またひとつ、漏れる吐息が聞こえた。
胡坐をかいて座り込んだ後姿に、普段とは異質な色合いが見える気がした。
鍛え上げられたその背中の逞しい広さは常と変わらず・・・けれど何かがほんの少しだけ違って見える。ほんの少しだけ・・・自ら小さく筋肉を畳んでしまっ ているような。
そこにロビンは『落胆』を見る。
原因はわかりすぎるほどにわかる。
時々伸ばしてはゾロが見つめるその手の先に握られた刀・・・・その成れの果て。刃の大方を失った哀れな骸。
そう、原因はすぐにわかる。
わかるのだが、最初にその姿を見たときにそんなゾロに違和感を感じずにいられなかった。
失ったことを嘆く・・・・ロロノア・ゾロのそんな姿を見ようとは。
これまで重ねてきた時間の中からロビンが想像していたゾロなら、口から「刀は天下の回りもの」というくらいの発言が飛び出し余裕の笑みを浮かべそうなも のだったのだが。
今見ている、この予想とは全く違った姿に胸をつかれ、その場から前にも後ろにも動けなくなっている自分を心の中で笑う・・・それが今のロビンができる精 一杯で。
かける言葉のひとつも思いつけない自分に人間として、そして女としての未熟さを痛感するしかなかった。
「・・・なんだ。そんなに面白い見世物になってるつもりもねぇんだがな」
不覚にもゾロの声に身体が小さく飛び上がってしまった。悪さを見つかった子どものような気分というのはこういうものなのかもしれない。ロビンはそっと息 を深く吸い込んだ。
「あら、とても興味深いわ。剣士さんのそんなため息を聞いたのは初めてだもの」
ふぅ、とまたひとつゾロが息を吐いた。一瞬強張った背中が緩み、吐息のあとに短い笑い声が続いた。
「確かにこんなのは俺も初めてだ。違いねぇ」
「ふふ。じゃあ、迷子になってる時はため息をついたりはしないってことかしら?」
「・・・俺にそんだけ言う度胸があるんなら・・・・ま、いいさ、こっちに上がって来いよ」
斜めに投げかけられた視線と唇の端に浮かんでいる笑みに、身体の中の何かを鷲掴みにされた。どうしてこんな、と自分の状態を疑問に思うのは実は一種の防 衛線なのかもしれない。ここでもしも心のままに満面の笑みを浮かべて小走りに駆け寄ることができたなら。それは恐らくニコ・ロビンではあり得ないのだが。
一歩一歩ゆっくりと廃船の瓦礫を避けながら歩く。
進むに連れて心臓が速くなると同時に唇の端がどうしても持ち上がっていく。
素直すぎると感じる自分の身体の部位に羞恥を感じずにはいられない。
それでも。
ロビンは折れたマストを見上げ、躊躇いとともに静かに差し出された手に向かって微笑した。
「らしくないわ、剣士さん」
「だな。だが、どうせ今の俺は少々調子が狂っちまってるんだ。構わねぇさ」
重なる手の間の熱を感じたと思った次の瞬間、ロビンはマストの上に立っていた。そして、ゾロは何事もなかったかのような顔で2人の前に広がる空と海を眺 めている。
そっとその隣りに腰を下ろしたロビンは、ゾロの身体の表面から発せられている熱を肌に感じた気がして思わず自分の身体を抱いた。
「・・・やっぱり刀は3本ないと足りない感じがするものなのかしら?」
ゾロは視線を前に向けたまま短く唸った。
「何本、ていうのは別に大して問題じゃねぇ。1本だから負けて3本だから勝てるってほど単純に数えられるものじゃねぇからな。ただ・・・・・この刀を俺に くれた男は・・・・一緒に言葉もくれたんだ」
言葉に託した心を。もしかしたら『夢』という名前のそれを。
自分が受け取ったそれを上手く説明する言葉を持たないゾロはただ、じっとボロボロな状態で残っている刃を見つめた。
どんな言葉を?
それを問いかけないままロビンはゾロの横顔を見た。
男らしさとは不思議なものだ。それは決して経験を積み成熟した大人であることと等しいとは限らない。現に、今こうして困惑と苦悩を隠し持ったゾロの顔を 見ていると、そこには真っ直ぐに前を向いて生きてきた少年剣士の素顔を垣間見ることが出来る気がする。自分が言った誓いを守り貫き、人から受けた言葉を胸 の中にしっかりと抱えてきた姿。頑ななまでな純粋さ。
「この刀にも名前が・・?」
ゾロはそっと柄を両手で包んだ。
「『雪走』・・・・それがこいつの名だ」
「とても綺麗な名前だわ」
「こいつは滑らかに切る。馴染めば素直な刀だ」
「お金で買われたのではなく、縁があってあなたのところに来たのね」
「・・・・刀は打ち合うため、切るためのもんだ。名刀と呼ばれる刀の中にはその名をえらく大切にされて大事にしまいこまれちまってるものもあるだろうが、 こいつをくれた男は多分、この刀をそうやって殺しちまいたくなかった・・・・・と俺は思う」
「熱い火花を散らして打ち合い、温かい血を吸うことが刀にとっての幸せだと?」
「人殺しが役目だと言ってるわけじゃねぇ。握るものの意思を受けて鉄でも紙でも思うがままに切れるのがいい刀だ」
「そうね・・・・その刀を生かすも殺すも持ち主次第だということだわ」
「持ち主、か」
刀を見つめるゾロの目つきが鋭くなった。
悔いているのだろうか。
いや、そうではない。
戦ったことをゾロは後悔などしていないだろう。
そうではなくて、これは・・・・悼んでいるのだ。
言葉に出来ない代わりに心のすべてで。
目をそらすことなく真っ直ぐにその最期を見つめ。
ロビンはそっと息を吐いた。
「幸せね、その『雪走』は。あなたとあなたの仲間達を守りきることが出来のだから」
ゾロはゆっくりと視線をロビンに向けた。
「・・・お前も含めてな」
なぜ、この男はいつも。
ロビンは思わず胸を抑えそうになった手を必死でとどめた。
口数少ないはずの口から零れる言葉で、視線で、態度で不意打ちにロビンを圧倒する。そのことを嬉しいと感じる心と怖いと思う本能が真正面からぶつかり合 う。
いつから、ゾロは当たり前の顔をしてこんな風にロビンをその懐に受け入れたのだろう。
2人の間に走る緊迫感が警戒心とは違うものになったのは。
「・・・・ずるいわ、剣士さん」
「なんのことだか。おかしなことを言うな」
2人は揃って視線を前に向けた。
いつの間にか風が速くなっていた。
「雲が流れていくわ・・・・さっきよりも速く」
「先を急ぎたくなる気持ちはわからないでもないな」
ゾロは両腕を上げて大きく伸びをした。
強くなりたいと願い続けてきた少年がここにいる。
日々確実に強くなり続けている男がここにいる。
壊れた刀を悼む気持ちを心に抱えながら。
「・・・あなたに切られても、きっと痛いとは感じないのかもしれないわ」
滑らかな一閃を身体に浴びた時に感じるのは恐らく、痛みではなくて迸り出る命そのものだろう。
ゾロはわずかに首をかしげ、ロビンの顔を見やった。
「おまえを切る予定はねぇが」
「そうね。私も今のところは遠慮しておきたいわ」
身体を切られるのはね。
ロビンは心の中で呟いた。
切られるのはこの心だけで十分よ、と。
その言葉はゾロに聞こえるはずもない。
けれど、見ればゾロの唇にはどこか不敵な笑みが浮かんでいた。
なあに?
問いかける気持ちで今度はロビンが首を傾げると、ゾロはゆっくりと前を向いてしまった。
やっぱりずるいわ、剣士さん。
ロビンも視線の向きを同じくし、海の上を流れる雲を眺めた。
一度流れに乗ってしまえばきっと戻ることなどできない。そんな奔流の存在を身近に予感のように感じている。その予感を恐れる気持ちよりも期待のようなも のの方が大きいことが、今の自分の幸福を証明しているのだ。
ロビンがそう結論した時、不意にゾロの手が伸びた。
唇の先に触れた指の感触は思いがけなく冷たかった。