リンはメリー号の方を振り向くことができなかった。胸の中に渦巻く激しい気持ちはいろいろな感情が混沌としたものだったが、心の表面に浮かび上がっている のは羞恥心だった。
(昨日のゾロの様子で答えはわかっていたはずなのに・・・・。わたし、何度確かめようとしちゃったかな・・・・・・)
リンは物事に執着しない生き方をしてきた。恐らくそうするのが
リンにできる精一杯の生き方だった。誰にも同情されたくなかったし、期待して落胆を繰り返す余裕はなかった。その
リンが心の中にある夢を描くようになったのは、ゾロと出会ったあの時からだ。
それからの
リンはゾロの約束を信じて強くなることだけを願ってきた。
(どうして・・・・すぐに信じちゃったのかな・・・・)
人は簡単に他人に同情の眼差しを向けるし、社交辞令は当たり前・・・
リンはそういうものに対して自分を守って生きてきた。自分の感じるものだけを信じ、人の言葉は何割か引いて受け止め、流した。その中に はもしかしたら「本気」な言葉があったのかもしれないが、そこに自分を甘えさせる気になれなかった。
でも。
初めて会ってからほんの数日しか経っていなかったゾロの言葉は、
リンの中にまっすぐ飛び込んできた。信じていいのかどうか考えもしなかった。
リンはそれを信じ、村を離れてこの島に来た。そしてセラクやクレガに会った。不思議と、セラクの言葉はゾロの言葉と同じように
リンの心に響き、
リンの漣での生活が始まったのだ。
(信じたかったんだ・・・・きっと・・・・・・)
たとえ、ゾロが同情で発した言葉であっても。ゾロはいらぬ同情をしない人間だと思い込んでもいた。
俯いて歩いていた
リンは、建物の陰から現れたひとつの人影に気がつかなかった。
「急いでるみたいだな、
リン」
現れたのは背が高くて筋肉質な男だった。
リンを見下ろす視線は厳しさと一緒に得体の知れない色を浮かべている。腰に差した幅広な刀が揺れている。
「ドラクさん・・・・」
海嘯のドラク。セラクの弟で、その豪剣が広く知られている男。その存在感は大きくて重々しく、通りには遠巻きに二人の様子を眺める人々が現れ始めた。
リンの顔には何の感情も現れていなかった。ドラクは眉をひそめた。無表情な
リンの目の横に、一筋の跡を認めたのだ。
「涙とはお前らしくない。どうやら・・・海賊狩りのゾロには断られたらしいな。セラクの道場から逃げてきた奴に話は聞いている」
リンの瞳に力がこもった。ドラクはセラクが死んだ日から、漣の門生たちに圧力をかけはじめた。海嘯の門生たちが脅迫まがいな行為を行う こともあった。その結果、漣から離れていった門生たちもいた。
リンは止めなかった。
「返事を聞こう、
リン。おまえは漣を解散してもいいと言った。おまえの下についている連中を自由にすると。だが、それだけじゃ足りない。わかっているは ずだ」
「セラクさんは、みんなに一度考える機会があったほうがいいと思っていました」
話し出した
リンの声は静かだった。
「解散して、それからみんなが自分の思うままに進んだ方がいい・・・・。あなたのところに行く人もいるし、セラクさんの道場で修練を続けたい人もいるで しょう」
ドラクは1歩
リンに近づき、顎をつかんで引き上げた。
「連中はどうでもいい。おまえだ・・・・・おまえはわたしのところにくるのか?」
ドラクの声はどこかセラクの声に似ている。髪や瞳の色も同じ。やはり兄弟なのだ、と
リンはよく思った。しかし、その声から感じ取れる強欲と執着の響きはドラクだけのもので、
リンの心をぞっとさせた。
「わたしはどちらにも行きません。・・・・そうセラクさんにも言いました・・・・」
リンの頭の中に、あの日、死を前にしたセラクと交わした会話が響いた。
「
リン。ここでロロノア・ゾロを待つ気持ちに変わりはないか?」
「はい」
布団に横たわるセラクの姿は一回り小さくなったようだった。
「わたしには恐らくあと数日しか残っていない。こんなときにこれをお前に頼むのは卑怯な気がするのだが・・・・・。
リン、この道場はおまえに預ける」
リンは驚いた。
「でも、クレガさんが・・・・・・」
「クレガは賛成している。
リン、わかってほしい。クレガも他のものたちも、ずっとこの島で生きてきた人間だ。お前がくるまで、この道場は忍耐を絵に描いたような 場所だった。いや、誤解はするな。みなが進んでわたしについてきてくれていたのは今と同じだ。この山の中の小さな建物まで追いかけてきてくれたみんなだ。 ただ・・・・みなそれぞれにしがらみをいうのがあってな・・・・。修練が終わって町に帰れば家族が責める。ドラクの道場の方が元々のものだし、大きい。理 解ある家族にしても、時に肩身が狭い思いをする。そんなこんながずっと積み重なっていたのだ」
セラクは言葉を切って
リンを見た。きっちりと正座するその姿はほっそりとしていても、驚くほどの強さを感じさせる。彼を見ている瞳には深い思慮の色が見え る。
「おまえは外から来た。剣に対する思いが強く、迷うことも邪念に苦しむこともない。自分を強くしたい・・・・その思いはみなに思い出させた・・・最初にこ こを作ったときの気持ちを」
セラクは静かに身を起こした。思わず
リンはその手をとった。
「大丈夫、今すぐには死なない。お前はどんどん強くなった。それはみなが認めている。クレガはお前があいつと同じくらいになったと言っている。おまえには 言わないだろうがな」
セラクは微笑んだ。
「あいつは言葉を使うのが得意ではないからな。感情表現もだめだ」
リンも微笑み返した。
「
リン・・・・わたしが死んだら、しばらく道場を頼む。ロロノア・ゾロがもしも現れたら、道場を解散して欲しい」
「解散・・・・・?でも、クレガさんが・・・・・」
「一度ゼロに戻ってやり直す。今のままではきっとだめだ。みながお前とクレガに頼り切ってしまうだろう。ロロノア・ゾロが来なくても、半年後には解散して 欲しい。ゼロに戻せるのはお前だけだ。・・・・・・解散した後、ここに戻るものがいたら、また新しい時代がはじまるだろう」
セラクは
リンの手を握った。
「もしもロロノアが来なかったら・・・・・、
リン、お前は・・・・?」
リンはセラクの瞳の中にひそかな願いを感じたが、首を横に振った。それを見たセラクは息を長く吐いた。
「そうだ・・・・その方がいい。わがままを許せ。ドラクはお前をなんとか手の中に収めようとするだろう。・・・・・・愚かな弟だ」
「弟」という響きの中に
リンはセラクの震える心を感じた。今は完全に道が分かれてしまった兄と弟。でも、それは心までが分かれてしまったことにはならないの だ・・・・・。
「道場は解散して、わたしは島を出ます」
リンは顎をつかむドラクの手をはずし、再び手が伸びるのを見て一歩後ろに跳んだ。
「お前はわたしのところに来る定めだ」
ドラクの瞳にはまたとらえがたい色が浮かんでいる。
「あなたが決めた定めは、わたしには関係ありません」
言いながら
リンはドラクの瞳を見つめ続けた。いつからドラクはこのような表情をするようになったのだろう。自信に溢れた自分だけを誇示したい男 だったはずなのに。
「わたしのものにはならない、と・・・・?」
歯軋りの音が聞こえた気がした。
リンは黙って頷いた。
「それは許さない・・・・。わたしのものにならぬというのなら・・・・・」
その後に言葉は続かなかったが、ドラクの心に浮かんでいる惨劇の場面が
リンには見える気がした。
「行け。山に帰るがいい。そして、待て・・・・おまえの定めを」
リンは自分を見つめるドラクの横をすり抜け、山に向かって歩き始めた。走っては行けない・・・・そう思った。今ここでドラクが剣を抜か ないことには確信があった。ドラクはそこまで堕ちてはいない。それが余計に恐れなければいけない理由になる。
(急がないと・・・・・・)
リンは唇を噛みしめた。
夕日の色が混ざり始めた光の中を離れていく後姿。
ゾロはだまって眺めていた。彼はまだマストにもたれたままで、サンジやナミ、ウソップの非難の声を無視してかわしきったところだった。ナミとサンジは 怒って船室に姿を消し、サンジはテーブルの上の皿を片付け始めていた。
(夜が明ければ出航だ)
自分の心が呟く意味がゾロにはわからなかった。
(このクソ馬鹿野郎)
サンジがぶつけてくる視線と、ルフィが放り投げてくる視線にゾロは背を向けた。