高台に続く麓の道端に少年は立っていた。放心したようなその表情は彼の心がどこにもないことを現しているようだ。
海に下りる風が金色の髪を揺らした。
少年の胸の奥に芽生えはじめていた二つのものが壊れようとしていた。大人に近づいていることへの自信とある存在をを慕う心。どちらもつい先刻まで少年の 中を一杯に満たしていたものだ。
明るい陽光を受けた海と同じ色の瞳は曇っていた。
(俺は・・・そんな・・・)
サンジは昨日知ったばかりの少女の名前を呟いた。声にならない呟きはまた心の中に戻ってくる。静かな響きの美しかった旋律が頭の中に蘇る。あの音色はサ ンジとアミルのあの一時そのもののように思えた。
声を聞いて。
名前を知って。
優しい白い手をそっと握った。
これからもっともっと一緒に話をして、また手をつないで、そしていつか・・・・・
サンジの中に広がる夢の光景はそこまでで終わっていた。そこまででもう十分眩しすぎてその先は考えられなかった。
結婚。
安定した豊かな生活。
アミルを愛して与えて守っていく男。
突然サンジに突きつけられた世界はこれまでに考えてみたこともないものだった。これが大人の世界なのだろうか。惹かれあうだけではだめだと・・・サンジ の中に生まれはじめた感情は開花する前に踏み潰された。
サンジがもっと大人で、シェフとして自分の店を構えていたら。
そうしたら、アミルと一緒にいたいと願うことを許されるのだろうか。
それとも、コックという職業そのものがすでに失格だろうか。
まして、オールブルーという幻の海を夢見ている自分では。
(俺は・・・)
ぼんやりとしている意識の中で、サンジは何かが腕の中からすり抜けそうになるのを感じた。
箱だ。昨夜、結局3回作り直した真っ白なケーキ・・・・
サンジの右手が反射的に箱を静かに抱えなおした。
その瞬間、サンジの瞳から涙が溢れた。
それはこの3日間でサンジの心に溜まっていた想いの代わりだったかもしれない。
(会いてェよ・・・・・)
泣いている自分を子供みたいだとサンジは思った。誰かに会いたいだけで涙が出るなんて。
ロサが言っていたように今のサンジにはアミルを守ることはできない。
アミルの旅立ちを止めるつもりはない。
ただ。サンジはアミルに約束した。もう一度会いに行く、と。そしてなによりもサンジ自身が会いたかった。
アミルのために作ったケーキを捨てることなどできない。他の誰かに食べさせる気になれない。
サンジは涙を拭った。その瞳には光が戻っていた。
館の前で足を止めたサンジは、深く息を吸い込んだ。なんとなく建物の中では会いたくなかった。でも、会える予感があった。
館の壁に沿って歩き、海に向かって光るガラス窓に近づいた。思ったとおり、昨日そこから海を眺めた窓だった。
(あ・・・・・)
部屋の中にはアミルとロサがいた。繊細な形のカップを手に向かい合っていた2人は同時に窓の外のサンジに気がついた。アミルが急ぐように立ち上がり、ロ サは静かにカップを置いてサンジに静かな微笑を見せると部屋を出て行った。
速い足取りで窓辺に来たアミル。サンジとアミルはガラス越しに互いを見つめた。どちらの顔にも涙を落とした跡があった。サンジは初めてアミルのことが自 分よりも年下な少女に見えた。
「サンジさん」
窓を開けたアミルの手は震えていた。
サンジは黙って微笑みかけた。それから静かに白い箱を差し出した。
「これ・・・・1日早いけど」
アミルは頷いて受け取ると、蓋を開けた。
「綺麗・・・・」
表面がふんわりとした波に包まれた純白のケーキ。
アミルの瞳に光るものが盛り上がった。それでも、アミルはにっこりと笑った。
「ありがとう、サンジさん」
(遠いなぁ・・・・・)
アミルの笑顔魅せられながら、一方でサンジの心は幽かに痛んだ。アミルは自分の道をそのまま受け入れて進むことを望んでいるのだ。だからこんな風にサン ジに微笑むのだ。
「アミル・・・・」
サンジはそっと手を差し伸べた・・・どこかへ離れていくものを追うように。その指先はアミルの深く彩られた唇に触れた。
アミルは動かなかった。じっとしたままサンジの瞳を見つめていた。漆黒の瞳に再び涙が溢れ今にもこぼれ落ちそうになった。その瞬間にサンジは手を動か し、唇から頬をそっと撫ぜると最後に波打つ黒髪を一筋からめとり、そのまま手を下ろした。
「ありがとう・・・・・元気で」
サンジはアミルに背を向けた。
「サンジさん!」
後ろから聞こえたアミルの声はサンジの胸に食い込んだ。
でも、振り向かなかった。歩き始めたサンジの足は最初は重く、次第に速くなった。
(ほんとに、ありがとう・・・・)
坂道を走り降りるサンジの心に浮かんだのはこの言葉だけだった。アミルの最後の一声がいつまでもサンジの心に響いていた。
「俺は・・・・お前に酷な事をしちまったかもしれないな、チビナス」
船から下りるサンジを再び出迎えたゼフは呟くように言った。その視線はサンジの顔をじっと見ていた。
「突然なんだよ、クソじじい。そんなとこに突っ立ってると邪魔になるだろ!俺は別に・・・・あんたを恨んだりしてねェよ。ただ、誕生日のケーキを届けてき ただけだ」
ゼフは店の中に入ろうとはせずそのままベンチに腰を下ろした。サンジも黙ってそれにつきあった。
「ロサというあの女、この店には何度か来たことがある。あの日が初めてじゃねェ」
思わずサンジは顔を上げた。
「これまでに来た時は、前もって予約を入れてきた。・・・・・・だから、あの女が来る時はお前をレストランには出さないようにしてたのさ」
「・・・・なんで、俺に何も言わなかったんだよ。ただ忘れろって言われたってそんなの・・・意味わかるわけねェだろ」
「お前にどう言ったって・・・・・。素直にきくタマじゃねェだろうが」
ゼフのいつもの口調が今日のサンジの胸にはやけにしみた。おまけに今日は目玉かどこか壊れてしまったに違いない。やたらと涙が落ちたがる。サンジはゼフ の前では泣かないと決めていたから、しっかりと唇を引き結んだ。
ゼフは横目でちらりとそんなサンジの様子を見たが、何も気がつかなかったように視線を前に戻した。
「世の中にはいろいろな女がいる。これからはちゃんとしっかり見るんだな」
「俺は、もう女なんて・・・・」
ゼフは声を出して笑った。
「今はそう言ってろ。今はな」
ゼフはそのガッシリとした手でサンジの頭を軽く叩いた。
「なんだよ、子ども扱いすんな!」
サンジは思い切り右足を振り上げた。
その日の喧嘩もいつもどおりゼフが勝った。しかし。その日のことを思い出すたびに数年後のゼフは苦笑いするしかない。なぜなら・・・・・
「やあ、マリエ、いつも綺麗だね〜。リンダちゃんは元気だった?ドレスが素敵だ!」
レストランの中を軽やかに歩くサンジの声が響き渡る。
(ちゃんと見ろとはいったがな・・・・・全部相手にしろとは言わなかったぞ)
背が伸びて料理にも足技にも磨きがかかったサンジの姿は、ゼフの目には昔と同じ『チビナス』だった。今は女性を賛美することにかかりきりに見えるサン ジ。ゼフの目にはあの日以来いくらはしゃいでいても、サンジが自分の周りに薄くて目に見えない幕のようなものを張り巡らしているように見えた。
だが、きっとまたいつの日かサンジが一人だけの女性を見つめる日がくるのだろう。危なっかしいくらい心をむき出しにして、真っ直ぐに向き合う日が。
(その時にはもう、こいつはここにはいないかもしれねェな)
ゼフは視線を海にずらした。