初めの日

イラスト/ 朝靄がまだ残る中、空気がすごく冷たかった。もうとっくに季節は変わっていたんだと思うとちょっと焦る。自分が現実生活から目を離してる気がする。以前、 夜にちゃんと睡眠を取らないと昼間脳に溜められた記憶とか知識がちゃんと整理されなくてすぐに抜け落ちてしまう、みたいなことを聞いたことがある。もしか して今更季節に気がついたのはしばらく続いている不眠症のせいなんだろうか。この朝の散歩をはじめたのもそれが理由だ。
 高台に作られた景色のいい散歩道。ジョギングしている人も結構多くてロード沿いに植えられた木々がそろそろ紅葉の準備をはじめている。歩いているうちに 何だかみんなが避けて通っている一角があることに気がついた。でもなぜ?いつもの様子と変わったところは・・・・・
 あった。
 段ボール箱がひとつ。木の根元に置かれたそれを見た途端に胸の中がギュッとした。予感。あれは爆弾じゃない。バラバラ死体でもない。もっと・・・もっと 切ないものだ。
 どうしてみんな、行かないの。
 どうしてみんなも知ってるの。
 わかっていてそれを避ける強さがない自分が恨めしいと思った。

 段ボール箱の蓋は右半分が開いていた。まだ数メートル先にあるその中で茶色いものが動いた。細長いそれは尾だ。鳴き声も吼え声も聞こえない。自然と忍足 になっている自分の足がそれでも段々箱に近づいて・・・次に見えたのは尾と同じ色の毛並み、それから三角形の耳。ああ、猫だ、と思った。犬ではなかった。

(おまえ、どうしたの?)

 心の中で囁きながら閉まっている方の蓋を開けると金色の瞳がこっちを見上げた。嘘、と思った。子猫じゃない。ほっそりした身体と長い尾、何かを考えてい るような顔の表情。身体を丸めるというよりは投げ出しているその猫はもうとっくに大人になった猫だった。
 どうしよう。子猫の愛らしさがあればもしかしたら飼う気持ちになる人だっているだろう。でも大人の猫じゃ・・・愛想もなく黙ってわたしを眺めているだけ のこの猫。季節はもう寒くなりはじめていて、もしもこの猫が今までずっと家猫だったのなら今から急に野良になってもやっていけるものだろうか。
 なぜ自分がパニックになっているのかわからなかった。
 何もできないという気持ちとこのままじゃ嫌だと思う気持ちがごちゃごちゃに混ざっていた。立ち上がったわたしは身体の中から溢れてくるそれを一言にして 出した。

「あの・・・・!」

 自分でも信じられないほどの大きな声。少し離れた辺りを走っていた人たちが驚いたような顔をして足を止めた。早く、早く、言わなくちゃ。そういう思いは あるのにさっきの大声に自分も驚いて喉に蓋をしてしまったみたいな感じで気持ちだけがグルグル同じところを回っている。わたしの顔を見ながら何人か声を掛 けてくれようとしたように見えた人たちはわたしの足元に目をやるとこっちに向いていた足を元に戻した。気がつくとまたみんなが動き出していた。こっちに来 てくれる人はいなかった。
 わかってる。この人たちはきっとこれから会社とか学校に行くんだし、捨て猫を飼う余裕も気持ちもない。中途半端に関わるくらいならやめておいた方がい い・・・そう判断できるくらい自分を持っている人たちなんだ。中途半端なのはわたしだ。何もできやしないから手を伸ばして抱え込むこともできなくて立って る。わたしも帰るしかないんだ。帰ってご飯を食べてメールのチェックをして、それから学校へ行くしかない。なのに足が動かない。

「そいつ、猫なのか?」

 突然聞こえた声に身体が飛び上がった。少し離れたところに立っている背の高い姿は頭にフードを深くかぶっているせいで影になった顔がよく見えない。その ウィンドブレーカーの上下には見覚えがあった。エンジ色と黒。見かけるときはいつも今みたいにフードをかぶって黙々とロードを走っている。何かのスポーツ 選手なのかなと想像したりしていた姿。低い声はぶっきらぼうで、でも初めて聞いたんじゃないような気がしていた。
 なかなか返事ができないわたしに焦れたのか、その姿は箱に近づいて視線を落とした。彼がわたしの横を通ったその時、フードの中に金色に光るものが見えた 気がした。あれはもしかしたらピアス?ピアスは珍しくないけれどこの人、もしかしたら・・・・

「成猫だな、こいつ」

 風をはらんだフードが頭の後ろに落ちた。短い緑色の髪。左耳の三連ピアス。日に焼けた肌。何ものにも動じないように見える瞳。そこにいたのはロロノア・ ゾロ・・・同じ高校、同じ学年、そして去年ほんの一ヶ月クラスメートだった姿だった。

「ロロノア・・・君」

「ああ」

 わたしが彼を知っていることを何とも思わないようにゾロは猫の方を見たまま答えた。これが初めてのゾロとの会話。そんなことをなぜか意識する。今はクラ スが違うからすぐに声に反応できなかったけど、前はなんだか気になって自然と耳がこの声を探していたのを思い出す。転校生は珍しいから、そう思った。無口 なくせに何かいう時はいつも核心をついていて印象的だからだとも思った。一言の話をする機会もないままクラスが分かれ部活も委員会もないわたしには接点が 全くなかったから、今までもう関係が生まれるはずがない相手だと自分から切り離していた。

「お前が飼うってわけでもなさそうだな」

 『お前』なんだ、突然。『あんた』とか言わないか、普通?
 ・・・・それが何でこんなに気になるんだろう。そして実は『お前』の方が『あんた』より少し好きだと感じてしまうんだろう。

「うちは・・・家族にアレルギーがいて・・・」

 小学生の時にこっそり連れ帰った子猫。その夜、咳の発作に襲われた母。苦しめてしまった罪悪感と一緒に気持ちだけではどうにもならない現実を知った日。

「アレルギーか。そりゃ大変だな」

 当たり前のことのように言ったゾロは箱の前にしゃがみ込んだ。見下ろす鳶色の瞳と見上げる金色の瞳。そこに通いはじめたもの・・・これは錯覚だろうか。

「一緒に来るか?」

 低い囁きはひどく優しく響いた。それに答えるように猫は身体を起こして前足を伸ばし、ゾロの胸に触れた。
 ゾロは部活をしていない。時々剣道部の試合に助っ人として呼ばれて試合に勝つ、それだけだ。放課後の遊びづきあいも悪く、誘っても滅多にいい返事は返っ てこない。つきあい悪い、何処にも所属していない、校則違反のピアスを絶対に外さない。そんな記憶をいくつも頭の中に並べた。並べて作ろうとしているこの 壁で一体わたしは何から自分を守ろうとしているんだろう。並べてもすぐに別の記憶が隣りに並ぶ。無口、無愛想、つきあい悪い・・・・そんなゾロなのにいつ もクラスの中心にいる。真ん中で黙っている。時々口許に浮かぶ笑み、男同士で大声で笑う声。みんながそんなゾロに惹かれる。だから声を掛けてみて、また振 られる。誕生日、クリスマス、初詣、バレンタイン。ほんの一ヶ月しか知らないわたしには縁がなかったことだけど、今年のゾロは誰と一緒にこういう日を過ご すんだろう。・・・・誕生日?
 ゾロが両手を差し出すと猫は箱の縁に手を掛けて空気の匂いを嗅いだ。

「来いよ」

 囁きに誘われるように猫は音もなく飛び上がり、ゾロの腕の中に着地した。

「・・・今日、誕生日・・・?」

 小さく呟くと立ち上がったゾロの顔に驚きが見えた。それから入れ替わるようにニヤリと笑みが浮かぶ。

「驚いたな。じゃあ、こいつはそのめでたくもねぇ日のプレゼントってことにするか」

 11月11日。一度聞いたら忘れない日付だと思う。だってこんなに突然記憶から蘇ったもの。
 フードをかぶったゾロは挨拶代わりのようにひとつ頷くと歩きはじめた。腕の中の猫はじっとゾロの顔を見上げている。日の光が当たると毛並みが艶やかに光 り、温かそうな色に浮き上がって見えた。事情はわからない。でもこの猫はきっと少し前まで大切にされていたんだ。大切に・・・飼えなくなった時に命を終わ らせることなんて考えられないほど。どこかで行き続けて欲しいと祈るほど。わたしの考えは甘い。猫を置いていった人の考えも甘い。だけど、そう思えた。
 横を通り過ぎたゾロが足を止めた。

「気になるならそのうちこいつの様子を見に来い。声掛けられたら時間を空ける」

 驚いた。

「わ、わたし隣りの隣りのクラスの・・・」

 言い掛けると振り向いたゾロが笑った。

なな、だろ。知ってる。苗字の方は知らねぇけどな」

 じゃあな、とまた背を向けたゾロは片手を上げて歩き出した。
 驚きと好奇心と・・・そして原因不明の喜びと。溢れそうなものをどうしていいかわからなくて腕を身体に回した。嘘みたいだ、こんなポーズ。テレビやコ ミックの中だけに存在すると思ってた。
 この気持ちが何なのか、今はまだ考えない。いつかゾロに声を掛けることができるのか、それはわからない。でも、もしもまた朝の空気の中で走っているゾロ に出会えたら。
 その時は自分の番なのだ、と思う。

2005.11.1

ななさんからいただいたリクエスト
「なんとなくゾロが好きかも、でもまだ片思いとまでいかない」
「去年はおなじクラスだったけど今年は違うクラス」
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