その日。
サンジは自分がどうやって閉店までの時間を過ごしたか記憶がほとんどなかった。
気がついたときには誰もいない厨房で調理台を力を込めて磨いていた。思い出したように煙草の箱から1本振り出すと残りの本数が予想よりも多い。いつから 煙草を吸わないでいたのだろう。記憶を辿ってもわからない。
サンジの口から吐息がもれた。
とうとうあの少女の声を聞くことがかなわなかった。そのことがなぜこんなにも心を占めているのだろう。微笑、唇のカーブ、手の仕草をどうしてこんなに はっきりと思い出すことが出来るのだろう。いや、思い出すどころか今日1日そのことばかり考え続けていた。
客と会話するのは得意なはずだった。そんな自分がどうして。
「仕込みは全部終わったのか」
バラティエのオーナー・シェフであるゼフの声が聞こえた。ゆっくりと厨房を回りながら鍋の中、棚の上、冷蔵庫の中をすばやく確かめている。
「全部俺たちにおまかせとはいい身分だな、クソじじい」
今日、サンジは1回もゼフの姿を見かけなかった。・・・・と思ったのだが、ゼフは珍しく声を上げて笑った。
「馬鹿野郎。お前が気がつかなかっただけじゃねぇか。俺は何度もお前たちを叱り飛ばしに降りてきてたぞ。・・・ったく、ホントにお前はまだ尻が青いガキだ ぜ、チビナス」
「その呼び方はよせっつったろ!」
1周を終えたゼフはおもむろにサンジの目の前で足を止め、真正面からサンジの顔を見た。ゼフの表情は複雑でサンジにはまったく読めなかった。
「煙草はやめとけって言ったろうが。頑固なガキだ」
反論しようとしたサンジはゼフの瞳を見て口を閉じた。そこに浮かんでいるのはやわらかでいてどこか苦い・・・・・これまでには見た記憶がないものだっ た。
「あの娘のことは忘れろ、チビナス」
「え・・・・・・・」
サンジの口から煙草が落ちた。ゼフの大きな靴がすぐにそれを踏んだ。
「どういうことだよ、クソじじい。俺はべつに・・・・・・・」
いつになく弱々しい語尾になるサンジの口調をゼフは黙って終わりまで聞いていた。
「やめておけ。言えるのはそれだけだ。じゃあな、もうひとふんばりしっかり磨いとけよ・・・・チビナス」
ゼフは義足でコツコツと音をたてながら厨房を出て行った。
「待てよ!あの人のこと、何か知ってるのか?」
返事は返ってこなかった。
(どういうことだよ・・・・・)
やたらと『チビナス』がくっついていたゼフの口調。ほんの時たまサンジに見せることがあるあの表情。サンジと二人きりの時だけに。
一瞬サンジはゼフの部屋へ行こうかと思ったが、やめた。頑固さならあのゼフも負けてはいない。あの背中はもう話は終わったと告げていた。
(それに・・・・・俺が何をどうするっていうんだよ)
名前も何も知らない少女だ。ちょっと不思議な感じがする3人連れだったが、多分、店に来るのも初めてだ。常連客ではない。目の前を通り過ぎて消えていっ た、それだけのことだ。
サンジは自分でもどうしようもない気持ちの高ぶりをぶつけるように、力いっぱい今度は床を磨き始めた。この床磨きでも心が静まらなかったら、次は包丁を 研ごうと思った。
そうしてその夜は更けていった。
翌朝。
まだ陽が昇りきらない時刻、パティがサンジの部屋に飛び込んできて文字通り彼を叩き起こした。
「こら、サンジ!今日の買出しは俺とお前が当番だろうが!さっさとしねぇと・・・・・」
終わりまで言わないうちにパティのガッシリとした身体は戸口に吹き飛んだ。パジャマ姿で裸足のサンジが軽やかに床に下りた。
「朝っぱらから騒ぐなよ、クソコック。すぐ行くから船で待ってろ」
店で古顔のパティにしてみれば、このサンジという副料理長の存在は時々どう考えていいかわからないものだった。コック募集のチラシを目にしてバラティエ に飛び込んできたときには、すでに少年はいた。そのときにはまだ『副料理長』ではなかったが、ゼフの容赦ないしごきの中で一人前に、いやそれ以上に耐えて やり返しその頃からもう料理のセンスを見せていた。
年齢は恐らくパティの半分くらいだろう。口を閉じて黙っていれば自分たちとは到底縁があるはずもないどことなく品がある一人の少年にも見える。が、ひと たび口を開けば飛び出してくるのは他のどの荒くれコックにも負けない迫力の言葉の山。どことなく聞き覚えがある感じがするのは、それがゼフの口調とぴった りリズムが噛みあうからだ。
そして足技。素足で重たいパティの身体を軽々と蹴り飛ばす。どう見ても『赫足のゼフ』直伝の技だが、パティはゼフがサンジに技を教えるところなど見たこ とがない。パティが初めてバラティエに来た時、すでにサンジはある程度の足技を身につけていたのだ。
この少年は一体いつから、どうしてゼフと一緒にいるのだろう。息子では断じてない。他の血のつながりもなさそうだ。口でも身体でも喧嘩ばかりしているこ の二人に時折感じる深いつながりはどこからくるのだろう。
「なにボケーッとしてんだよ。船、出すぞ」
いつの間にかパティの隣りにはしっかりスーツを着込んだサンジがいて、縄をほどいたり船を出す作業に取り掛かっていた。
(くそ〜、また煙草くわえやがって!)
サンジの機敏な動作に文句を言う隙が見つからず、パティは素直に少年に従った。
島に着くのはすっかり太陽が昇った頃だ。週に1回の大きな買出しはすっかり島中の店に覚えられており、この日は店の品揃えが最高のものになる。それを 知っている島の人間たちもこの日に合わせて自分たちの買い物をすることも多いから、街はかなりの賑わいを見せる。
サンジとパティは、時に一緒に、また大半は別々に目当ての店やこれまで寄ったことがない店を回っていた。以前、どちらが選んだ魚を買うかでもめるだけも めて買出しに3日かかったことがある。その時のゼフの怒りようはとてつもなく、2人はその次から互いの選んだ品物には口出しをしないことにした。
サンジが瞳を輝かせて品定めする様子はいかにも真剣で楽しげだった。ジャケットを肩にかけてシャツの袖をまくり、一つ一つの品物を手にとって確かめてい く姿に惹かれるように沢山の人々がサンジの周りに集まる。サンジはレストランに出る時と同じく、人々の視線をまったく意識していなかった。しっかりと並ぶ 商品を見つめ売り文句を聞いて時に質問を挟む。
そんなサンジがようやくなんだか自分の周りにいた人たちがいっせいに自分から少し距離をとったことに気がついたとき、空から声が降ってきた・・・・・よ うにサンジには思えた。甘くて少し低めの・・・・・天使の声が。
「一体何日分を買ってらっしゃるの?」
雷に打たれたような、という表現があるが、今のサンジの状態がまさしくそれだった。振り向く前から胸に湧き起こる確信。昨日あれだけ願ってかなわなかっ たものが与えられたことへの歓喜。
(落ち着け・・・・・・)
サンジはそっと呼吸を整えてから静かに振り向いた。
思ったとおり、あの少女がいた。昨日よりも軽そうな白いワンピースに揃いの日傘を傾けたその姿。つややかな巻き毛に縁取られて1枚の絵のように見えるそ の姿に、サンジはしばし言葉を忘れた。