一 過  4

イラスト/ 船に帰ってみんなで部屋の掃除をして。
 夕飯を食べた後に順番にシャワーを浴びて。
 その間、自分はずっと普通だったはずだ・・・・見張り台に登りながら リンは息を吐いた。もちろん、ナミとサンジには普通に見えなかっただろうけれど、ルフィたち他の3人には大丈夫だっただろ う。
 それに、明るい間はなんだかもう少し気持ちが楽だった。
 それなのに。
 月が昇り始めると、気持ちが苦しくなり始めた。
 今夜不寝番の当番だったのは幸運だったかもしれない。どのみち眠れるわけはないのだし、見張り台では一人でいられる。明るい間はあれほど誰かと一緒にい たかったのに、夜になると逆の気持ちになっていた。

(今頃・・・・・・)

 思うなというほうが無理だと思った。思わず心に浮かび上がる光景は瞬間的に切り替わって リンをいたたまれない気持ちにさせた。そんな光景を想像してしまう自分の愚かさがいやだったし、思わず自分を哀れに感じる心 がもっといやだった。

 マーシラは女ざかりで美しく、女としてだけではなく人間として魅力があった。ゾロが初めてその腕に抱いた女性が彼女だったことを、 リンは驚きはしたがどこか肯定したい気持ちがあった。
 自分にとってゾロが初めての人であっても、ゾロにとって自分はそうではない。そのことを リンは知っていたし。
 「過去は関係ない」といつもルフィが言ってくれるように。 リンもそう思っている。

  リンは毛布を身体に巻いた。秋島の夜はかなり冷える。シャワーは明日にしておいた方がよかったかもしれないな、と思った。

 ゾロの熱い肌の感触。力強い腕の中で安心して自分を解放できる時間の素晴らしさ。
  リンは知ってしまった。体験してしまった。
 だから、耐えられないのだ、今、その腕の中に誰かがいるという確信を。ゾロが優しさを注いでいるだろうという想像を。

 ゾロのことを縛りたくないという気持ちはどこへ行ったのだろう。自分は行けるところまで後についていくだけだと決めていたはずの気持ちは。それだけでい い。それだけで毎日信じられないほど幸せだったはずなのに。あれは錯覚だったのだろうか。
 ゾロにぬくぬくと包まれて、他にマーシラのようにゾロに縁がある女性の存在がなかったから、言葉だけで「縛らない」気持ちを作ることができている気持ち がして満足だったのだ。

(ああ・・・・人間が小さい。小さくて浅い。)

 気持ちがぎりぎり追い詰められて手も足も出ないのを、 リンは感じていた。
 ギリギリすぎて涙も出ない。

  リンは立ち上がった。
 そして、見た。
 暗い港の奥の方から近づいてくる人影を。
 やがて月の光の下に現れたその人の髪の色も姿かたちもそっくりそのままゾロだったから、 リンはそれを、自分が作り出した幻かと思った。悶々とした気持ちの底で一番に願っていたのはゾロに会いたいということだけ。 唐突に理解した。

 ゾロが走り出した。
  リンは素早く見張り台からおりて、縄梯子を投げた。
 船べりを飛び越えるようにしてゾロが リンの前に立った。
 微笑もうとした リンだったが、次の瞬間、ゾロの腕の中で小さく声をあげて泣いていた。

リン・・・・・」

 ゾロはしっかりと リンの身体を抱きしめた。こんな風に泣く リンの姿を見たのは初めてだった。泣いているのに、自分の胸にすがっているのに、しっかりつかまえていないとどこかへすり抜 けていってしまいそうな気がした。

「もうこんな事は2度とねぇ。不安にさせて、悪かった」

 自分の口から自然と溢れた言葉。それはもう1度繰り返す気持ちにはなれないものだったから、ゾロは代わりに リンを抱く腕にさらに力を込めた。細い体の震えを早く止めてやりたくて、背中を何度もさすった。

「ごめんなさい・・・・」

  リンの口から出た言葉を戻したくて唇をふさいだ。
  リンの身体の震えは段々とおさまっていった。


「雨が降ってきたんだ・・・・」

 見張り台の上で。
  リンとゾロは並んで一緒に1枚の毛布をかぶっていた。
 ゾロの口から遠い記憶が紡ぎだされた。

「店の軒下で雨を避けてたら、マーシラに声をかけられた。『寒そうね。わたしも寒いから一緒にあたたまりましょう』・・・そんな感じだったな。あいつは部 屋に俺を連れてっていろいろ面倒をみてくれた。本当は商売したかったって言ったんだが、俺が金がねぇことを話すと笑ってタダでいいって言った。ちゃんと温 めてくれればそれでいい・・・そう言ったんだ」

 ゾロは リンの身体をもう少し引き寄せ、しっかりと毛布をまきつけた。

「あいつが俺のどこを気に入ったんだかは知らねぇ。あの頃の俺はまだ海賊狩りとも呼ばれてなかったし、強い奴を探して町から町へ渡り歩いてるただの子供 だった。毎日修行して、時々食えればそれでいい。酒の味は覚えていたが、女を抱こうとか抱きたいとかは考えたことがなかった気がする」

 ゾロは思い出していた。町を歩いているとマーシラのような女に声をかけられることは度々あった。商売だったり興味本位だったり、身体と引き換えに剣の腕 を望まれたこともあった。それはゾロにとっては興味をもてない時間の無駄にしか思えなかったから全部断った。マーシラの誘いにのったのは・・・・・・

「あいつのことを気に入ったからなんだろうな、やっぱり・・・・・・」

 ゾロの呟きを リンは心穏やかに聞いた。 リンにもマーシラの魅力はわかる。だから、頷いた。
 ゾロは リンの額に唇をあてた。自然な動作だった。

「あの頃、あいつには惚れこんだ男がいた。海賊だって言ってたな。金を貯めて流れ歩いていたあいつがあの町にずっといたのはその男を待ってたんだ。もうず いぶん長く待ってたみてぇだった。で・・・・抱き合って朝になって、あいつは俺に約束させた。『いつかもう一度会えたら、その時はどれだけ抱けるように なったか見せてちょうだいね。わたしが最初に教えたんだから責任あるのよ』・・・・・なんつぅか・・・・らしいだろ?」

「うん・・・・声が聞こえるみたい」

  リンは笑ってゾロの腕に額を寄せた。
 そしてゾロとマーシラは再会した。二人とも約束を忘れていなかった。
 そういうことなのだ。

「あの時、俺は抱いたつもりでいたが結局抱かれたみてぇなもんだったからな・・・・」

 この呟きはちょっと リンの気持ちを複雑にした。ありのままを話すゾロの言葉は嬉しかったが、それでもやはり嫉妬めいた感情は消せないようだ。
 ゾロはそんな リンの顔をじっと見た。

「俺はお前にそんな約束は求めねぇ」

(え・・・・・?)

  リンは思わず目を丸くした。展開が急すぎる。確かに リンにとってゾロは初めての・・・・だが・・・・・

「ずっと、そばにいろ」

 ゾロの視線が真っ直ぐで、 リンは息を止めた。ゾロがくれた言葉の意味をすぐには信じられなかった。 リンもゾロも本能的に「ずっと」や「永遠に」という言葉に意味を求めない人間なはずなのだ。人は死ぬ時には死ぬし、失うとき には失う。
 そのゾロが発した言葉は熱かった。熱くて リンの心の弱っていた部分を焼き尽くす。
  リンはゾロの顔に両手を伸ばし、身を起こして唇を重ねた。すぐにゾロがそれに応えて舌で静かに リンの唇を割ってくる。

 求める気持ちは等しく同じ。
 二人は心と触れ合う唇の両方でそれを確認した。

2005.1.30
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