二度目の日

イラスト/ 身体の周りを抜けていく風が随分冷たかった。それは走り終わった直後の火照る身体には心地よかったがじきに冷えてくることもわかっていた。高台の散歩道。 何人もの人が何となく頭を下げたり目線で朝の挨拶をくれる。自然に何でもない事のように挨拶を返す自分がいる。本当は今もまだ心の中がドキドキする。嬉し さと緊張と。相手の名前も何も知らないことの不思議さを考える。
 あともう5分だけ。そう決めたときいつもの会社員が手を振って横を駆け抜けた。

「まだ待ってるのかい?風邪ひくよ」

 声の後半は遠ざかる姿から届くまでにちょっと時間がかかった気がした。
 待ってる。
 そう。約束も何も交わしていない相手の事を。間の距離がちっとも短くなっていない相手の事を。
 汗が本当に冷えてきたのがわかり、ため息が出た。
 帰ろう。首からタオルを外して手に持った。

「帰るのか? なな。ちょっとこいつに挨拶して行けよ」

 後ろから降りかかった声に飛び上がった。高校生にしては大人っぽい声。声だけじゃない、視線も態度も際立って見えるその人。
 息を整えてゆっくり振り向くとウィンドブレーカーのフードを脱いでほとんど見えないくらいの微笑を浮かべているゾロがいた。そしてその肩にはもう一匹の “ なな”がのっていた。

 ちょうど1年前のこの日、この場所で朝の散歩をはじめたばかりのわたしは一匹の猫が捨てられている場面に出くわした。それは子猫ではなくてもう大人で、 金色の瞳がとても綺麗な物静かな猫だった。アレルギー体質の家族がいる我が家では飼うことができない。その時連れて行く事も置いて行くこともできないでい たわたしの前に現れて何の問題でもないように猫を抱き上げたのがゾロだった。1ヶ月だけクラスメートだったことがあるロロノア・ゾロ。今もクラスは違うけ どとにかく目がすぐにその居場所を確認してしまう存在。あの日、ゾロは猫を連れてさっさと姿を消してしまった。猫の様子を見に行ってもいいと許してくれた のに結局なかなか声を掛ける事はできず、そのうち猫の方がゾロの肩にのってこの散歩道に姿を見せるようになった。猫に“ なな”という名前がつけられていたことが驚きだった。『お前が拾ったようなもんだからな』というゾロの言葉がどうしてかすごく嬉しかっ た。
 1年前のあの日、そして今日。ゾロの誕生日。
 少ない会話を交わせるのはここにいる短い時間だけで、その時間だってほとんどわたしと“ なな”がお互いを確認しているだけだ。“ なな”の体毛の滑らかな手触りにうっとりしながらゆっくり撫ぜてやると小さな頭を手にこすりつけて続きをねだる。それが可愛くて次に顎 の下と耳の後ろに触れてやる。そんな心和む時の間、ゾロは黙々と走っている。前を通り過ぎるときの横顔も遠くなる背中も、そして戻ってくる正面から見た姿 も・・・。何も言葉にできないけれど、きっと“ なな”はわたしの手の温度や動きからすべてを知っているかもしれない。今日という日を変わらない日常の中で迎えてしまったことに対する 自己嫌悪も。

「よかったな、“ なな”」

 ゾロが“ なな”を呼ぶ声はすぐわかる。短い音に込められた優しさ・・・それを感じることが出来るからつい胸の鼓動が速くなる。わたしじゃない。 それを受け取る事ができるのはわたしじゃないのに。そしてそんな自分がじれったいのにどこか可愛いとも思う。ごく普通のように大切に恋をしている。嘘みた いだ。

「そいつ、俺の他にはお前にしかそんな風に甘えねぇんだよな。義理堅いっつぅか・・・ったく」

 手を伸ばして小さな頭を軽く叩いてやるゾロの手はとても大きく見えた。“ なな”は一声返事をするとするするとしなやかにゾロの腕を登った。ゾロのたくましい首の後ろに身体を回して落ち着くと鼻の先で金色のピ アスをつついて遊ぶ。すっかり互いに馴染んだその姿。やっぱり“ なな”の一番もゾロなんだ。

「・・・ねえ、ゾロ、今日も夕方ここで走るの?」

 さりげなく言おうとした言葉を口から押し出すとちょっとリズムが乱れた。ゾロはちょっと驚いたようにわたしの顔を見た。・・・お願い、あまり顔を見ない で。このままだと胸の中の小さな企みが全部顔に出てしまう気がする。
 わたしは朝しかここにこないけれどゾロはたまに夕方も走ることがあると言っていた。そのことがわたしにとっての救いになりチャンスになることを・・・こ こ数日ずっとずっと祈っていた。

「今日はバイトもねぇから走りに来るか、とは思ってたけどな」

 首を傾げたゾロの考えが読めない顔はちょっと苦手だ。恥ずかしくなるし、恐い。

「・・・どうした?」

「いや、あの・・・寒くなってきたからどうするのかなって思っただけ」

 ダメだ。全然ちゃんとした理由になっていない。心の中でうな垂れた後、とにかく計画を実行しようと決めた。

「じゃあ、ゾロ、あの、朝ご飯つくらなくちゃいけないからもう行くね!」

「ああ・・・・?」

 まだ首を傾げているゾロから離れて小走りに家路を急いだ。早く学校へ行って放課後になって・・・そして早くあのお店にいかなくちゃ。気持ちばかりが先に 進んで疲労感が残る足がもつれた。




「今日、ゾロの誕生日だよね〜。今年はなんだか盛大に祝っちゃおうっていう話があるらしいし、楽しみだね」
「街で一番広いカラオケボックスはどこかってC組の男の子が騒いでたよ。ちょっと心当たりを教えてあげたらお礼にパーティ呼ばれちゃった。友達5人まで OKだって。一緒に行く?」
「うそ!いいの〜?やだ、すっごく嬉しい〜!」

 そんな会話が耳に滑りこんできたのは昼休みだった。目の前が真っ暗になるっていうのはこういうことなんだ、と思った。でも、考えてみれば当たり前だ。無 愛想なのに笑うと子どものようなゾロは学年も性別も超えて人気が高い。何だかんだと理由をつけて生徒指導室にゾロを呼ぶ先生たちも結局はゾロをとても可愛 がっているんだと思う。そんなゾロの誕生日が静かに過ぎるわけもない。
 馬鹿だ。
 一瞬、盛り上がる女の子たちに声を掛けてみようかと思ってしまった。自分にもその場に参加する権利をもらうために。浅はかでわがままだ。そして滑稽だ。

 午後の授業の間中、どうしようか迷っていた。1年に1度のゾロの誕生日。3年生のわたしたち。卒業しちゃったらもう会えなくなるかもしれない。そのこと が繰り返し頭の中を駆け巡った。
 ゾロの誕生日を祝いたいと言うのはわたしが勝手に思っている気持ちだ。じゃあ、ゾロ本人がわたしが祝っている事を知らなくてもいいじゃないか。少なくと もわたしは自分がちゃんと祝った事を覚えていられるのだから。
 決めたら煮え立っていた頭の中がすぅっと落ち着いた。やっと授業が耳に入り出したと思ったとき、チャイムが鳴った。




 静かに店のドアを開けると多分わたしの顔を覚えてしまっているらしい店員が微笑といっしょに会釈してくれた。後ろでまとめた艶やかな髪と清潔そうな白い 肌、それから深い色の唇。学生のわたしからみると眩しいほど大人な姿はとても美しかった。

「いらっしゃいませ」

 涼しげな声を聞きながら身体は無意識のうちに目当ての棚に向かって移動する。夏頃から毎週見てきた場所に気持ちよりも慣れ親しんでしまっている身体。目 の高さよりも一段低い棚板の中央に、それはまだちゃんと並んでいた。銀色の猫がさまざまなポーズを取っている装身具。指輪、ピアス、ペンダントトップに チェーン。どれにしようか迷いながら節約と家事手伝いで費用を溜めてきたわくわくする日々。アクセサリーの猫たちはどれも“ なな”にとても雰囲気が似ていた。

「もしかしたら、いよいよお買い上げということかしら?一番好きな子をじっくり選んでね」

 いつのまにか傍らに店員の姿があった。

「この子たちはね、銀じゃないのよ。ヘマタイトっていう石を彫って作られたものなの。光って綺麗でしょ?昔は鏡として使われていたそうよ。今は銀色だけど 薄く切ると血の様な赤い色に見えるんですって。不思議ね」

 内側に血の色を秘めた白銀の石。うん、それはなんだかとてもゾロに似合う気がする。
「身につけた人に勇気と自信を与えてくれるとも言われているの」

 そうなのか。そう思って銀色の猫たちを見下ろすとどれも自信ありげに満たされた顔をしているように見えた。我ながら単純だ。勇気と自信。それなら今更与 えられなくてもきっとゾロの中にはいっぱいに満ちている。だからこそいつもあんなに眩しい。気がつくと強く惹かれている・・・こんなにも。
 散々迷っているわたしを置いて店員は離れて行ってくれた。放り出されたのではなく、待っていてくれるのだ。そう思えた。
 ちょうどゾロの肩にのっている時のようにちょっと身体を丸めたポーズの猫・・・やはりこれが一番“ なな”に似ている。ようやく決めて指輪を陳列ケースから抜き出した。

「それに決めたのか?」

 ・・・え?
 耳を疑って身体を硬くしているわたしの指からたくましい指が猫の指輪を抜き取った。
「ああ、すみません、これ下さい」

 ・・・は?
 平然と買い物をしている後姿はどこをどうやって見てもロロノア・ゾロのものだった。

「指にはめてご覧になったかしら?サイズ直しもできますよ」

「ああ・・・そういうもんなのか」

 わたしが駆け出そうとした途端にゾロが振り向いた。

「ゾロ、あのね、何か間違って・・・」

「ん」

 血が上った頭がクラクラするのを感じながらゾロに詰め寄ろうとしたわたしの前に、ゾロはすっと手を差し出した。二本の指が銀色の指輪をつまんでいる。あ あ、よかった。ともかく指輪はわたしの手に戻ってきた・・・そう思った時、ゾロは言った。

「はめてみろ。合わなかったら直せるみてぇだ」

 わたしに合わせて?
 待って欲しい。それは全然目的と違う。

「そうじゃなくて、ゾロ!その指輪はわたしが買って・・・」

 ・・・そっとゾロの部屋の郵便受けにでも入れておくつもりでした・・・とは言えなかった。
 ゾロは口角を上げた。

「気に入ってるんだろ?えらく熱心に選んでたからな。だから、そいつは俺が買う」

 どうしてそうなるんだろう。わたしは必死で言葉を選んだ。

「確かにその指輪は大好きだけど、それを選んだのは別の目的があるからで・・・・」

「“ なな”に似てるよな、これ」

 ゾロの右手がわたしの手をつかんだ。突然包まれた温かさに驚いて身体を退こうとした時、冷たい感触が指を通った。

「ゾロ・・・!」

 指輪がはまったわたしの手を持ち上げて確認するとゾロは指輪を抜き取り、再び店員の方に歩いて行った。

「このままで大丈夫みたいだから、これで」

 突然の状況の流れ。まだ手に残る温かなゾロの手の感触。動揺しながらもわたしの頭は半分ポーっとなってしまい、判断力がなくなってしまった気がした。そ れでも譲れない思いがあった。だってあの指輪はゾロの誕生日のために選んだものなのだから。

「待って!ゾロ。その指輪はわたしじゃなくてあなたに・・・!」

 振り向いたゾロの手が伸びてわたしの頭をぐっと引き寄せた・・・制服につつまれた広い胸に向かって。

「落ち着け。わかってる、これは俺の誕生日プレゼントってやつだったんだろ?わかってるからちょっと黙ってろ」

 こんなに心臓を激しく打ち鳴らしたら倒れてしまうんじゃないだろうか。言われなくてもわたしには黙っていることしか出来なかった。頬がゾロの胸のボタン にあたって少し痛い。そしてひどく顔が熱い。

「包まなくていいです」

 ゾロの声が聞こえ、指に冷たい感触が戻った。

「あら、そういう渡し方も素敵ね、勿体ぶってなくって」

 明るい微笑が混じっているはずの声に顔を上げられなかった。




 ゾロは身体のすべての動きがぎこちなくなってしまったわたしの手を引いてコーヒーショップに入り、店先のテーブルにわたしを座らせた。

「待ってろ」

 離れていくゾロを見送った後、ぼんやりと視線を自分の手に落とした。指に輝く銀色の猫。ここにいるのが当たり前って顔をしているみたいに見える。
 湯気が立つカップを二つ持ってきたゾロはひとつをわたしの前に置いてくれた。クリームが浮かんだ香りのよいココア。びっくりしてちらりとゾロのを見る と、ただのコーヒーの色と香りがあった。

「んだよ。まだ驚いてるのか?俺は自分の誕生日を祝いたい人間じゃないが去年お前には“ なな”をもらっただろ。今年も朝起きたらちゃんと布団の上にあいつがいて、それが十分にプレゼントってやつだと思ったから・・・だから お前にそれを買ってやりたかったんだ」

 ・・・よくわからない。そう言えば去年ゾロは“ なな”を誕生日のプレゼントだと冗談のように言った。わたしからすれば行き場のない猫を抱き上げてくれたゾロこそ温かさを与えてくれた 人だった・・・猫と、そしてわたしに。だから。

「でも・・・・どうして?ゾロ」

「何がだ」

「どうしてあそこにいたの?」

 ゾロはガシガシと頭を掻いた。説明するのはあまり得意ではないらしい。それでもぽつぽつと話してくれたことによると・・・・。ゾロは突然決まった『誕生 日パーティ』に行くことにした。祝ってくれようというものから逃げるわけにはいかない。ちゃんと行ってすこしだけでも参加しないと気持ちが悪い。そう決め たゾロはふと、わたしが朝に訊いた事を思い出した。夕方のランニング。それはゾロの中ではひとつの約束になっていたので、ゾロは夕方には間に合わなくなる かもしれないことをわたしに言わなければならないと思った。それで放課後にわたしを校内あちこち探し回り、街中に足を伸ばしたところでわたしがあの店に入 るのを見た。しばらく外で待っていたがウィンドウのガラス越しに何かにわたしが夢中になっていることがわかったので、とりあえず中に入ってきたのだ。

「夕方を・・・約束だと思ったの?」

 おずおずとゾロの顔を見上げるとゾロは笑った。

「あんな風に訊いてきたのは初めてだったからな。さすがに俺も自分の誕生日は忘れねぇし。俺はもうお前から一生分のプレゼントってやつをもらってるから な。あとは俺がお前にやるだけだろ」

「・・・どうして?」

 そこのところがよくわからなかった。“ なな”をプレゼントとして喜んでくれるのはとても嬉しい。でもわたし、お返しはいらない。

「俺はお前の誕生日を知らねぇからな。訊いても変に思われるかと思ったし」

 ということは、つまり。

「・・・これはわたしへの誕生日のプレゼント・・・?」

「まあな」

 答えたゾロはふいっと視線を逸らした。

「で、どうするんだ?お前、そのパーティってやつに行きたいか?それなら俺が連れてってやるが」

 気のせいだろうか。ゾロの頬がちょっと赤くなったように見えた。

「うん・・・・あのね、学校でパーティの噂を聞いたときはすごく行きたいって思ったの。でもね、今は違う。突然わたしが行っても何だかおかしいし・・・・ 実はね、わたし、カラオケボックスってちょっといやな思い出があって親にももう大人になるまで行かないって約束してるんだ。ふふ。うちの親ってすごく話せ るんだけど違う面では厳しくてね。高校生の間はバイトもダメなんだよ。だから、プレゼントを買うためのお金はお小遣いを溜めてあとは自分の家でいろいろ手 伝ってご褒美をもらったの。・・・カッコわるいよね」

 話していくうちに何だかゾロの表情がどんどんやわらかくなっていく気がした。どうしたんだろう、ゾロ。こんなに優しい顔はあっちの“ なな”のためのものなのに。見ていると胸が苦しくなって、でも目をそらせなかった。

「そうやってできる相手がいる間は思い切りそうするのがいい」

 ゾロが静かに言った。
 思い出した。ゾロは高校生だけど自活してるんだって聞いた。事情はわからないけれど少なくとも親はいない・・・・。
 ゾロの手がわたしの頭を撫ぜた。

「“ なな”を拾ったとき、お前、猫のことをすごく心配してたし、それに、アレルギーだっていう家族のことも一生懸命考えてただろ。俺はそう いうのがすごくいいと思った。俺たちの年だとよ、わりといるだろ・・・自分が親の金で学校に行かせてもらってることを忘れてああだこうだ親の文句をいうヤ ツが。そういうのが大人だって思ってるんだよな。俺はそういうのは好きじゃねぇから、お前みたいなのがいい。だから、ずっとお前を見てた。・・・間違って なかったんだな」

 ゾロの言葉のひとつひとつが心にしみてきた。何だか信じられない。

「でも、反抗期はすごかったんだよ」

 不思議だ。こんなにドキドキしながら反抗期の話なんてしている。

「それは俺も負けねぇな」

 ゾロがこんなにあったかく笑いかけてくれる。すごい。本当に夢みたいだ。
 ゾロは立ち上がって腕を伸ばした。

「じゃあ、俺はちょっと行って来る。家にいろよ。帰ったら電話する」

「あ、電話番号はね・・・」

「いらない。もう知ってる」

 背を向け片手を上げて歩き出したゾロ。その後姿はちょうど1年前のあの日に重なって見えた。
 今日の夜。初めての電話。そう言えば家の電話と携帯電話、ゾロはどっちの番号を知っているんだろう。何となく家の電話にかけてくる気がした。そうしたら 携帯の方の番号を教えて・・・もしもそっちにかけてくれたらちょっと訊いてみたい事があった。訊けるかな。これは訊く方も結構勇気がいることだ。さり気な く意味なんてない風を装って・・・『ゾロ、指輪をはめてくれた指を覚えてる?』
 いや・・・これは直接過ぎる気がする。とても訊けない。
 ふと銀色の猫が笑ったような気がした。左手の薬指におさまって傾きはじめた夕日の中でキラリと光りながら。

2005.11.22

ななさんからいただいたリクエスト
キーワード「ヘムタイト」
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