微睡の中で胸の上に静かにのったあたたかな重みに、ゾロはそっと片手を伸ばそうとした。傍らに在る想い人が眠りに落ちる様子を見届けた後で急に差した眠気 が次第に強まっていき、彼自身もひと時の忘却に身をまかせようとしていた。指先が届いた滑らかさは心に描いた白銀色の感触とはどこか違う気がしたが、それ に触れた途端に一気に睡魔に捕らえられた。生まれ落ちた日付と同じ日をゾロはこれまでにない温かみに満ちた眠りの中で迎えた。
耳の中にどこか懐かしいような音が流れ込んでくる。自分が与えたものを甘受してそれをさらに大きくして返して寄越す、そんな音。
「・・・ジン・・・?」
目を開けたゾロの視界に入ったのは
リンの笑顔とその先にいる白猫の横顔で、その猫が
リンの指先に額をそっとこすりつけて挨拶を送っているその場所は彼の胸の上だった。やはり、そうだ。さっき耳にしたと思った のは猫が喉を鳴らしている音だったのだ。この見知らぬ白猫が。混じりけのない白い毛並みにブルーの瞳。サンジの目とは少し違う深海の色。
「この猫を知ってるの?ゾロ」
リンはまだ白い裸身に肌掛けを巻きつけたままの姿で露な肩が銀色の髪の間から見え隠れしている。いつもならゾロが目覚める前 にしっかり身支度を整えていることが多いのに、猫に夢中になっているためにそのことに気がついていないのだろう。
「知らねぇが・・・寒くないのか?」
いい眺めだと思っても何となくそうは言えずに別の言葉と一緒に手を伸ばして細い肩を包みこむ。肌の表面は冷えていた。身体を起こせば猫が逃げるだろう。 そう思ってただ見上げるゾロと視線を合わせた
リンは頬を染めた。
「目が覚めたら猫がいて」
白猫は優雅に全身を伸ばすと一声鳴いてゾロに視線を送り、ゆっくりと
リンの足の上に移動した。再び綻んだ
リンの表情にゾロの心の中で数年前の記憶が重なった。この猫とは対象的な真っ黒な色の大きな犬。あの犬にも
リンはたいそう好かれていた。互いが互いを必要として守りあう・・・そんな関係に思えた黒犬と
リンの光景は彼が
リンと知り合って間もなくくだらない目的を持った第三者の手で壊された。あの時崩れ落ちた
リンの身体を受け止めた感触を今も彼の腕は覚えている。まだ輝く髪の色を隠し緑色の瞳ですべてを黙って見つめていた細い少女 の身体。もしもあの時に
リンと別れることをせずにともに旅することを選んでいたら・・・それをゾロは思った。痩せっぽちで行き先を迷いながら「いつ か」と彼に願った少女を抱いていたら。彼が守る事を決めていたら。
・・・そうしていたら多分、今、
リンはゾロと一緒にはいなかっただろう。己の強さを磨かないままゾロの後ろを歩いていたら傷つき、何も見つけられなかったか もしれない。あの時別れたから、今ここにこうしてともにいる。ゾロは人に定められた運命の存在を信じてはいない。けれど腕の中にいる
リンを見る時、その時だけその言葉が頭をよぎる。
身体を起こしたゾロがそのまま
リンの肩を抱き寄せると
リンはゾロの胸に頬を寄せて小さく呟いた。
「・・・誕生日おめでとう」
本当は日付が変わったその瞬間に言いたかったのだろう。うとうとする度に懸命に目を開こうとしていた様子を思い出す。ゾロが銀髪を辿って静かに身体の線 を撫ぜているうちにとうとう瞼は持ち上がらなくなったのだが。
プレゼントには興味もないし酒以外はいらない、と言ったゾロに対して麦わら海賊団全員から贈られたのが昨夕からのこのひと時で、盛大に酒盛りをする予定 の翌日、誕生日の夜までには船に戻る事を誓わされた後で笑顔と振られる手に送り出された。顔を真っ赤にして俯いている
リンの隣りを歩きながらどうやったところで後ろからの視線たちに対して格好がつくはずはないと諦め、それならしたいようにす るだけだと
リンの手を握って走った。それは想像したよりも気分が良かった。
「年を重ねれば自然と強さも増すってことなら歓迎してもいいんだがな」
空いている手で
リンの顎に触れ、唇を重ねる。貪って圧倒したいという気持ちは起きない。
リンの唇に触れると走り出そうとする自身を抑えてただゆるやかに
リンを誘いたい気持ちが募る。真面目な緑色の瞳に微かに別の光が瞬くまで。もしかしたら彼が求めている以上に求められている のではないかと感じることができるその時まで。
その時、猫が鳴かなかったらゾロはその存在を忘れて
リンを深く抱きしめていたかもしれない。しかし猫は顎を反らしながら長い一声を送り出し、ゾロと
リン、順番に一人ずつの瞳を覗きこんだ。
「腹でも減ったか?」
猫の背中を撫ぜはじめたゾロの隣りで
リンはすばやく衣類を身につけた。
「どうした?」
最後に背中に長剣を背負った
リンは髪紐で銀糸を縛りながらゾロの方を振り向いた。
「外に出た方がいい気がするの・・・何となく」
「そうか」
ゾロが支度を終えるまで猫は寝台のから視線を送っていたが、3本の刀を腰に差し終わると同時にひらりと肩の上に飛び上がった。
「落ちるなよ」
そう言うゾロに返事をするように一声返した猫は身体を少し丸めて落ち着いた。
部屋を出て階下に下りた二人はいくつもの視線が通り過ぎるのを感じた。食堂兼酒場になっているそこでは朝食目当ての客が何組かテーブルについている。湯 気がたつ皿を持って現れた主人は目を丸くして二人の前で足を止めた。
「もう発つのかい、お客さん。おや、その猫はあんたの猫かい?昨日はいなかったみたいだが」
「こいつは夜のうちに部屋に入ってきたらしいが。・・・何かあるのか?」
丸顔で小太りの主人はゆっくりと確かめるように二人を眺めた後、ひとつ頷いた。
「ちょっと待て。冷めないうちにこいつを置いてこないとな」
主人が背中を見せたその時、テーブルから立ち上がるいくつかの姿があった。
「お客さんがた、うちの店内じゃ面倒ごとはお断りだ」
叱責するようなその声にもかかわらず男たちの剣呑とした姿がゾロと
リンの前に集まりはじめる。
「店の中じゃやるなって言われただろ。・・・賞金稼ぎの類じゃないみてぇだな」
ゾロは長剣の柄に手を掛けた
リンを横目で見ると肩にのっている猫を引き剥がして
リンの腕の中に置いた。
「窓から出てろ。俺もこいつらと一緒にすぐ出る」
頷いた
リンが左手に向かって走ると男たちの視線が後を追い怒声が上がった。
「何だ?」
窓際に達した
リンがガラス戸を押し開いたとき猫の白い身体がふわりと宙を舞った。音もなく着地したテーブルの前に立つ店の主人が震える手 を差し出すと猫は静かに鼻面を押しあて、身を翻して再び
リンの腕の中に戻った。
「ああ・・・・ありがとう」
ゾロは主人の背中が震えるのを見た。
リンは主人の瞳が潤むのを見た。
「あんたたち、早く逃げるんだ、その猫を連れて。これからどんどん追っ手がかかる・・・」
主人の言葉を最後まで聞く余裕はなく、外に飛び出した
リンとそれを追おうとした男たちを殴り飛ばしたゾロは窓の外で合流した。
「どこへ行ったらいい」
最後に叫んだゾロの問いに遠くなる声が答えた。
「岬だ・・・・岬にあるあの・・・・」
走る二人の耳にもう声は届かなかった。
「この猫が何だってんだ・・・ったく」
呟くゾロの肩に白猫が飛びのった。
「岬って行ったら船を止めた辺りだな?」
「うん。・・・でね、そっちじゃなくてこっちだと思う」
年を重ねただけでは直らないものがある。それを痛感したゾロは苦笑して
リンに従った。