扉の向こうは小さなホールだった。琥珀色に見える床石が敷き詰められ、中央に花が生けられている。サンジが知らないその花は恐らくこの島の花ではない。最 も、バラティエではほとんど花を飾らない。そう言えば時々知らないうちに現れる花は誰が飾っているのだろう。
(何考えてんだ、俺)
サンジはホールを見回した。ホールを囲むように右手、左手に扉があり、正面には上に続く階段があった。見上げるとホールは吹き抜けになっていて、階段を 登るとそのまま手摺がついた回廊に繋がるようだ。
「サンジさん」
ちょっとの間奥に姿を消していたアミルが微笑みながら戻ってきてサンジの手を取った。今度は手のひら同士が触れ、サンジは自然とアミルのほっそりとした 手を左手で静かに握った。そっとしようと思うとやけに肩に力が入ってしまった。
「お待たせしました。こっちへ」
アミルはサンジを右手の部屋へ連れて行った。そこは落ち着いた感じの部屋で来客を通すためのもののようだった。心地良さそうな椅子が何脚も置かれ、一組 のソファが向かい合わせに配置されている。
アミルはサンジを窓際の椅子に座らせた。
(なんだ、いたのかよ)
見慣れた男がいろいろと揃えられたトレーを手に進み出た。水で絞った布、塗り薬、包帯・・・・とさり気なく順番にアミルに道具を渡していく。
サンジは自分の前に膝をついたアミルから漂ってくる幽かな馨しい香りを鼻にとらえ、流れ落ちる黒髪と滑らかな肌に視線を落とし、そして自分の傷を癒そう とする白い指の優しい感触を黙って受け止めていた。心にドンドンとたまっていくこの感情は何なのか。少女の声も名前も手に入れたのに、喜びと同時に溢れて くるこの気持ちは何なのだろう。
自分は与えられることに慣れていないのだ・・・唐突にサンジは思った。アミルのひたむきさと優しさを注がれて自分は嬉しいくせにそれをどうしたらいいの かわからない。
昔、一人の男に想像を絶するような大きなものを与えられて、それに対する溢れる感情を全く表現できないでいるように。
料理の話は出来る。客の世間話の相手も出来る。荒っぽい男たちが怒鳴り散らそうがビビらずやり返せる。
なのに。
思いがけずに与えられた大切にしたいもの。それに対して自分はなぜか上手く話したり行動したりできない。
(俺は・・・・・・・)
サンジの左手は無意識に煙草の箱を取り出した。けれど、サンジはそれをまたそのまましまい・・・・・・ふと見ると、こちらを見上げるアミルの瞳が微笑ん だ。
「吸っても大丈夫。もう、終わりました」
立ち上がったアミルはそのまま奥へ行ってしまった。
男もトレーを下げて姿を消した。
サンジはぼんやりと窓の外に目を向けた。
海だ。目の前に海がひらけている。いつの間にこんな高台に上っていたのだろう。車に乗っている間サンジはアミルの姿に見とれていたし、男はまったく歩調 をくずさなかったとはいえ、全然気がつかなかったとはどうかしている。
「ここからの眺め、大好きなの」
(声を聞いただけで、なんでこんなに・・・・・)
後ろから掛けられた声。サンジが飛び上がらずに耐えたことにアミルは気がついてしまわなかっただろうか。サンジは思わずアミルの顔を見て笑っている様子 がないかどうか確認した。
戻ってきたアミルは腕の中に不思議なものを抱えていた。白と銀。二色に光るつややかな曲線。細い三日月を変形させたようなそれには銀色の弦が5本、張ら れていた。
(楽器・・・・?)
アミルは窓を開けた。風と波の音がカーテンを揺らしながら流れ込む。
アミルはスカートを整えてからサンジと向かい合って椅子に座ると、軽く息を吸い込んでから一節奏でた。
美しい音だった。サンジは瞳を大きく見開いてアミルの指先を見つめた。そんなサンジの様子に微笑みながら、アミルは曲を奏ではじめた。
外から聞こえてくる波の音と共鳴するような弦の響き。
サンジははじめ緊張しながら聴いていた。今の状況が信じられないように思え、姿勢をきちんと正した状態でいなければいけないような気がした。しかし、シ ンプルで素直に心に入ってくる旋律に身を任せるうち、サンジの心の中は変化していった。
穏やかな波の音。
記憶に奥にずっとあったような音色。
その二つがサンジの記憶を呼び覚ましていく。今はもう慣れたけれど幼いサンジはしばらくの間波の音が苦手だった。荒れ狂う水面に落ちていきながら聞いた 渦を巻くような嵐の音。揉まれてあがいた挙句に沈んでいく冷たい水中の中ではいつしか音が消えてそのまま闇の中に吸い込まれていく気分だったこと。海から 助け上げられたあとの何もない岩の上で飢餓に狂いそうになっていた長い日々にもずっと断崖ひ打ち寄せる波の音を聞いていた。
波の音はサンジの記憶を揺さぶり、感情を高ぶらせ、それでも弱音を吐きたくないサンジは唇を噛みしめて眠れない夜を我慢した。それでも何度か、身体を そっと揺すられて目覚めた時に目の前にいたのはゼフだった。眠れない夜なら我慢できたが、一旦眠ってしまった後の夢には対抗する手段がなかった。自分の頬 に流れる涙がたとえようもなく恥ずかしくて、サンジは怒鳴り散らして布団をかぶった。そんな時、ゼフは何も言わなかった。声も音もたてないゼフが出て行っ たのかどうかわからなくて、サンジは布団の中でじっと耳を澄ませた。そうして気配をうかがっている間に、いつもいつの間にか眠ってしまうのだった。
(今頃、なんで・・・・・・)
ゼフとやり合ううちに自然と足技を身につけた。
それと一緒にコックとして腕が上がるにつれて波の音は日常になった。何もかも怖がるのはただの弱さ。同じ海でも怖い時とそうではない時を区別できてこそ だ。誰もまだサンジを大人としては見ないけれど、サンジには自分が子供ではないという自負があった。荒くれ男たちに対抗するために虚勢をはる場合もあった が、自分が口にした分はちゃんとやってきた。
サンジはもう海を恐れない。引き際も忘れない。バラティエの中で一番泳ぎがうまい男、それが今のサンジだ。
音を追ううちに飛んでいたサンジの意識は過去に溯るとそこから現在までを静かに辿った。表情を崩すことはなかったが、それでもその瞳だけは彼の感情の動 きを映し出していた。
アミルはその瞳を見つめながら曲調を変えていった。静かに囁くように始まり次第に大きく激しくなり、そこから段々と穏やかさが溢れ始め、最後は希望に満 ちた明るさで終わる。
曲が終わった時、2人はしばらく無言のまま見つめあっていた。2人とも自分たちが今体験したことをよく理解できなかった。ただ、何か心を揺さぶられる想 いが2人の間を通り過ぎたこと。それだけ、わかっていた。
「サンジさん・・・・・・」
サンジの頬を一筋の涙が落ちた。
「ごめん・・・俺、なんだかみっともないところを・・・・・」
サンジはすぐに頬をぬぐって立ち上がった。
「いえ・・・・あの、嬉しかったわ。こんな風に真剣に聴いてもらったこと、ないもの」
窓の外はいつのまにか夕暮れの景色に変わっていた。
「ほら、月」
アミルが窓辺に立って手を伸ばした。その白い指先が示すのは赤みを帯びた空に浮かぶ細い月だった。
(戻らなきゃな)
サンジは途中で放り出してきた買出しとパティのことを思い出した。今頃待ちくたびれてサンジのことを探しているかもしれない。
(でも・・・・・)
サンジは動かなかった。動きたくなかった。こうして立ったままもう少しアミルの姿を見ていたい。声を聞いていたい。それだけでいい。
サンジは静かに1歩、アミルのほうに近づいた。サンジを見つめるアミルの瞳は何か言いた気に揺れていた。無言の期待と・・・・・そしてサンジがもっと もっと年齢を重ねていたら気がついたかもしれない暗い色。
サンジは自分からアミルの手を取った。こみ上げてくる想いを口にすることはできなかったけれど、両手でアミルの右手を包み込んだ。
「お誕生日の前にサンジさんに会えて良かった・・・・・・」
逸る心臓を必死で抑えていたサンジは、この時、アミルの言葉の意味を深くは考えなかった。ただ『誕生日』という単語に強く反応した。
「誕生日、いつなの?」
アミルは目を伏せた。
「明後日よ」
そんなアミルの様子を恥じらいと受け止めたサンジはそれ以上は訊かなかった。頭の中に浮かんだひとつの思い付きが心の中で膨らみ始め、サンジの瞳に陽気 さが戻った。
「アミルちゃん、俺、買出しに戻らなきゃいけないんだ。でも・・・・絶対にまた、来るから!歓迎されねェかもしれないけど、もう1度だけ、来てもいい か?」
アミルはサンジの顔を見つめ、やがて微笑んだ。
「ありがとう、サンジさん」
その瞬間、サンジはアミルを抱きしめたい衝動と激しく戦った。
(突然何考えてるんだよ、バカ・・・・・)
サンジは気持ちとは反対にそっとアミルの手を離した。やわらかな感触がまだ残っている気がした。
「じゃあ、また!」
サンジは走るような勢いで部屋を出て、そのまま外に駆け出した。