トレーを持つ右手。ジンジンする右手の痛みにサンジは苦笑しながら料理の皿を運んでいた。昨夜、ケーキ作りに集中していたサンジは右手をフルに活躍させて しまった。この痛み具合からすると、完全に水疱が破れて皮が剥け上がっているに違いなかった。
それでも。サンジは包帯を取り替えようとしなかった。包帯ぐるぐるの手を突き出したら客が驚くだろうと考え、普段とは逆に右手でトレーを持った。給仕す るのは左手。ちゃんと両方訓練してあるから心配はない。
(もうすぐだよな)
昼のランチライムが終わったら、サンジは今日は上がっていいことになっている。昨日の買出しからずっとまともに眠っていないが、今日のサンジは普段とは 一味違う。最高の気分で空も飛べそうな勢いを感じていた。
「どう思うよ?アレ」
カルネがいつも通りにバティに囁いた。しかし、バティはなぜか唸っただけで返事をかえそうとしなかった。
カルネが首をかしげながら次の皿を仕上げた時、サンジが軽やかな足取りで厨房に入ってきた。真っ直ぐに冷蔵庫に向かい、その片隅からそっと白い箱を持ち 上げる。
「なんだなんだサンジ。持ち逃げか?」
カルネが絡むとサンジはそれを笑い飛ばした。
「バ〜カ。これは俺が自分で買った材料で作ったやつだ。どこかのアホが間違ってデザートに使っちまわないか冷や冷やしてたぜ」
それからサンジはさらに軽やかな足取りで自室に上がり、鏡に向かって身支度を整えた。アイロンを掛けておいたシャツを着て一番気に入っているネクタイを 締め、スーツも取り替えた。靴に汚れがないことを確かめ、金色の髪に軽く櫛を入れる。
(髪はどうせ風で乱れちまうよな)
思い直して忘れないように櫛をジャケットの内ポケットに入れる。
それから鏡で最後のチェックをし、深呼吸。
(大丈夫だ・・・・俺にはケーキを届けるっていう使命がある)
鏡に向かって一つ頷くと、サンジは箱を持って部屋を出た。
海は今日も快晴で、島への航海は心地良かった。港が近づくにつれて、サンジは息苦しさ、胸苦しさ、心の混乱を一度に感じ始めていた。この3日間の中で一 番大きい。そして今ではこのいろいろの原因がアミルであることはわかっていた。アミルの姿、声を思い出すだけで苦しさが倍になるからだ。
もしかするとこれが恋というものなのか。そんなことまで考えた。
(なんでもいいさ。俺はとにかくアミルちゃんに会いたいんだ)
港に船をつけて船を下りると、何人もがサンジに声を掛けてきた。
「なんだ、昨日で買出しは終わったんじゃなかったのかい」
「忘れ物でもしたのかい?」
返事もそこそこにサンジは人々の前を足早に通り過ぎた。早くこの目で確かめたかった。昨日のことが全部夢で消えてなくなっていたらどうしたらいい。そん なことまで考えてしまうほど、サンジの心は高ぶっていた。
メインストリートを一気に抜けると、見覚えのある場所に出た。今日も何台か車が止めてある。そして。
少し遠い高台を見上げて、サンジはホッと息をついた。小さく見えるが、館はあった。海のほうを向いた1階のあの窓が、多分、昨日のあの部屋だろう。窓辺 に揺れるカーテンが見えた気がして、サンジは明るい笑顔になった。
「サンジさん」
不意に後ろから掛けられた女性の声。サンジには聞き覚えがあった。低めで落ち着いた大人の女性の声。
振り向いたサンジの前に、黒い車が、そしてもう慣れ親しんだ外見の男が立っていた。そして車に乗っているのはしっとりとしたスーツを身にまとったあの女 性・・・・・多分「ロサ」というのがこの女性なのだとサンジは直感した。
「突然ごめんなさいね。お話があるの。車に乗ってくださる?」
断れるわけはなかった。アミルの保護者であるかもしれない女性だ。サンジは黙って言われるままにロサの隣りに座った。サンジが車に乗り込んだときも、男 は目を合わせなかった。
「しばらくその辺をね、ダルグ」
ロサが声を掛けると車は動き出した。
「先日はおいしいお料理をご馳走様。あなたが作ってくれたんでしょう?わかっていたわ。昨日、アミルから聞いたけれどね」
思わずサンジが顔を上げると、ロサの視線が真っ直ぐにサンジの瞳をとらえた。しかし、そこにあるのはサンジが予想していた非難の色ではなかった。もっと 別の・・・・悲しみとか哀れみに近いもののように思え、サンジは余計に落ち着かない気分になった。
「サンジさん、わたしのことをバラティエのオーナーから聞いた?」
「いえ・・・・」
「そう・・・・ちょっと意外だわ。オーナーはあなたを可愛がっていると思ったんだけど」
心のどこかで感じる怒りとロサの言葉の意味がわからないことへの戸惑いがサンジの中で混ざり合っていた。そんなサンジを見て、ロサはしずかに微笑した。
「ごめんなさいね、ちょっと変な言い方だったわ。でも、オーナーはあなたがアミルと会うのを禁止するべきだったと思うのよ・・・・本当に」
(禁止・・・・・?)
サンジは混乱し始めた頭を振った。そして、アミルのことを忘れろ、といったゼフの言葉を思い出した。
「・・・・やっぱり何かは言われたのね。そう。でも、詳しい事情は言わなかったのね、オーナーは。・・・・・そうね、彼は口が固そうだし・・・・余計なこ とは言わないタイプね」
ロサは細い煙草を取り出して、火を点けた。そしてサンジに微笑みかけた。
「あなたも吸っていいのよ。ふふ・・・・まだあまり似合わないけれどね」
「一体、どいういうこと・・・・なんですか」
サンジは自分の声が震えだしそうな気がして焦った。ロサの声はどこまでも静かで穏やかで、それだけに話の続きが全く予想できなかった。何もかもを見通し ているような大人の女。サンジが対等に相手が出来る存在ではあり得ない。
「わたしの仕事はね、サンジさん、人を・・・・女性を育てることなの」
ますます意味がわからないサンジの顔を見て、ロサは笑った。
「わたしが育てる女性はね、みんな花嫁になるか、或いは自分で商売をはじめるか、どちらかの道を行くことになっているのよ。どちらの道を行くにせよ、わた しのところを出てから苦労とか後悔をしないように、心をこめてしっかりと育ててきたわ。つまり・・・・アミルもその一人なのよ。最初から道は決まっている の」
(え・・・・・・)
サンジは話の内容を理解しようとした。しかし、少年の心と頭には女の言葉の意味がなかなか入ってこようとしない。
ロサは一筋の煙を吐いて、薄くサンジに微笑んだ。
「アミルは今度の誕生日にここよりも大きな島の大きな町に行くの。その町の大地主と結婚することになっているのよ・・・・・ほんの子供の頃からね」
結婚。その言葉はサンジの中にストレートに入ってきた。よく知っているけれど実はよくわからない言葉。意味はわかっているつもりでこれまで気にしないで きた言葉。周囲が荒くれ男だらけでまだ少年のサンジには無縁だった言葉だ。
今も、無縁だ。サンジはまだ「恋」という言葉の可能性を探り始めたばかりなのだから。唐突に突きつけられてもわかるわけがない。
「アミルはわたしにとっても特別な子なの。大抵の場合はかなり大きくなってからやって来てほんの数年育てたらみんな巣立っていくのだけれど、アミルは縁が あってまだほんの赤ん坊の頃から知っていたの。わたしの友人の子供なのよ。友人に頼まれた時はまだ本当に幼い少女だったわ。でも、その頃からとても綺麗で 可愛い子だった。大切に育てたわ。アミルの婚約者はね、5年間待っていたのよ」
言葉がサンジの前を通り過ぎていく。
「こうして真面目な話をするのはね・・・・あなたが一人前に頑張っている姿を見ているからなのよ。じゃなかったら問答無用でただ放り出すかアミルを隠して しまえば済むことだわ」
ロサの口調がさらに静かなものに変わり、彼女の手がサンジの包帯を巻いた右手に触れた。
「あなたはアミルに惹かれているわ。でも、それは当たり前のこと。アミルはそういう存在になるように育てられた子なの。身も心も美しく・・・・愛されて守 られて生きていけるように大切に育てたわ。アミルは明日、島を出るわ。その目的も行く場所も子供の頃からちゃんと教えておいた。だから、アミルにとっては 当たり前のことなのだけど・・・・・」
ロサはサンジの顔を覗き込んだ。
「わたしにはわかるわ。あなたにとってアミルは初めて心惹かれた女の子。・・・・そしてね、アミルもあなたに深い印象を受けたのよ。あなたはアミルが初め て言葉を交わした年齢が近い男の子だから。アミルの婚約者はとても大人なのでね」
サンジの瞳に喜びがよぎった。アミルが自分に好意を持ってくれたとロサは言っているのだ。しかし。ロサの瞳にはやはり悲しみと哀れみがあった。そして懇 願が。
「惹かれあい始めたばかりのあなたたち。だから、よかったわ。こうしてわたしは話が出来る。そして、アミルの旅立ちは明日。わたしは心を割ってあなたにお 願いできる」
ロサはサンジの手を握った。サンジはロサの瞳を見ながら身動きが出来なかった。それほどの感情が女の体から溢れてサンジを取り巻いていた。
「さっきも言ったけれど、アミルは大切に守られて愛されながら生きていけるように育てられたの。心地良い住まいに美しい衣類、おいしい食べ物、心を豊かに してくれる音楽、そして愛情・・・・。サンジさん、あなたはこのうちのいくつをアミルに約束することができて?安定した豊かな環境・・・・あの子にはこれ が絶対に必要なのよ。出会ったばかりのあなたたち。これからあなたがアミルを愛するようになっていくとして、あなたはあの子にすべてを約束できる?与えて やれる?」
サンジは口を開こうとした。答える言葉は見つからなかったが、何か言おうと思った。しかし、唇は動かなかった。一方的に押し寄せる言葉。思ってもいな かった話の展開。それが昨日のアミルの姿と声の記憶を囲んでいた。
(俺は・・・・アミルちゃんを・・・・・・・)
昨夜心をこめて作ったケーキを渡して喜ぶ顔を一目見たかった。もしも目の前で一口だけ食べてくれたら・・・・そして「おいしい」と言ってもらえたら幸せ で爆発してしまっただろう。それだけでよかった。願っていたのはそれだけだったのに。
「う・・・・・」
思わず唇の間からもれたその声とも音ともつかないものが自分のものだと気がつき、サンジはしっかりと口を引き結んだ。
そんなサンジを見てロサはサンジの手を離し、静かに頷いた。
「わかってもらえると思っていたわ。まだ大人ではないあなたにこんな話をするなんて、自分の生き方が少しばかりいやになるけれど。でも、わたしにはアミル はとても大切なの。今はきっと本当にはわかってもらえていないのよね。でも、ありがとう。きっとあなたはアミルを黙って行かせてくれるわね」
「・・・・止めてください。降ります」
俯いたサンジの口からようやく言葉が出た。低く、絞り出すような声だった。
「送るわよ・・・・・館まで。その箱、あの子に渡したいものが入っているんでしょう?話は終わったのだから、会っちゃいけないなんて言わないわ。わたし は・・・・あなたが好きだしね」
ロサは再びサンジの手を取ろうとしたが、サンジは静かにそれを逃れた。
「歩きたいんです。止めてください」
ロサがため息とともに合図すると、車が止まった。
サンジはすばやく車から降りて、座席に置いておいた白い箱を受け取った。
「これから、どうするの?」
ロサが問いかけると、サンジは顔を上げた。張り付いたような表情のまま、サンジは首を横に振った。
「わかりません・・・・・ただ、歩いてみます」
「・・・・わかったわ。もう会うこともないでしょうけれど、元気でね」
車は動き始めた。
立ち尽くすサンジが一人、その場に残された。
「・・・・昨日からアミルが一層綺麗になって仕草や表情になんともいえない艶が出てきたこと・・・・・・・そんなことをあの少年にはちょっと言えなかった わね。・・・言えたとしてもまだピンと来なかったでしょうし」
ロサが呟くと梶棒を握る男はひとつ頷いた。
「思い出になるのがちょうどいいのです、ロサ様」
「ふふ・・・あなたもあの少年を嫌いになれなかったのね、ダルグ」
疲れたようなロサの顔に微笑が浮かんだ。