夢を見た。
わたしは一生懸命紙に書かれた文字を消していた。擦っただけでは全く効果がないことに苛立ちながらさらに力を込めると、紙はあっさりと縦に裂けた。
ああ、そうか。
消さなくても最初からこうすればよかったのか。
しかし、ビリビリに裂いた紙の屑を捨てる場所はどこにもなかった。
忘れてしまいたい文字の羅列が一つの名前を綴った。
「1日だけでいいんだな?」
ひと月余りの滞在の間に互いに幾ばくかの信頼に近いものを抱くようになった宿屋の主は、初めてここに入ったときのようにわたしの顔をじっくり眺めた。ま あ、無理もない。わたしだって予想していなかった、こんな事。
「わかった。部屋にいてくれ。なるべく早く良さそうな人間を行かせる」
「頼む」
わざとゆっくりと階段を上った。できるだけ平気で無頓着な様子に見せたかった。
情けないことに部屋に入って扉を閉めると途端に冷たい汗が噴出してきた。だらしない。
ベッドに腰を下ろすと枕を持ち上げて袋を引っ張り出した。昨夜ようやく仕上がったこれ。大丈夫、これ以上手を掛けなきゃいけないところはない。
今のうちにシャワーを浴びておこうと思った。宿屋の主がどんな人間を寄こしてくれるかわからないが、今のうちに身支度を整えておいたほうがいい。
熱い湯を頭から浴びていると自分の不安や動揺が馬鹿らしく思えてきた。手持ちの金のほとんどを注ぎ込む必要があるだろうか。碌でもない奴が来たらどうす る。わたしよりも弱い奴とか、或いは他人の事情に鼻を突っ込むのが好きな奴とか。
髪にタオルを巻きつけて手早く衣類を身につけるとまたベッドに座った。この宿屋は小さいくせに客が多い。強面の主に似合わずサービスもいい。連泊してい るわたしの部屋もベッドのシーツ類は1日おきに洗濯され、タオル類は毎日ちゃんと交換してくれる。まだ洗剤の匂いが残る枕に向かって寝転ぶと気分がよかっ た。
と、寝転んだ位置からテーブルが見えた。備え付けの小さな・・・ああ、棚がついていたんだ。四角いテーブルの天板の下に1段、棚がついているのが見え た。知らなかった。知っていたら作業の間の道具置き場にできたのに。
立ち上がってそばに行き、手を差し込んでみる。少しざらざらした板の感触の奥に何か転がっているものが指に当たった。膝をついて覗き込むと丸くて平たい 容器が見えた。そっと引っ張り出すと白くて艶やかな全体が蓋物になっている。軽くひねって蓋を開けるとそこには思いがけず心ゆかしい色があった。
春に咲き、美を誇る短い日々の後に典雅な舞を見せて散る花びら。
そんな色の爪用の染め粉だった。指先にとって軽く練ると色の艶が増すように見えた。
普段なら染め粉をつけても意味がない。自分の手を駆使するわたしの生業は1日に手を汚すのも洗うのも回数が半端ではない。だから洒落る気にならない。
でも、今は。昨夜ひとつしあげたばかり。それに時間も余っている。気を紛らわすのにちょうどいいかもしれない。
はじめてみると最初はコツをすっかり忘れていた。それでも爪の表面が華やいでいくのが嬉しくて丁寧に続けた。全部の指を終えるのにどのくらい時間がか かっただろう。目の前に指を広げて仕上がりを確かめているとドアが叩かれた。強く、2度。
足音を殺して歩いていき、小さな覗き窓に目をあてた。
・・・あいつだ。
なぜか一瞬呼吸を止めた自分が・・・馬鹿みたいだ。
緑色の髪。金色のピアス。白いシャツの内側のガッシリとした鍛えられた身体。腰の3本の刀。
海賊狩り、ロロノア・ゾロ。
あいつもここに泊まっている。下の酒場兼食堂で何度も見かけた。
「いつまでも見てねぇで、開けろ」
ドアの向こうから聞こえてきた声はとても低かった。
「何の用?」
「用心棒を探してるんだろ、今日だけのな」
・・・海賊狩りが用心棒?わたしの?
鍵を外すと不機嫌そうな顔のロロノア・ゾロが入ってきた。部屋の中をざっと見回し背中の後ろでドアをロックする様子に緊張やら過剰な色はまるでない。な のになぜか圧倒される気がして目を離せないまま後ろに数歩下がった。
ゾロもわたしと目を合わせたままゆっくりと腕組みをした。
「どんな奴に狙われてるんだ」
いきなり答えにくい質問を吐くな、こいつ。
「・・・どこか適当に座ってくれ」
と言っても部屋にはベッドとテーブル、見るからに頼りないスツールが1脚しかない。わたしがベッドの端に座るとゾロは真ん中を空けるようにして反対側に 座った。黙ってこっちを見るゾロが答えを待っていることがわかった。
「全然はっきりしない話で悪いんだが、誰がどこでどう狙っているのかはわたしにもわからないんだ。というより、狙われているのかどうかもわからない」
言いながら我ながら情けないと思った。自分が被害妄想にとりつかれたヒステリー女になったような気がする。ゾロの目や唇に冷笑を見ることになると思っ た。
「用心棒を雇おうと思ったのはいつからだ?」
予想に反してゾロは真面目な顔でわたしを見た。軽くこっちに身を乗り出すようにして。
「昨日の夜から・・・・だけど、なぜ?」
「それまで平気で過ごしてきたあんたが急に不安を感じはじめたってことは、見逃していいことじゃねぇ」
「虫の知らせとか予感とかそういうことを言ってるの?」
海賊狩りとしたことが。
力が抜けかけたわたしの前でゾロはニヤリと笑った。
「そうは言わねぇ。ただ、そういう感じって奴には自分にわからなくても意外とちゃんとした理由があるっていうことだ」
そうなんだろうか。おかしなことだが、ゾロがわたしの不安をそのまま受け入れたことでわたしの中にあった焦りのようなものが消えた。
「事情を訊かないの?」
「言える事情ならとっくに喋りはじめてるだろ。どのみち相手のやり方もはっきりしねぇんだ。興味はねぇ」
こいつは本当に肝が据わっている。
酒場の隅で壁を背にして足を組んで座る姿が頭の中に浮かんだ。そのゾロの姿を見かけた客たちは、ある者は恐々と遠巻きにして通り過ぎ、店に入るのをやめ る者もいた。例外は3人。宿の主とその幼い娘、そして無理に真っ直ぐ背を伸ばして彼の前を歩くわたし。
「夜中の零時を過ぎるまで・・・・日付が変わるまでわたしを守ってほしい」
真っ直ぐに視線を合わせるとゾロは黙って頷いた。
「まだ時間は長いから何か飲み物でも・・・」
立ち上がると眩暈がした。緊張が解けたからだろうと思った。けれど、踏ん張った足が自分のものではない感じがして段々と違和感が強くなっていくのがわ かった。
「
盟!」
ゾロの声が聞こえた。
「なんで・・・・名前知って・・・・・」
揺れる天井が見えた。
ああ、いけない・・・・思いながら何もできずに手を伸ばすと背中があたたかいものにぶつかった。あたたかくて力強い。
「最後に何か食べたり飲んだりしたのはいつだ?」
早口に問いかけるゾロの声。受け止めてくれたゾロの腕にわけもなくしがみついた。自分がどうなっているのかわからなかった。
「
盟!答えろ。とにかく思い出せ」
「・・・昨日の夜・・・・・あれから何も食べてないし飲んでない・・・・」
「くそ・・・・じゃあ吐かせても無駄だな」
額の上にゾロの大きな手を感じた。静かにまるで撫ぜるように動いている。
「もう少し我慢しろ。いいか、お前は毒を飲まされた可能性が高い。心当たりはねぇか?」
「う・・・・・」
昨日はずっと1人だった。いや、昨日に限らず大抵は1人だ。毒なんて・・・・
手が小さく震えはじめた。毒のせいだろうか。寒くてそれなのに身体の中が熱い。
ゾロの手がわたしの右手に重なり、そっと包み込んだ。
「ん・・・・?」
ゾロの手に力が入るのがわかった。わたしの手を持ち上げて眺めている。
「
盟、お前・・・・この爪、どうした?こんなのをこれまでつけてたことないんじゃねぇか?」
「それは・・・・さっきテーブルの下で見つけて・・・・・でもどうしてそんなこと知ってる・・・・?」
「これか!」
ゾロの腕に抱き上げられた。そのままどこかへ運ばれる。
「・・・蓋を開けたらとても綺麗だったから・・・・・・」
誰かの声が話し続けている。
わたしだ。自分で何を言っているのかわからない。
「間に合えよ・・・・」
ゾロの声と同時にどすんと固い床の上に下ろされた。狭い。シャワールームだ、と思った時、頭の上から冷たい水が降り注ぎはじめた。
「ゾロ・・・・何・・・・・」
石鹸の匂いがした。ゾロがわたしの両手に石鹸をこすり付けて洗っている。痛い。手の力が恐ろしいほど強い。
「いいか、ちょっと自分で洗ってろ。爪と指先を洗い流すんだ。俺は下に行って何か薬をもらってくる」
壁に背中をもたせかけられた。ゾロが離れていってしまうことが悲しかった。
「しっかりしろ!すぐ戻る」
ゾロの手が一瞬頬に触れた。
ただゾロが言うとおりに手を洗い続けた。次第に視界が狭まる感覚が気持ち悪かった。
ぬるい液体の中に手を突っ込まれるのがわかった。指先がピリピリと焼け付いた。その中でまた繰り返し手をこすられた。唇を噛んで痛みに耐えていると身体 がふわりと持ち上げられた。柔らかで心地良い場所に寝かせられて上半身を抱き起こされ、唇に固くて冷たいものがあてられる。中味を飲むように言われている のはわかるが唇が震えて言うとおりにできない。できないことに焦って涙がこぼれた。
「そのままでいい」
声が聞こえ、再び優しく寝かされた。そして唇があたたかいもので覆われ、液体が流し込まれた。驚きと息苦しさで思わず飲み込んだ。苦い味が口いっぱいに 広がった。全部飲み込むまで唇は覆われたままだった。
「ん・・・・・」
目を開けるとゾロの顔があった。
「ゾロ・・・・?」
ゾロは唇の端を手の甲で拭った。
「不味い薬だな」
自分の唇に触れたかったがまだ手が震えていた。
「宿の親父が医者を呼びに行ってる。もう大丈夫だとは思うが一応診てもらえ」
ゾロが震える手をまたあたたかく包み込んでくれた。
「・・・・どうしてわかった?わたしの爪・・・」
「ああ、いや・・・・お前がいつも何もつけてないのは見てわかってたから・・・」
歯切れの悪いゾロの口調。逸らす目線。
もしかしたら。同じなのだろうか。
酒場で見かけるたびになぜか気になった。わざと見ないようにしながらも時々目を向けずにはいられなかった。
もしも、あの気持ちと同じ気持ちをゾロが・・・・。いや、まさかな。
「慣れないことをするもんじゃないな」
呟くとゾロが手を持ち上げた。手の甲を上に向けさせて指先を眺めている。手の触れ合う部分がひどく熱くてそれなのに引っ込めるとこの気持ちがバレてしま う気がして動けなかった。
「このままで十分じゃねぇか」
何が?と訊く前にゾロの唇が指先に触れた。
「ゾロ!まだ毒が残ってたら・・・・・」
慌てて引っ込めようとした手はしっかり捉えられていて動かない。
「毒が回ったらお前の隣に倒れこむさ」
ゾロは唇の片端を上げた。そしてわたしの手をベッドにのせて布団を掛け直してくれた。
笑みを含んだ瞳の中に別の光が見える気がした。それを見ていると全部話してしまいたい衝動に襲われる。ずっと捨ててしまいたいと思ってきた名前のこと。 自分の手で石を磨いて輝かせることの喜び。はじめて見た時から気になってしかがたなかった1人の剣士。
でも口を開くことはできなかった。
あと夜中まで何時間だろう。残されたゾロとの時間。
「余計なことを考えるな」
ゾロの大きな手が迫ってきたと思ったら瞼を閉じられた。
「今は、眠れ」
穏やかな声が聞こえるとなぜか涙が溢れた。
もうひとつの手が静かに片方ずつ目尻を拭ってくれた。