ〜カ」
ラウンジの窓から見えていたゾロの姿に背を向けて呟いたサンジは一筋の煙を吐いた。
次のあのグラスを出す時はもっとゾロに冷や汗をかかせてやろう。そう決めたサンジはひとつ大きく頷いた。