慕  2

イラスト/ 青くて深い海。
 どこまでも果てしなく広がり揺れる水面。その海の真ん中に1軒のレストランがあった。
 海上レストラン『バラティエ』。ユーモラスで明るい色彩の外観と旨い料理が特徴のこの店には、もうひとつ訪れたことがある者が語らずにはいられない特徴 があった。
 コックたちの迫力・・・・言い換えるなら柄の悪さ。
 バラティエを訪れる客層は広く、上流の生活をしている優雅な人間たちも少なくないが、しっかりと躾けられたウェイターたちの静かで無駄なくうごく様子と 厨房の中から溢れてくるコックたちの存在感の対照性は、最初は荒っぽいコックたちに眉をひそめていた上流階級の人間たちにも自然と受け入れられ、さらには 店の売りそのものになっていた。
 海の真ん中という店の立地(?)条件から海賊たちが立ち寄り、あるいは襲撃してくることも多く、そういう場合に本領発揮される『戦うコックさん』の姿は すっかり店の名物だ。レストラン内には滅多に姿を見せない謎のオーナーシェフの噂ともあいまって、中には噂の真偽を確かめるために訪れる客もいた。

 その日。
 海の上の天気も店内の雰囲気も穏やかで太陽の日差しがよく似合っていた日、客たちの視線はひとつの姿を追っていた。
 すらりとした身体に黒いスーツを着こなし、歩くと金色の髪が揺れる一人の少年。ちょうど少年から青年へと続く階段を半分ほど登ったばかりに見えるのだ が、海の色によく似た青い瞳に浮かぶ光はすでに大人のような自信に溢れていた。
 レストラン・バラティエ副料理長サンジ。
 しなやかな身のこなしでテーブルを回る彼は、やめていったウェイターの穴を埋めるためにひどく久しぶりにレストランに出たところだった。他のウェイター が見逃している客の視線に応え、静かに店内を見回して食べている客の表情を確認する。どうやら全員が満足しているようだ。

 そんなサンジは自分に向けられている好奇や他の感情が混ざった視線には全く気がついていなかった。金色の髪、青い瞳、白い肌、そこに真面目そうな線を描 く唇が加わって一見その姿はこの上なく礼儀正しいウェイターに見える。そこに別の色を添えているのは口に咥えた煙草で、やわらかな香りではあるが初めて彼 を見る者には違和感を与える存在だった。

「ねぇ、ウェイターさん、このスープ、とっても美味しいわ。材料は何?どうやって作ったの?」

 サンジに声をかけた有閑マダムの狙いは彼の声を聴くことだったが、当のサンジはそうとはわからず思わず熱心に説明をはじめ、自分の熱心さに気がついてあ わてて元のクールな表情に戻った。
 そんな彼の立ち居振る舞いはさらに人の気持ちをひきつけ、視線を集めてしまう。

「・・・・黙ってると誤解してもらえるタイプなんだよな、あの野郎」

「ケッ!」

 厨房から顔をのぞかせた2人のコック、パティとカルネは顔を見合わせて低く唸った。

 そんな時、また一隻の船が着いた。船から店に上がった姿は3人。素早く出迎えに足を向けたサンジは・・・・・。
 サンジの足が一瞬、止まった。
 立ち止まったサンジの姿に訝しげな視線を投げながら一人のウェイターがサンジの横を通り過ぎ、着いたばかりの3人の客をテーブルに案内していく。
 我に返ったサンジはいそいで水のグラスを揃えてトレーを持ち上げた。
 さきほどまで滑らかだったサンジの足取り。そこに目立たないがわずかな変化が生じていた。本人だけが感じる微妙な狂い。

(ん・・・・・・?)

 サンジの目にはグラスの中の水の揺れが大きいように見えた。接客に出たのが久しぶりだからなのか?いや、さっきまでは何でもなかった。
 サンジはテーブルの横に着く直前までグラスの小さな水面に目をやっていた。普段ならテーブルに進む間にすばやく自分の中に客の印象をまとめあげる。どれ ほど空腹な状態か、店にどんな第一印象を持っているか。けれど、今は。
 サンジは自分の中の正体不明な感情に戸惑いながらようやくテーブルの3人の客に視線を向けた。最初に視線を合わせたのは背筋をしっかりと伸ばした女性。 銀髪を形よくまとめ上げ、年齢を超えた美しさを感じさせる顔には細部まで手を抜かないメークをほどこし、どことなくフォーマルを超えたムードを感じさせる 仕立ての良いスーツをさらりと着こなしている。サンジを見る瞳には面白がるような表情も浮かんでいて、人生をその力で歩いてきた力強さに溢れてい る・・・・恐らく、10年前には美しさを極めていただろう。
 女と向かい合って座る男はあまり印象的なもの見つけられないタイプの男だった。ダークスーツ、その下に隠れている鍛え上げられた肉体。表情は無に近く、 ボディガードと見て間違いなさそうだ。

 そして。

 大人2人の間の席に座るその姿にサンジはそっと目を向けた。テーブル下の膝の上でバッグを開いて何か探している様子の少女の瞳は下を向いているために伏 せられた状態にサンジには見えた。白い頬に影を落とすつややかな睫毛のカーブ。サンジは瞼が上がる瞬間を恐れている自分に気がついた。
 そのままでいい。まだ、そのまま。
 少女の柔らかそうな黒い髪は全体が細かくカールしながらふんわりと腰の辺りまで届いていた。白いドレスに包まれたほっそりした全身とは多少不釣合いに見 える豊かな胸の膨らみ。引き締まったラインを描く腰は片手でつかめそうに見えるのに。深い色に彩られた唇はかすかな微笑を浮かべているように見える。

「注文していいかしら?ウェイターさん」

 低くて落ち着いた女の声が聞こえ、サンジは慌てて姿勢を正した。
 その時、少女が目を上げた。
 深い黒曜石の瞳。サンジの姿を映す瞳には無邪気とも言える色が浮かんでいた。大抵の大人にはできないような美しい仕草とその無邪気さのアンバランスさ。 少女なのに大人のようで、大人のようでまだ未完成の誘惑。

「メニューだけじゃつまらないから、お勧めを教えていただける?」

 反射的にサンジの口から料理や酒、デザートの名前が滑り出たが、サンジの頭は口とは完全に切り離されて自分の姿を横に立って眺めている気分だった。
 時々屈辱にも声が震えている自分の姿と、そして瞳を輝かせながらサンジを見上げる少女の姿を。
 おかしかった。変だった。注文を聞いてテーブルを離れながらも背中の後ろの少女の姿がずっと見えた。少女の保護者らしい・・・・母親なのか?・・・・・ 女のかすかな笑い声も聞こえた。
 なのに、少女の声が聞こえない。

(くそ・・・・・なんで聞こえねぇんだ)

 注文を厨房に通した後、グラスとワインを準備したサンジだが、今度はまた足が気持ちに逆らい始めた。進みたいのに、待っている客のために進まなければな らないのになかなか動き出そうとしない2本の足。

(とにかく、声を聞きたい・・・・・・)

 サンジは自分の手がウェイターに合図してトレーを手渡す様子を他人事のように眺めた。ウェイターに2,3指図するとすばやく厨房に入る自分も。

(何やってんだ、俺)

 サンジは香りの良いオレンジを選ぶと丁寧に絞った。氷を砕いてグラスを満たし、その上から静かにオレンジの果汁を注いで香り付けにリキュールを2滴垂ら した。ワインと一緒に注文されたジュース。多分、あの少女が口にするはずだった。
 ジュースをトレーに載せてサンジは厨房から出た。そして・・・・再びそのトレーをウェイターに渡した。

(だから、どうなってんだ!俺)

 厨房に戻ったサンジが一つ一つ確かめるように丁寧にスープを皿に注いでいく様子を見て、パティとカルネは首を傾げた。

「おい、サンジ!お前、今日は店に出るんだろ?さっきまで向こうで気取ってやがったじゃねぇかよ」

「るせぇ!今忙しいんだ」

 スープを渡し、サラダを渡し、メインディッシュに軽めのデザート。サンジは1品ずつ最高の皿を作っていった。最後は締めくくりにふさわしい挽きたての コーヒーと深い色の紅茶。そこまでをウェイターに運ばせると、サンジはようやくレストランに出て行った。勢いをつけて踏み出したものの、数歩進んだところ で足は止まった。壁際に立って奥を見ると、満足げに微笑む女と嬉しそうに紅茶を飲んでいる少女の姿が見えた。
 静かな充足感がサンジの心に浮かび上がった。同時に焦りのような感情も。サンジの身体も心も矛盾を抱え込んだ爆弾と化していた。サンジ自身からするとお よそみっともないはずのこの状態に誰も気がつかないらしいのが不思議なくらいだった。

 少しするとサンジが見つめていた姿が立ち上がった。勘定が終わっていることにすら気がつかなかったサンジは不意打ちをくらったような気分で前に進もうと したが・・・・やはり、足は言うことをきかなかった。

「とてもおいしかったわよ、お若いウェイターさん。ふふ、それともコックさんかしら」

 横を通り過ぎる女が眉を上げながら声をかけてきた。視線を向けると会釈した少女と目が合った。サンジよりも低い身長。こちらを見上げる瞳がサンジの心に 与える影響は起爆剤に近かった。あくまでも自分の中だけの大爆発。

「ありがとうございました、またお越しください」

 サンジの口からやっと流れ出たのは言い慣れたセリフだけだった。

2005.2.28
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