緒 縁

イラスト/ その島の裏側の小さな入り江には砂浜と時折流れ着く流木、そして少し広い洞窟があった。
 砂の上には2種類の足跡が伸びていた。厚い本を抱えた少女が歩く前を大型の犬が尾をなびかせながら走っていく。黒い毛並みが陽光を浴びて艶やかさを見 せ、のびのびと走る姿には躍動感があった。後ろを歩く少女の足取りも軽くて静かながらリズミカルだった。1人と1匹が互いだけの時間を楽しんでいるのがわ かる。
 少女は待ちきれないように歩きながら本を開いた。時折砂に足をとられながらも、勝手知ったるお気に入りの場所だ、確実に目指す洞窟に近づいていく。
 と、犬が吠えた。
 少女はその声にいつもとは違う響きを聞いた。

「レフ?」

 名を呼ぶとレフは振り向いてまた吠えた。少女の顔から微笑が消えた。

「レフ、誰かいるの?」

 レフは洞窟の入り口まで走り、中を見ながらもう1度吠えた。
 少女は本を閉じると走った。洞窟の入り口の前には中に続く足跡があった。レフがその匂いをかいでいる。少女の背中に緊張感が走った。
 入り口からそっとのぞくと最初は何も見えなかった。しかし、気配があった。
 薄暗がりに目が慣れてきた少女が最初に見たのは、自分を見る鋭い二つの瞳だった。全身を黒い服に身を包み頭に黒いバンダナを巻いた1人の男。バンダナの 下から覗く両眼は険しい光を放っている。少女は男の目を見つめた。
 レフが少女の前に出て唸り声を上げた。男は犬の目を睨んだ。
 視線が決める上下関係。少女は黙って結果が出るのを待った。男は全く見たことがない人間だった。だから、少女はもう恐れる必要を感じなかった。それに男 には何か気になる気配があった。張りつめた空気がその理由を告げようとしている気がする。
 やがてレフはその場に腰を下ろした。男の力を認めたが警戒する必要は感じないようだ。男も犬から視線をはずし、黙っている少女に向けた。

「何見てる・・・・何か用か」

 男の低い声も少女は怖さを感じなかった。
 少女はそっと1歩、洞窟に入った。男は少女が運び込んでおいた2本の流木のうちの、穴の奥の方のものに座っていた。

「用がないなら近づくな」

 男の耳のピアスが金色に揺れた。男は腕組みをして目を閉じた。
 少女は男の頭から視線をずらして行き3本の刀に一瞬目をとめたあと、ふと気がついて男の脇腹を見た。上衣の黒い色が少し違う部分があった。あれ は・・・・

(血痕・・・?)

 少女はゆっくりと男の前まで進んで手を伸ばした。

「来るな」

 男の両目が開いて少女を睨んだ。少女は伸ばした手をそのまま男の額にあてた。男は驚いて反射的に身を退いたが、少女の手には熱さが残った。

「よせ」

 思わず男が声を荒げると少女は手を下げた。それから男に背を向けた。

「レフ」

 黒犬は立ち上がり少女と並んで洞窟を出て行った。
 男は目を閉じた。



「また、お前か」

 男は薄く目を開けた。
 少女は男の前に膝をつくと持ってきた包みを広げた。

「・・・服を捲くって・・・ください」

「あぁ?」

 睨み付けると少女の静かな目は少し揺れた。

「傷薬を・・・・」

「このくらい寝れば治る。お前には関係ねぇだろう」

 少女は伸び上がって男の額に触れた。

「熱があります」

 少女の手は冷たかった。その冷たさは思いのほか心地良かった。どうやら意外と熱が高いのかもしれない。男はため息をついた。男が譲歩した雰囲気を感じ 取ったのか、少女は男の傷を覆う布に手を掛けてゆっくりとめくり上げた。まだ生々しい傷があらわれた。固まった血が服と一緒に剥がれてまた新しい血が滲み 出す。

「レフ」

 少女が呼ぶと黒犬が傍らに現れた。背に小さな樽がくくりつけてある。少女はその樽を下ろすと犬の鼻筋を優しく撫ぜた。樽の中身は水だった。少女は包みか ら取り出したタオルに水を注いだが、気がついたように再び荷物を探ってカップを取り出すと水を満たしてから男の前に差し出した。男は黙ってそれを受け取 り、口をつけた。水は冷たくはなかったが、それでも乾いた喉と身体にしみわたった。少女は2杯目を注いで男に渡すと、ぬらしたタオルを手に取った。
 タオルが傷に触れた瞬間、男の身体は小さく震えた。焼け付くような肌の上に氷を直接のせられたような感覚だった。少女の手は慎重に動いて傷口と周囲を 拭っていく。それが終わると少女は次に小さなボトルを取り出して、タオルより薄めの布に中味を振り出した。水と同じ透明な液体が見えたが今度は匂いがあっ た。消毒薬だ。手を伸ばした少女は一瞬ためらった。

「・・・痛みには慣れてる。暴れやしねぇよ」

 男は苦笑した。少女はさらに慎重に傷を清めた。

(慣れてるのかそうじゃねぇのかよくわからないな)

 男は傷薬を塗っていく少女の白い指を眺めた。ためらうようにゆっくりと、けれど真剣な表情で動かされる指先。最後に清潔な布を当てて包帯を巻いていく少 女の動きは素早かった。
 治療が終わると少女は荷物を大きく広げた。そこにはパンの塊と分厚い一切れのチーズがあった。
 男の目がそれを見たことを確認すると少女は薬の袋を持って立ち上がった。穏やかな顔で寝そべっていた黒犬も立ち上がって少女に尾を振った。

「あ・・・おい」

 そのまま出て行こうとする少女の後姿に男は慌てて声を掛けた。振り向いた少女の顔には不思議そうな表情があった。

「俺は・・・・ロロノア・ゾロだ」

 礼を言おうとした男の口から出たのはなぜか自分の名前だった。
 少女は幽かに首を傾げてためらった後、口を開いた。

リン

 短い響きだけを残して少女と黒犬は外に出て行った。



 翌日。
  リンは陽が傾き始めた頃に姿を見せた。もう現れないのではないかと思っていたゾロは驚くと同時に改めて少女の姿を見た。
 硬くて頑固そうな黒髪を無造作に束ね灰色の上下に身を包み、袖と裾からは華奢な手足が飛び出している。それだけだと地味な印象が強いのだが、その印象を 裏切っているのが深い緑色の瞳だった。白い肌によく映えるその瞳はゾロに向けられる時にはほとんど何の感情も見せることはないが、横に並んで少女を見上げ る黒犬を見るときには輝きを放った。唇には淡い微笑が浮かび、印象ががらりと違ってくる。

  リンは無言のままゾロの前に膝をついた。ゾロは急いで口を開いた。

「あのな、薬をくれたら俺が自分でやれるから・・・」

 別に手当てが難しい場所ではない。ゾロは昨日 リンが帰った後でそれに気がつき、なぜ自分が リンのするがままに身を任せていたのか、苦笑いした。少女の真面目な顔を見ている間はどうも頭が働かなかったらしい。
 見れば、 リンもそのことを認めたらしく抱えてきた荷物をゾロの前において、今日は腰にくくりつけてきた薬袋を外してゾロに差し出し た。それから少し離れた洞窟の入り口あたりに転がっている流木に腰掛けた リンの慣れた動きを見て、ゾロは口を開いた。

「ここにはよく来るのか?昨日は本を持ってたな」

  リンは頷いた。その足元に黒犬が身体を伸ばした。

「気に入りの場所を借りてるわけだ。悪いな、あと1日か2日、貸してくれ」

 話しながら薬を塗るゾロの手元を眺めながら、 リンの手は自然とレフの頭を撫ぜた。レフは頭を上げて白い手を一舐めするとまたうずくまった。
 ゾロは乱暴なくらい手早く処置を終えると薬袋を返した。すると、すぐに リンは立ち上がった。
 ゾロはまた急いで声を掛けた。どうも リンにはこのパターンが多いようだ。

「今、金がねぇんだ。薬や食い物の代金を払えねぇ。だから、もう、これっきりにしてくれ。返せねぇ借りが増えちまうだけだ」

  リンは振り向かずに外へ出て行った。レフだけが片耳をたててゾロの顔を見て、それから小走りに少女の後を追って消えた。



「・・・・来たんなら、顔を見せろ」

 その翌日。ゾロは洞窟の外に見知った気配を感じた。
 やっぱり。無表情な顔を覗かせた少女と黒犬の姿に、ゾロは頷きかけた。半ば予想していたことが当たり、ゾロはため息をつくべきか笑い出すべきかわからな かった。

「・・・物好きだな」

 呟くゾロの前に リンは包みと薬袋を差し出した。そしてすぐに背を向けた。

「おい!」

 驚いたゾロも立ち上がり、右手で リンの肩をとらえた。手の中で砕けそうな感触が伝わってきてすぐに離す。

「置いていきます」

 少女はゾロの顔を見なかった。

「でもお前、他に薬袋を持ってるわけじゃねぇんだろ?」

「時々しか使わないから」

 ゾロは心の中で頭を掻いた。この少女にどう反応していいのかわからなかった。借りを作るのはいやだった。けれど、なぜか借りを作ることよりもこのまま少 女を行かせてしまう方がいけないことに思えた。別に少女が彼を責めたわけでもない。そもそも責められる理由はない。
 自分の感情がよくわからなくて、ゾロは今度は本当に頭のバンダナに手をやった。

「もう、わかったから・・・・じゃねぇ、よくわからねぇが、いいから、そっちに座れ。薬を塗ったら返すから。もう、来るなとは言わねぇから」

 振り向いた リンは不思議そうにゾロの顔を眺めた。その口元をほんの小さな微笑が横切ってすぐに消えた。

 結局 リンは5日間ゾロの元に薬と食べ物を運んだ。
 5日目の別れの時にはゾロはレフの頭を撫ぜ、レフも尾を振って答えるようになっていた。 リンは相変わらず無口で二人はほとんど会話らしい会話をしなかったが、互いの視線が真っ直ぐで自然なものになっていることに 二人とも気がついていた。

「俺はまだしばらくこの島にいる。町にいる時間が多いだろうから、また顔をあわせるかもしれねぇな」

 ゾロが言うと リンは黙って頷いた。その感情を見せない表情の奥に何かとらえどころのないものが見える気がした。

「じゃあな。この洞窟はお前に返すぜ」

 立ち上がって刀を腰に差すゾロを リンは無言で見つめ、レフは身体を起こして尾を振った。ゾロは挨拶代わりに片手を上げて洞窟を出た。久しぶりの太陽は眩し く、振り向くと洞窟の入り口は暗くて小さく見えた。

(何だか全部夢みてぇだな)

 彼を助けたのが海から来た精霊でこれから街に出たら何年もの月日が経っていたということがわかってもあまり驚く気にならないかもしれない。幼い頃に聞い たおとぎ話を思い出してゾロは苦笑した。横腹に手を触れてみた。押さえると確かにまだ痛みがあった。どうやらこの5日間は現実だ。
 ゾロは首を振りふり、大股の足跡を砂の上に残しながら海岸を去った。



 切っ先が空を切り裂いた。
 背後にかばう娘の無事を確認したあと、 リンは細身の剣を構え直した。
 中心街を少し外れた辺り。その地域は職人たちが思い思いに構えた店がぽつぽつと途切れ途切れに並んでいるのだが、表通りとは一味違う酒場も数軒混ざって いた。表よりも非合法の匂いがする店。追われる者たちが足を踏み込みやすい場所。

「だから仮縫いは館まで来るように言ったのに、あいつったら・・・・・」

 背後の娘の震える声はこの状況をどこまで理解しているのかわからなかった。 リンが護る対象であるこの娘は3歳年長であり結った髪もきらびやかな服装も体つきの豊満さもすでに早熟な女の気配を漂わせて いた。それが男たちの目に留まったことは明らかで、恐らく最初に声を掛けた男は娘に別の反応を期待したように思えた。しかし、身体は大人でも世間知らずの 娘は男をあしらうことができずに事を荒立ててしまった。頭ごなしに高飛車な言葉をぶつけられた男たちの目にはどす黒い怒りがあった。
 それでも刀や剣を抜いた最初の3人の男たちの目にはまだからかうような色があった。 リンが男たちの手から刃物をすべて弾き落とすまでは。

  リンはじっと正面の男たちを見ていた。自分ひとりならば動きようがあるが・・・・。四方を囲まれたこの状態でできることは、 自分の身を削らせることだけのように思えた。その隙に後ろの娘を走らせる。とすれば、先ずは活路を作らなければならない。 リンはわざと構えを緩めようとした。
 その時。
 背後の娘が少女の利き手にすがりついた。

「早くなんとかしなさいよ!ねぇ!」

 腕を拘束された リンは思わず込み上げた怒声をのんだ。正面をふさいでいた男が一気に詰め寄ってくるのが見えた。背後からも気配が迫った。娘 が悲鳴を上げた。

「なんだかよく知らねぇが・・・・」

 一人の男の声が唐突に割り込んできた。黒い影が見えたと思った次の瞬間、声と一緒に刃がぶつかり合う音が数回響き、あっという間に二人の男の身体が地面 に投げ出された。
 その姿を見た娘の手がゆるみ、 リンはようやく自由になった。
 左右からそれぞれに迫る男の影。

「うざってぇ」

 切り込んでくる男を軽々と剣圧で弾き飛ばしたゾロは、傍らの リンに目をやった。ちょうど少女も彼の方を振り向いた瞬間だった。艶のないバサバサの黒髪の下から覗く深い緑色の瞳。一瞬、 二人の視線が正面から互いを受け止めた。
  リンの身体が宙に跳んだ。

(ほう・・・・・・)

  リンは軽やかに男たちの背後に着地して剣を構えた。ゾロに圧倒された男たちが動揺するにはこれで十分だったらしく、男たちは じりじりと退いて行った。

(あいつ、剣を使うのか。あの身の軽さは半端じゃねぇな)

 ゾロの中に残る犬と戯れる少女のイメージに別の色彩が加わり、印象が深まっていた。傷の手当てに慣れていたことも彼が熱を出していることに気がついたこ とにも納得がいった。

「ありがとうございます、剣士様!」

  リンの姿を眺めていたゾロは後ろから声をかけられて我に返り、襲撃者たちが逃げ出したことに気がついた。

「あなたは命の恩人ですわ」

 ゾロが抜いていた刀を腰に収めると、鞘が他の2本と触れ合って音をたてた。

「通りかかっただけだ」

 ゾロが言うと、娘は大げさなほど首を横に振って彼を見上げた。

「このまま別れるなんてダメですわ。とにかくお礼をさせてください。うちまではもうちょっとですし、あなたがついていてくださったら安心ですもの」

 強引に腕に絡みつく娘の腕を振り解くわけにも行かず、ゾロはひとつ、ため息をついた。視線を向けると、少し離れたところに何の感情も見せない顔で立つ リンの姿があった。身にまとう灰色の上衣の袖に切り裂きがあり、血の色がにじんでいた。

「おまえ、腕を・・・・・」

 ゾロが言いかけるとそれを遮るように娘が彼の腕を強く引いた。

「あの子は放っておいてください。護衛のくせに役立たずな・・・・」

 娘の口調には必要以上の毒があるように思えた。どうやらこの2人は友人同士の間柄でも家族というわけでもないらしい。雇われているのだろうか。剣士とし て?
 娘が睨みつける視線を リンは黙って受け止めていた。

「もう、いいわ、あんたは。消えて」

(・・・誰のせいだと思ってやがる)

 呆れるゾロの気持ちはどちらにも届かなかったらしく、 リンは静かに姿を消し、娘は彼に笑いかけた。

「さ、行きましょう」

 微笑みかける娘の様子はゾロには苦々しいものに思えた。

 娘は名前をリンディアと言い、領主の一人娘だった。金色に輝く髪、黒くて艶のある瞳、そして自分でも意識しているらしい開花し始めている女としての魅 力。
 領主館は丘の上にあり、そこまでの1本道をゾロは痛みはじめた頭の困惑をこらえながら歩いていた。リンディアは自分を襲った男たちの事を用心する気はな いようで、相変わらずゾロの腕にぶら下がりながらひっきりなしに喋り続けていた。

「お誕生日のドレスの仮縫いに行きましたの。館まで来る時間がないからわたしが行かなきゃいけないなんてなんということでしょう。おかげであんなに恐ろし い目にあいましたわ。ロロノア様が来て下さらなかったら・・・・」

「用心棒が一緒だったようだが」

リンのこと?あれは館になぜか住まわせてやらなきゃいけないお荷物なんです。サーカスだかなんだかの芸人の娘だったみたいだ けど、13歳になるまではしかたないんです。もうすぐ縁が切れますけどね」

 芸人の娘と剣士。このふたつはどう結びつくのだろう。もうすぐ13歳。リンディアの口調は リンの存在をまったく歓迎していないことをほのめかす。
 他人事に無関心なはずのゾロだったが、なぜか リンのことは気にかかった。剣の腕前は良くてほどほどというところだろう。まださほど力もない少女の身だ。恐らくあの身体の 動きでカバーしているに違いなかった。

(よくわからねぇな)

 再会して謎が増えた。
 でもこの謎は解けないままに終わる可能性が大きいだろう。

 ゾロは考えるのをやめた。





 北国のあきです
ゾロと リンの出会いの話を書かないとどうにも先へ進めない
そう思って「緒縁」を書きはじめました
しかし・・・・・
自分が リンの背景にと考えていたいろいろが何だか今の自分にはかなり重くて
なかなか続きを書けないできました
詳しく描写できない・・・・したくない
でも、2人の出会いを知って欲しい
気持ちがギリギリになりました
ここから並べていく文章は自分が頭の中で描いていた場面のいくつかです
間に本当はもっとお話が入ります
でも・・・・それを形にするのは今は無理
もしかしたらこれからも
なので、これから説明を加えさせていただきながらゾロと リンの出会いのお話を一気に終わらせようと思います
おつきあいくださいますか・・・・・?




 領主館は訪れる者に大きくて堅固な外観と手入れのいきとどいた美しい庭の二つの印象を与える場所だった。門衛が大きく開けてくれた門の先にはまだ長い道が 見える。その先に重々しい建物があった。
 そこそこに活気がある街の様子を思い出して納得したゾロがふと目をやると、今を盛りと咲いている名は知らない鮮やかなブッシュの中央からにょっきり顔を 出した黒いものがあった。犬・・・・レフだ。ブッシュの向こうで長い尾が左右に揺れている。

「しっ!来ないで!そんな風にして見せても何にもやらないよ!・・・変ねぇ、いつもは知らん顔してるくせに」

 犬嫌いらしいリンディアの声には嫌悪の情が溢れていて、ゾロは何も言わないことにした。

「あなたに吠えないだけマシだけど。いつもは初めての人には嫌な声で吠えるのよ」

 侵入者を認めるわけがない、ちゃんとした犬なら。
 ゾロは挨拶代わりにしばらくレフの目を見た後で館の扉に視線を向けた。
 重厚な木材と鋼。リンディアが何もする前に扉は重々しく開いた。中で誰かが見ていたのだろう。恐らくはこの男が。
 扉を開けたのはきっちりした身なりの初老の男だった。

「お帰りなさいませ、リンディア様。お客様ですか?」

「ロロノア・ゾロ様よ。命を助けていただいたの」

「それはそれは・・・・」

 老人の視線が一瞬でゾロの全身を見て取った。ゾロは見返した。

「執事のオネイルと申します。お嬢様をありがとうございます。お入りください」

 オネイルの顔には丁重な微笑だけが浮かんでいた。感情を見せないのも執事の仕事のうちなのかもしれない。

「いや、俺は・・・」

 リンディアを送り届けたらすぐに街へ戻るつもりのゾロだった。一歩後ろにさがろうとするとリンディアが強く彼の腕を引いた。

「だめですよ、ゾロ様。お母様と、それからお父様にも会っていただかなくちゃ。明日はわたしの誕生祝いの日。ゾロ様にもぜひいらしていただきたいし。オネ イル、ゾロ様のお部屋を用意しておいてね」

 ゾロを引っ張り込んだあとリンディアは扉を閉めてしまった。

「着替えてきます。ゾロ様のために」

 張り切った娘の姿は奥の階段へと消えた。
 ここで館を去ってはいけないだろうか。ゾロは頭を抱えたい気分だった。

「・・・失礼ですが、お嬢様はお1人だったのですか?」

 執事の静かな声がした。その顔にはほんのわずかに緊張の色が見えた。

リンか?」

 ゾロの口調に何かを感じたのか執事は首を傾げる様にしてゾロを見上げた。

「ご存知ですか・・・・ リンのことを?」

「まあな。・・・・あいつはあのお嬢様を守って傷を負った。そのお嬢様に追い返されてたがな、最後は」

「・・・レフが吠えなかったのはあなたを知っていたからだったのですね」

 それだけ呟くと執事の表情は元の穏やかなものに戻り、ゾロを部屋に案内した。
 美しい調度と花が溢れた部屋は来客を通すためのものなのだろう。壁際に見るからに値が張りそうな銘柄の酒瓶や葉巻の箱が並べられたカウンターがあり、 テーブルと椅子が数箇所に配置されている。テラスに出ることが出来る大きなガラス扉から差し込む陽光が光と影のメリハリをつけていた。

「お飲み物は何がよろしいでしょう?」

 オネイルは目の前に立つその人物をもう一度観察した。年齢的には若者といっていい。恐らくリンディアと似たような年だろう。ただ、黒衣に包まれたしっか りとした体格から感じ取れる「経験」のようなもの、それがこの若者を1人の「男」に見せている。物騒な匂いと強さがにじみ出ている男。それでいて鋭い視線 は驚くほど真っ直ぐだ。

「何もいらねぇ。俺は別に宿を頼んだわけでもない」

「わかっております。ただ、何分お嬢様のお言いつけですので。お好きなところにおかけになってくつろいでらしてください。わたしはお部屋の準備を申し付け てまいります」

 ため息をつくゾロを残して執事は部屋を出て行った。
 言われたとおりに腰を下ろす気にもなれなくてテラスと庭をぼんやりと眺めていると、広い庭の奥に黒い影が見えた。

(レフ・・・・?)

 ゾロは外に出た。



 そういえば薬を補充していなかった。
  リンは包帯の一方の端を口に咥えてなるべくきつめに巻きはじめた。肩のすぐ脇という場所はすぐに包帯がずれやすい。ゆっくり 丁寧に巻いた。包帯も多分これで全部無くなる。早めに買っておかなければいけない。

(少し驚いてたみたいだった)

 ああいう形でゾロと再会するとは思っていなかった。ゾロは リンが思っていたよりも背が高かった。そして思っていた通り、強かった。ゾロにあの傷を負わせた相手は恐らくもっと深手を負 うか・・・・命を失ったのかもしれない。
  リンは自分の気持ちが沈んでいることに気がついた。リンディアの言葉に何かを感じたわけではない。むしろゾロがあの場に居た ことでリンディアの声はいつもよりもあれでかなり穏やかだった。それに彼女に何を言われようとも傷つく リンではない。あの声は心に響かない。リンディアの声も他の多くの人間の声も。
 とすると、今の自分のこの気持ちは何だろう。
  リンはいつの間にか手が止まっていたことに気がついて最後に一巻きするとしっかりと縛った。

(レフのところに行こう)

 昼過ぎからリンディアについて街に下りていたので、 リンは今日はまだレフに会っていなかった。海岸に行く時間はなさそうだったが広い庭の奥にも庭師のほかには リンとレフしか行かない場所がいくつかある。庭師のハリッドは無口で無愛想な老人で、 リンを見かけることがあっても声をかけることはない。そして眉をひそめることも困った顔をすることもない。それが リンにとってはとても楽だった。
  リンは木の階段を数段昇って頭の上の扉を上に押し上げた。薄暗い地下に差し込んできた陽光に一瞬目を細めると、鼻先に暖かく て湿っぽいものが触れた。

「レフ、迎えに来てくれたの?」

「お前・・・・・。この下がお前の部屋か?涼しそうなところで暮らしてるな」

 頭の上から知った声が降ってきて、 リンは表情をかたくした。しかしレフが長い舌で嬉しそうに舐めるのでその顔を保てない。

「ほら、お前も少し落ち着け」

 ゾロの手がレフの首を押さえて リンの手を取って引き上げた。その慣れない接触に、 リンはすぐにゾロの手を振りほどいた。
 ちょっと考えるように リンを眺めていたゾロはやがて唇の片端を上げた。

「まあ、いい。傷も大したことないみてぇだしな」

  リンがそっと手を伸ばすとレフは長い尾を激しく振った。たまらずに片膝をついて首に手を回すとレフは今度はおとなしく鼻の先 を リンの頬にくっつける。 リンは唇に浮かんだ笑みをレフの顔の影に隠した。

「行こうか、レフ」

 尾を振って答えるレフの首に手を回したまま、 リンは困惑した視線をゾロに向けた。
 ゾロは リンの視線が洞窟の時と比べると力がないことに気がついた。あんなに真っ直ぐだった緑色の瞳。

「散歩ならつきあわせてくれ。あのお嬢様に会うのはしばらく後でいい」

  リンは断るかもしれない、とゾロは思った。それほどに彼が知っていた少女とは雰囲気が違っていた。
  リンは黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「庭の奥に行くと海が見える場所があります」

 先に立って歩く少女と犬の後をゾロはのんびりとついていった。
 レフはもちろん嬉しさを隠そうとせず、ずっと少女の顔を見上げている。すると、 リンも無表情の仮面が剥がれて優しい笑みで答える。
 しばらく小道を歩いていくと形が整えられたブッシュと枝振りの良い木々の壁を抜けて目の前に空と海がひらけた。少し視線を落とすと街や港の様子が遠く見 える。高い丘の上から一望する景色には果てがなかった。
  リンとレフが1本の木の根元に腰を下ろしたので、ゾロも少し離れて座った。

「なかなかいい眺めだな」

 レフの頭を撫ぜながらゾロを見る リンの顔は穏やかだった。やっと仮面を外す気持ちになったのかもしれなかった。

「ゾロ・・・・・・あなたは海を渡ってこの島に来たのでしょう?」

「そうだな。ちょっといろいろ訳ありで無様な姿を見せちまったが」

 海に向けられた リンの視線はずっと遠くを見ていた。そこには静かだが輝きがあった。

「お前も海に出たいのか?」

「はい。・・・・もうすぐ・・・誕生日が来たら。そうしたら海に出てあの人を探す・・・・」

 言った リンは視線を下げて口を閉じた。言うつもりがなかったことを言ってしまったように。


ここでゾロは自分が「銀のアルフレッド」という剣士を探しにこの島に来たこ とを リンに話します。アルフレッドというのは領主の名前、銀というのは白銀の髪の色のことだろうと推測した リンはそれをゾロに教えます。
それから2人は別れ、ゾロはリンディアに母と父・・・・領主のアルフレッドに引き合わされます。領主を一目見たゾロは島に来た目的を告げるのをやめます。 アルフレッドの様子からゾロは一つの覇気も感じることができず、隣に並ぶリンディアの母・・・・妖艶で底が知れない女に深く憑かれていることが明らかだったから。

翌日のリンディアの誕生日パーティでゾロはリンディアとその母○○(名前を決めてないんです、まだ)が リンの存在をひどく疎ましく思っていることに気がつきます。想像以上に。
(ここら辺に リンが白いクリームでデコレーションされたケーキが苦手になったエピソードなんかを入れようと思ってました)
執事をはじめ館の雇い人たちの リンに対する様子もどこかおかしい。
なんとなくそのまま滞在を続けることにしたゾロは庭の奥で リンと一緒に過ごす時間を何度か持ちます。その時間の中で リンが海に出て探そうとしているのが会ったことのない父親であることをゾロは知り、 リンはゾロが大剣豪を目指す理由を知ります。

リンの誕生日。
早朝に館の一室に呼び出された リンはそこに領主をはじめ○○、執事、館の諸々の処理を任されている弁護士、証人となるべく呼ばれた街人たちに取り囲まれて 動揺します。
その中で リンがアルフレッドと リンの母の間に生まれた子供であること、アルフレッドとただ1人血がつながっている者であることを告げられます
(リンディアは連れ子なので)
戸惑う リンに次に告げられたのは「血のつながりによって リンが所有するすべての権利を放棄する」旨の誓約書に署名すること、そして薬で自らの命を断つこと、でした
リンを引き取った時からこの時をずっと待っていたと告げる○○の声とそれを否定することのない人々の反応に、 リンは最初からこれが自分に決められていた運命なのだと感じ、薬の瓶を受け取って地下の部屋に戻ります。





 薬が入ったガラス瓶を手に持ったまま、 リンはしばらくそのまま立っていた。
 これを飲むことは。
 肉体の命が終わる。そうしたら精神がどうなるかはわからない。肉体とともに精神もそのまま朽ちるのか、それとも知らない世界に続くものなのか。
 飲むことを待っている人がたくさんいる。誰がどこまで知っていて、そしてこれまで自分に対して・・・・・何年もの自分の日常の中の小さな場面場面が思い 出される。ほんの一言二言をかわした相手の顔が今はもう浮かばない。こういう終わりを誰もが知っていてそれが自然だと思われているのなら。それなら。

  リンは瓶の口を唇にあてた。軽く鼻を刺すような匂いがした。
 不意に頭の中に全身黒づくめの剣士の姿が浮かんだ。

(ゾロ・・・・・)

 彼は事情を何も知らない。 リンが確信を持てるただ1人の人間だった。強い相手を求めて歩き続ける旅人。出会って会話を交わしたことはほんの偶然による ものだ。




この数日でゾロの夢の大きさや重さ、生きる力の強さを感じていた リンは、自分の命を自分で断つことを当たり前と感じることの異常さに気がつきます。そして館を後にし、母と2人で暮らしてい た小屋に向かいます。
一方、事情を知らないゾロは○○に呼ばれ、向き合います
(領主とのやりとりで リンが彼の娘であることは知っています)




「お金があるとこれから先の旅が楽になるわね。あなた、海賊狩りで暮らしているのでしょう?」

 突然島に現れてそして去っていく一人の剣士。流れ者。
 ○○の唇には笑みが浮かんでいた。相手がまだ少女でこの男とは全然比べ物にならない腕前の剣士だとしても、剣士同士がやりあって片方が命を落とすのは あって不思議ではないことだ。

(どうせこの男はすぐに出て行く。金もない。おあつらえむきというのはこのことよ)

 少し身を乗り出すように自分を見る女の視線を受けてゾロは不快な表情を浮かべた。女の目にはどこか憑かれたような色があった。

「俺に何をさせたいんだ?」

 ○○はゾロの声に含まれる嫌悪感には気がつかなかった。自分が見たい姿だけをゾロの上に見ていた。飢えた獣。投げ出された餌に食らいつく血まみれの牙。

「お金は十分すぎるほど用意してあるわ。あなたは リンを切ってくれればいいの。簡単でしょ?そしてお金持ちになって島を出て行って」

 ゾロは女がいかにも重そうな布袋を持ち上げてゆっくりと置いたテーブルを見やった。言葉の意味はわかったが、それだけだ。肝心なものが何も見えない。

「どういうことだ。あいつを邪魔だってことなのか?それなら命をとることもないだろう。あいつも島から出て行かせればいい。・・・・・それに、あいつは領 主の、あんたの夫の血を引いた娘なんだろ?それを切れというのは穏やかじゃねぇな」

 ゾロの言葉を聞くうちに○○の形相が変化した。目の中の憑かれたような色は妄執になり、ギリギリと歯を噛みしめるのが聞こえた。

「おまえ、なぜそれを知っている!あの子もさっき知ったばかりだというのに。おまえ、あの子に会ったのか?あれがどこに逃げたか知ってるね?」

 ○○はじりじりとゾロに近づき、ゾロの喉元に手を伸ばした。ほとんど触れそうになるその手の真紅の爪を眺めながらゾロは女の言葉から状況をまとめた。

「俺が耳にしたのは偶然だ。それにしても、あんた、領主に内緒であいつを殺そうとしてるのか?俺には関係ねぇことだが、あんまりいい感じじゃねぇな」

 ゾロの言葉に○○が笑い始めた。ヒステリックなその笑い声は部屋中に響き渡り、屋敷中に流れていくように思えた。

「おい・・・・」

 ゾロの視線をはね返すように○○は下から斜めにゾロの顔を見上げた。そこに蠢く怪しい感情の動きをゾロは凝視した。

「あの子が死ぬのをアルフレッドは知ってるわ。もう何年もわたしたちはこの日を待っていたの。ふふふ、安心した?あの子を殺してもあなたを追う者はいない わよ。感謝とお金、それだけ」

(この女は毒だ)

 ゾロの身体が一歩さがった。狂気と妄執と妖しい美。取り憑かれたら心の底まで食いつくされる。おそらくは領主のように。

(あいつは父親を・・・・・)

 ゾロの心に海を見つめる リンの横顔が浮かんだ。誕生日がきたら父親を探しに行く、それが リンの夢で希望だった。父親はずっとこんなに近くにいたのに。すぐ目の前に。

「逃げた、と言ったな。どういうことだ?」

 ゾロの身体の中の血の流れが速さを増した。

「あれは薬を飲んで死ぬはずだったのよ。納得してたわ。生まれたのが間違いだったのだから当たり前よね。間違いは訂正しなくちゃいけないのよ。・・・・で も、最後に弱気になった。尻尾を巻いて逃げ出した。だから、見つけて切って。あんな棒切れみたいな身体でよければ抱いてもいいわ。追い詰めて、つかまえ て、とにかく最後は消して」

(狂ってるな・・・・)

 ゾロは女に背を向けた。

「待って!お金はあの子の骸を見てから・・・」

「やめろ」

 ゾロの低い声が女を黙らせた。ゾロはゆっくりと歩きはじめた。

「俺はあいつを切るつもりはねぇし、他の誰にも切らせるつもりはねぇ。やめておけ」

 女の爪がゾロの背中を刺そうとした。上衣が数箇所裂けた。

「あんたに何の関係があるのよ!切らないならさっさとこの島から出て行って!」

「・・・・確かに俺には関係ねぇ。だが、借りを作ってそいつを返した。まったく縁がないわけでもねぇ。あんたにはそれこそ関係ないがな」

 傷を負った自分を静かに見ていた緑色の瞳を思い出す。普通は怖がるはずなのにそっと手を差し伸べた リン。ゾロの痛みを感じ取って癒した少女。



ゾロは リンが恐らく昔の家に行ったことを確信し、後を追います



  リンは鏡を前にして立っていた。気持ちの昂ぶりが手に伝わり、細かく震えている。その両手をそっと頭を包んでいるタオルにか け、引いた。タオルが床に落ちていくのと同時に眩しい色が流れた。
 銀色の髪。
 母親と同じ、そして・・・・・父親と同じ。
 銀色の髪に緑色の目の組み合わせは、 リンには違和感があった。母親とそっくり同じ色。自分には許されなかった色。物心ついた頃から髪を洗う時にはいつも染め粉を 一緒に使うように教えられていた。染め粉で仕上がった髪はいつも手触りが悪くてごわごわで、でも リンはそれが自分の髪の性質なのだと思っていた。けれど、違った。
 静かに触れる指の間を流れる髪の感触は滑らかで、懐かしい。何もかも母親と同じだ。
 これがあるがままの自分。
 誰も知らない、認めてはくれないだろう自分。

  リンは母親の古い寝台に腰を下ろし、それからそっと横たわった。
 自分の寝台はとっくに屋敷の地下に持っていってしまったから、ない。けれど母親のものは動かさなかった。小さな小屋。幼い自分と母親の全世界だった部 屋。少し埃の匂いはするが、たまに掃除をしてきたから人が使っていない空虚さはない。寝具はどれもいつの間にか色褪せてしまって元の色がわからない。それ でも リンは昔の色を覚えていたからそれでよかった。
 母が父親を語る優しい声と表情が リンの記憶には焼きついている。やわらかな手の感触も。それが リンにとっての「愛情」のすべてで、 リンは自分が知らない父親を愛していた。簡単に。単純に。そして父親を探しに行くことを決心していた。13歳の誕生日がきた ら、あの屋敷から出ることができるようになったら。母親が前にいたサーカス団の消息を辿る。それが唯一の手がかりだった。

(夢だったんだな・・・・・・)

 母が愛した父は目の前にいた。近くにいたのにあまりに遠かった。13歳になる日がどういう日になるか、予め決められていたのなら。もっと違う形の生活を しているべきだったかもしれない。夢や希望を抱く余地がないような環境はどんなものだろう。それとも人はどうしても心の中に明るいものを探し出すのかもし れない。
  リンは自分の右手を見た。初めて書いた自分のフルネーム。1枚の紙に1回だけ。最初で最後。
 自分が生まれたのが母とあの父親が愛し合った結果だとすれば、父親は生まれてきた自分に後悔の念を封じ込めたのだろうか。最後まで幸せそうに父親の話を する母親の顔と今の現実が噛みあわなかった。母は自分のことを託したのだ。13歳まで。事情はずっと隠し通すつもりで。13歳で娘が死ぬ予定になっていた ことを知っていたはずはない。

(疑っちゃダメ・・・・それだけは・・・・)

  リンは心の混乱を必死で抑えた。自分が母の笑顔を真っ黒に塗りつぶそうとしている気がした。嘘であったはずはないと思えば思 うほどはまっていく闇色の沼。
 薬を飲もうとしていた自分はただ絶望していただけなのだと今はわかる。生きることをやめるのが自然で、そして・・・・楽なように思えた。けれど、心に浮 かんだゾロの姿が リンの感覚を正常に戻してくれた。死ぬことへの恐怖。生きようという本能。例え歓迎されないで生まれてきたのだとしても、あ の母に与えられた命を自分で絶つことはできない。毎日が、過ぎていく日々が大好きでいつも微笑んでいた母。今一緒にいてくれたらと願わずにはいられない。

(・・・行かなきゃ)

 生きることを決めた以上、この島にはいられない。 リンは枕の下から貯めておいた金を入れた財布を取り出した。街でいろいろ手伝いをしてもらった小銭。紙幣1枚分が貯まるたび に取り替えてもらった。1回分の船賃ギリギリしかないことはわかっていた。外に出られるだけでいい。先を考えたら動けない。
  リンは剣を背負った。
 そのとき、煙の匂いをかいだ。
 ドアの下の隙間から流れ込んでくる灰色の煙。窓の外に目をやると、いくつもの人影があった。

(火をつけられた・・・・)

  リンは膝が震えるのを感じた。早く外に逃げなくてはと思うのだが、もしも外に立っている人間たちが、火をつけた犯人たちが リンがよく知っている街の人間だったら。それが怖かった。買い物をし、店番を手伝い、古びた本をそっと渡してくれた相手だっ たら。 リンは誰にも心を許さないで生きてきた。それでもどこかで結局は信じたいと願う部分があった。

(こわい・・・・・)

  リンが自分の震える身体を抱え込んだ時、外が一瞬騒がしくなった。そしてドアが大きな音とともに床に倒れた。

リン!」

  リンは立ち尽くしたまま戸口に立つゾロを眺めた。
 立ち昇りはじめた炎の中、黒いシルエットが浮かび上がる。

「早く外に出ろ!なに呆けてるんだ!」

 ガッシリとつかまれた手首から力強さが伝わってくる。 リンは転びそうになりながらゾロに引っ張られるままに外に出た。

(・・・・やっぱり・・・・・・)

 地面に倒れている男たちはほとんどが見知らぬ男だったが、中に数人、顔見知りのものがいた。

「しつこいな」

 ゾロの声に顔を上げると、またどこからともなく男たちが現れて二人を取り囲んでいた。人数が増えている。 リンの髪をどこか呆然と見つめているのが街人たちでそうでないのは集められた流れ者たちだろう。

(ったく、区別はしやすいな)

 ゾロは リンの手を離してその前に立った。

「いいか、 リン、生きると決めたなら自分の身は自分で守れ。こいつらの中にどれだけ知り合いがいても気にするな。生き抜くことだけ考え ろ」

 ゾロの背中が大きく見えた。ゾロの声が心いっぱいに広がった。そう、自分は結局は生きたいのだ。それがわかったからいろいろ怖くもなったが、心の中が熱 くなった。
  リンは静かに剣を抜いた。

「よし、上等だ」

 その言葉を残してゾロの体は一瞬で一番近い男たちの前に移動し、凄まじい剣圧が男たちを吹き飛ばした。
 自分を守れ、と言ったゾロだったが、彼は リンを前に出そうとはしなかった。恐怖に歪んだ表情でそれでも向かってくる相手を次々と倒し、 リンの方には行かせない。男たちは人数でどんどん押してくる。まともにゾロにぶつかるのは得策ではないと悟り、燃え上がる小 屋の側にも人数を回し始めた。

(大丈夫・・・・しっかり見れば・・・)

  リンは振り下ろされる鉈をかわして軽く男の腕の下をかいくぐり、峰で男の首を打った。次の男は右手につけられた傷を押さえて 逃げた。

「離れるなよ、 リン

 振り向いたゾロは唇に笑みを浮かべていた。汗と煤にまみれながらも全身から闘気が迸っている。 リンはその姿に魅せられた。強い。強くて大きい。

「お前ら、いい加減に退けよ。少しは頭でまともに考えてみろ。一体こいつがお前らに何をした。アホ領主に振り回されやがって」

 ゾロの言葉がどれだけ男たちの耳に入ったかはわからない。けれど、 リンはしっかりと聞いた。『アホ領主』。ゾロにはそう見えているのか。 リンはなぜか笑いたくなった。

 額から落ちる汗が目に入って沁みた。腕が痺れ始めていた。 リンはこんなに長く、沢山の相手と剣を交えたことはなかった。そんな リンの様子を感じたようにゾロの背中が近づいた。

「こっからはもう少し血を見るぞ。目を閉じるなよ」

 言われなくても リンは決して目を閉じたりしなかっただろう。しっかり目を開いて焼き付けておきたかった。戦うゾロの姿。自分が全部失くした と思った時に見えたもの。
 ゾロは刀を大きく振りかぶった。
 その時。
 こっちに向かって突き進んでくる集団が見えた。男、女、老人、そして子供。刀や剣を持っている者、包丁や熊手を持っている者、何も持たずに拳を握りしめ ている者。

「なんだありゃ。勇ましいな」

 ゾロは刀を下ろした。背後に リンをかばいながらバンダナを結びなおす。
  リンは進んでくる集団が街の人間たちだと見てとった。自分とゾロを襲っているのも街人、では、あの集団も・・・・?
 それでも胸が苦しくなるような予感があった。ゾロも刀を下げたまま、状況を見守っている。

「いい加減におしよ、あんたたち!」

 威勢のいい女の声が響いた。二つの集団が正面から対峙する。後から来た方には勢いがあり、迎えた方には戸惑いがあった。

「一生懸命に生きてきた子にどうしてこんな仕打ちをする。領主様に、いや、奥方に何を言われたんだか知らないが、お前たち、一体何をしようとしてるかちゃ んとわかっているのかね」

 1人の老人が前に進み出た。 リンがよく知っている・・・本屋の主人だった。老人は静かに リンの方を見た。

「これだけ長いこと生きてくれば・・・・・ましてあの・・・髪の色を見れば、事情は薄々わかる。領主様に従うのはみんなのつとめだ、それはいい。だが、よ く考えもせんで大罪の片棒をかつぐのは感心できん。自分の家と家族を守るためにやってるつもりだろうがな、そうやって守って欲しいと家族は思ってると思う かね?自分の家族の顔をよく見て確かめるがいい」

 向かい合っていた集団が気がつくと次第に距離が縮まって。街人たちは家族や知り合い同士でしっかりと互いを受け止めあった。手の中の武器を無言で見つめ る者、泣き崩れる者、いっぺんに語りだす者。
  リンはその光景を黙って眺めていた。老人が深くて短い視線を送ってきた気がしたが、その姿は人の中にまぎれてしまってもう見 えない。

「治まったみてぇだな」

 ゾロが頭のバンダナをほどいた。

「ちょっと深いな」

 ゾロが腕を取ってそのまま彼のバンダナできつく縛ってくれたとき初めて、 リンは自分の傷に気がついた。ただ、夢中だった。自分を守ることに。

「で、どうするんだ?」

 ゾロが顎で示した先は二人にぎこちない視線を送りはじめた街人たちだった。彼らの心の中にあるものは何だろう。安堵、後悔、恐れ、そして困惑。 リンとまともに視線を合わせないようにしている者も少なくない。

(わたしの場所はここにはない)

 それぞれに生活の場所があり、この島に家があり、日々の笑顔を望んでいる。 リンの命をとることができなかった彼らの中に広がり始めた不安を感じることが出来た。島で生きていくには領主の命を守ること は絶対だ。これまでに背いた者はいない。背く必要もなかった。島はずっと栄えてきた。この日までみんな明るい日々を送ってきたのだ。

「ゾロ・・・・」

  リンはそっと腕のバンダナに触れ、ゾロの顔を見た。

「いつか、一緒に旅をしたい」

 口からこぼれる言葉はどれも素直に続き、自分でも驚いた リンの頬に血が上った。
 ゾロはしばらく無言で リンの顔を見下ろしていた。まだ見慣れない銀色の髪が風を受けて光を反射する。緑色の瞳には静かな力強さがあり、少女の願い の強さを告げていた。ゾロの唇に笑みが浮かんだ。

「俺は大剣豪を目指してる人間だ。一緒にいると危ないことが沢山あるぞ」

  リンの瞳はゾロの言葉を受け止めてそれでも揺るがなかった。
 「いつか」という言葉の中に込められた意味をゾロは理解した。今すぐ、と言わない リンの真剣さを感じ取った。

「お前がもっと強くなったら。俺が認めるくらい強くなって、そしてまたどこかで縁が結びついたら。・・・・それでいいな?」

  リンは頷いた。一瞬の微笑が浮かび、すぐにまた真剣な表情に戻った。まっすぐに街人たちを見て、それから丘に視線を向ける。

「・・・行くのか。あいつらを助ける義理はねぇぞ。アホ領主もあいつらも1人の女に踊らされて自業自得ってやつだ」

 焼けた小屋が音をたてて崩れた。
  リンは目を閉じた。無言の祈りはどこまで届くだろう。形がある思い出はこれで消え、心の中のものはゆっくりと風化しはじめ る。自分はそれに耐えられるほどまだ大人ではない。涙を流さないのが精一杯だ。

「ゾロ、ありがとう」

 すべての想いを込めて囁くと、 リンは歩きはじめた。
 ゾロは背中をピンと伸ばして進む後姿を黙って見送った。

(怖がっちゃだめ)



館に戻った リンは自分の剣が最初はまだほんの幼い頃にアルフレッドに教えられたものだと聞かされます
そしてリンディアは何も知らずにただ リンの誕生日がきたら館から出て行くと思っているのだということも
自分とリンディアのすべてを守ろうとする○○がひそかに集めていた荒くれ者たちを リンに向かわせますが、 リンの抵抗、アルフレッドの介入、そして助けに現れたゾロが男たちを放り出します
リンはアルフレッドを父親と思えず館を自分の帰る場所とも思えない自分に気がつき、島を出ることを決意します
一緒に港に下り、行き先が違う2隻の船に別々に乗ることにした リンとゾロ
言葉少なに別れた二人の目はしっかりと前を向いています
そして リンは・・・・ リンだけはそっと離れていく船の上の黒衣の剣士の姿を振り返るのでした

・・・・と、こんなお話をずっと温めていました
温めすぎたら書けなくなった・・・(涙)
暗いでしょう?
あうあう
だから、ぜひ
これでざざ〜〜〜〜〜っと2人の出会いの雰囲気をちょっと覚えていただいて、あとは「跳剣」で再会した2人の姿をそのまま追っていただけたらと思います
リンがどれほどゾロの後姿を、横顔を心に焼き付けたか
それだけを想像していただけたら嬉しいです

こんな形で突っ走ってごめんなさい
ほんと、わがままな管理人です
2005.5.23
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