「行くのですか」
修練の後。道場奥の一室は静けさに包まれていた。時折、床を磨く門生たちの話し声がかすかに聞こえてくる。
クレガと
リンは向かい合って座っていた。普段の通りに掃除に参加しようとした
リンをこの部屋まで連れてきたのはクレガだった。
「行かれる訳は承知しているつもりです。ただ・・・・・・・」
リンは黙ってクレガを見た。言葉尻を濁すのは彼の流儀ではない。苦渋の表情を隠しきれていないのも彼らしくない。
まだ少年の頃から漣のセラクのそばにいたクレガ。
リンがセラクの元にやってきたあの日も、彼はセラクのすぐうしろにいた。静かでいながら鋭いものを感じさせるクレガは、最初は
リンの存在を認めるでもなく、否定するでもなく、無関心な様子を見せていた。
リンは気にしなかった。クレガの刀を握る姿は冷静沈着であり、何よりも周りに公平でありセラクの次に学ぶところが多かった。
半年後、
リンはセラクの隣でクレガと並んでいた。セラクは今
リンの背中にある長剣を誂えてくれた。クレガは
リンと普通に会話を交わすようになっていたし、時には薄い笑顔も見せるようになっていた。
リンの先輩弟子である門生たちも
リンの存在を丸ごと受け入れてくれていた。
リン自身が戸惑うほどに。それまで
リンは人の心の弱さや欲望、嫉妬や浅ましさを多く見てきた。それはあるのが当たり前のもので、ないはずはないように思えた。
「おまえの想いの強さだ、
リン」
疑問を口にした
リンに対してセラクは言った。
「おまえは夢のために無心で剣を振ることができる。もう一度その青年と会えるかどうかはわからないが、おまえの希望はただひとつ。それは他の人間と自分を 比べるとか、そういう狭い心を超えている。そういうことは自然と周りのものには伝わるものだ。・・・・逆もまたしかり、だがな」
穏やかなセラクの声が最後だけすこし低くなった。見上げる
リンの前でセラクは微笑んだ。
「気にするな。わたしもちょっとばかり大人になったということよ。ずいぶん時間がかかったな。
リン、おまえは今、この道場にとって一服の清涼剤のような存在なのだ。お前が来て、みんなが刀を握った時の一番最初の気持ちを思い出し たのだからな」
そう言って微笑みかけてくれたセラクの隣に、あの時もクレガの姿があった。その口元にも微笑があった。
「昨日は答えを聞けなかったのです」
リンは静かに立ち上がった。
「行きます。機会はもう2度とないかもしれません」
クレガも立ち上がった。背が高い彼が見下ろす視線はちょうどゾロと同じように思えた。その視線には様々なものが込められているのだろう、と
リンは感じた。漣のこと、海嘯のこと、過去、現在、未来・・・・。
静かに一礼するクレガに礼を返して、
リンは部屋を出た。
日が少し傾き始めた町。それでもまだまだ太陽の日差しは強く、歩く
リンは喉の渇きを覚えた。
通りには人がいなかった。不思議なほど静まり返っている。それでも
リンは、角にたつ宿屋の2階の窓にカーテンの陰に隠れる人陰を見た。
(・・・ここまできてしまった・・・・・・)
リンはのしかかる重みを振り払うように、しっかりと頭を上げた。
「お〜〜〜い、
リン!おやつだぞ〜〜〜〜〜!」
船から響く船長の明るい声が
リンの心を切り替えた。
(さあ、勇気を!)
リンは船に向かって軽く走った。
「
リン!ほら、こっちよ」
「
リンちゃん、飲み物は何がお好みかな?紅茶、コーヒーはホットもアイスもできるよ〜」
「今日は俺がパチンコを教えてやる約束だったよな!」
船に上がると、昨夜と同じように色鮮やかで香りに満ちたテーブルが目に入った。それを囲んで自分に笑顔をくれているナミ、サンジ、ウソップ、ル フィ・・・・・。これまでに経験したことがない暖かな気持ちが喉もとをせりあがってきて、
リンは何もいえなかった。しかし、自然と顔に浮かんだ微笑が
リンの気持ちを伝えてしまったようで、ナミたちの笑顔も一層大きくなる。
そして、
リンは1人マストにもたれて立っているゾロの方を見た。
(もう、機会は2度とないかもしれない・・・・・)
クレガに向かって言った自分の言葉が頭の中で響く。
リンはまっすぐにゾロの前に歩いていった。顔を上げたゾロの目に浮かんだのはなんの色だろう。深く沈んだ瞳に向かって
リンは口を開いた。
「あの時の約束、覚えてますか?もしも、わたしが強くなったら一緒に行ってもいいと・・・・ついて行ってもいいと、あなたは言ってくれました。わたしはあ のあとでこの島に来て、セラクさんの道場に入りました。強い相手を探すあなたは、いつかきっと漣のセラクさんのところへ来る、と思いました。会えなかった なら、それは運命なのだとずっと自分に・・・・」
ゾロの瞳はまっすぐに
リンを見ていた。ナミとサンジは手に持っていたカップを下ろし、ウソップはパチンコを置いた。ルフィはじっと二人の姿を見ていた。
「ゾロ、もう一度お願いします。一緒に行かせてください」
言い終わった
リンは息が切れていた。それほどに言った言葉の数々は
リンにとって真剣で重かった。
ゾロはマストのもたれるのをやめて身を起こした。
「俺は、お前を連れて行く気はねぇ。・・・仲間にする気はない」
ナミとウソップが息を呑んだ。サンジは眉をひそめた。ルフィは変わらずに丸い目を見開いて二人を見ている。
リンは小さく息を吐き出した。ゾロの言葉をしっかりと噛みしめるように頭の中で数度繰り返す。
「まだまだ弱い、と・・・・・?」
リンが問いかけると今度はゾロが深く息を吐き出した。
「いや、そうじゃねぇ」
ゾロは視線を外した。
「おまえがどれだけ強くなっても、俺は連れて行かない。・・・・最初が違ったんだ」
リンの瞳が大きく見開かれた。「連れて行かない」と最初に聞かされたときよりも心が動揺しているのが見て取れる。
「約束が、間違いだったと・・・?」
抑えきれない声の震えを
リンは必死で抑えようとした。
「あの時は、ああいうしかなかったんだ・・・・・・」
リンの頭の中であのときの情景が浮かび上がる。あのとき、
リンはささやかながらに持っていたもの、信じたいと願っていたもの、いつかはと夢見ていたものを全部失った。それは確かに同情を誘って しまう場面だったかもしれない・・・・
リンが何よりも恐れていたものを。
「・・・・同情だったと・・・・」
リンはぽつりと呟いた。ゾロは答えなかった。その沈黙を肯定と受け取り、
リンは俯いた。しかし、すぐに顔を上げた。
「・・・昨日から、あなたは話題を避けてたのに・・・・。ごめんなさい、なんだかすごくしつこくて・・・」
リンは数歩ゾロから離れた。そして、まっすぐに縄梯子の方に歩いた。テーブルのことも、そこに座る人間のことも目に入っていないのがわ かる。
「
リン!」
ルフィが立ち上がった。反射的に振り向いた
リンの顔はいろいろなものでいっぱいな表情を浮かべていた。
「俺たち、明日の夜明けに船を出すんだ」
声の真剣な響きに
リンは頷いた。頷くことしかできず、一気に船を下りた。
「てめぇ、一体何を考えてやがる」
事情がわからないまま呟くサンジの言葉に耳を貸す風もなく、ゾロは再びマストにもたれた。その視線は遠ざかっていく灰色の後姿に向けられていた。
(まったく、なんなのよ、こいつ)
ナミがにらみつけるのを気にする風もなく、ウソップのブツブツを無視して、ゾロは目を閉じた。
「あいつ、一生懸命だったよな・・・・・」
ルフィが呟いた。