命 名

イラスト/夜の子猫 強くおなり

 強く真っ直ぐに生きるんだ

 誰にも負けないほど強く逞しく


 その声を最初に聞いたのはいつだったか、それを言ったのが誰だったのか少年は知らない。深い深い眠りの中に時折訪れる言霊が彼を守り導いてきたことを本 能が知っているから少年はその声に耳を傾ける。目覚めたとき記憶に浮かぶものがなくても、少年は自分でその言葉を口の中で紡ぐ。

 夏の間に育った大木の実は大きさばかりでいかにも硬そうに青々しかったのが、いつのまにか鮮やかに色づいて通りかかる人の気持ちを静かに引き寄せる季節 になっていた。使い込まれた木刀を肩に担いだ緑色の髪の少年もまた、足を止めてたわわに実をつけた枝を見上げた。その口許にはどうも素直というだけではな さそうな笑みがあった。

「今年も狙っておるのかい、ゾロよ」

 嗄れた声は大木が植わっている庭の中、塀の内側から姿を現した老婆のものだった。手に箒を持ったその姿にはかつて備わっていた凛とした風が未だに周囲を 取り巻いている。ゾロはニヤリと笑って老婆を見た。

「婆さん、また背が縮んじまったんじゃねぇか?言ったろ、俺は柿の実はあまり好きじゃねぇ。見るのは嫌いじゃねぇけどな。だから盗る必要もねぇ」

 老婆は瞳を見開いた。

「だったらお前はなぜ言わぬ。あの時この木を荒したのはお前だと今も思っている人間がいるのだぞ。お前はやった人間を探したはずだ。なのになぜ言わないま まにした」

 少年の顔にあった余裕ぶった笑みが消え、それと入れ替わるように束の間どこか幼い素直な笑みが通り過ぎた。

「俺は自分がやったんじゃないってことを知ってる。あんたにもみんなにもそう言った。信じる奴は信じたし、鼻で笑った奴もいた。でも俺が知ってるってこと に変わりはねぇ。・・・遅れるから、もう行くぜ」

 だからいい、と呟いて背を向けた少年が歩き出す姿を見送る老婆の顔には決して少年の前では見せない労わりがあった。



 道場からの帰り道、ゾロは早足になっていた。同じ門下生たちのその日の誘いは普段にはないくらい強く、その理由も彼には避けられないものだったから断る のにひどく難儀した。すれ違った町人たちの中にも声を掛けてくれる者が多く、邪険に振り払うわけにも行かず気持ちがひどく消耗した。昨年までは笑って受け 取ることが出来た言葉、来年ならばきっと受けていた誘い。それでも今年はただ一人でいたかった。いつも通り米を炊いて食事しながら一年前に友人がくれた本 を読み返そう。そう決めていた。
 枝の銀朱色の実がはっきりと見えてきた頃、ふとゾロは足を止めた。感じたことのない気配が伝わってきて目が自然と背が高い草叢に向いた。足にチクチクと 纏わりついてくる緑を掻き分けながら進むと微かに異臭を感じた。空気が震えているような感じを覚えながら一歩奥に進むと、草の中に小さい黒い姿が転がって いた。ふわふわとした毛並みの一箇所がぺたりと倒れ血糊がのっかっている。目を閉じたその姿は眠っているようにもとうに命を失っているようにも見えたが、 ゾロの肌はそこにまだある命を感じていた。

「誰かに負けたのか」

 子猫の頭と腹の下に静かに手を差し込むと体温と脈動が伝わってきた。周囲を飛び交う銀色の蝿を追い払ってそっと持ち上げると、小さな身体はゾロの両手の 中に収まった。まだ残っている命、続いていく生命。ゾロはゆっくりと今来た方へ足を向けた。



「助かるか」

 老婆は彼女の手をじっと見守るゾロの視線に首を横に振った。

「わからんよ。傷は大きくも小さくもないが少し時間が経ち過ぎている感じがする。幼い身体は体力も少ないしな」

 洗い、消毒し、薬を塗り。できることをすべてやり終えた老婆は小さく息を吐いた。その様子を眺めていたゾロは前に出て子猫を両手で掬い上げた。

「どうする気だい、ゾロ?ここに置いていった方がその子のためだと思わないか。今夜はお前も泊めてやっても構わないのだぞ」

「俺は今夜は家にいると決めてる。あんたのところで死人を出す気もない」

 流行り病が猛威をふるった年に昔の罹患体験から免疫を持っていたこの老婆は彼女よりも若い家族を何人か失った。次の年から収穫して食する手が減った柿の 実は枝に多くの実を残し雪をかぶるまで放って置かれる数も増えた。少年はそのことを覚えているのかもしれなかった。
 小さな身体にできるだけ負担を与えないように気持ちを集中して摺り足で歩いていく少年を老婆はその姿が見えなくなるまで見送った。

「お前こそ死人を想う夜だろうに・・・」

 見るたびに広くなる気がするのにまだ幼さが残る背中は黄昏の光の中に消えていった。



 時々震える小さな身体はそのまま熱を失って冷え固まってしまうように思えた。何度か口許を水に浸した布で拭ってやりながらゾロは子猫のそばにいた。それ 以上できることが、してやれることが浮かばない。命の領域で自身の無力さを見せられるのはこれが初めてではなかったが、これほどに自分の手の中に命を感じ たことはなかった。

「寒いか」

 ゾロは猫を寝かせているすぐ横に布団を敷いた。それからそっとまた小さな身体を持ち上げると自分が先に布団に横たわり腹の上に猫をのせた。猫の身体が触 れている部分にわずかに熱を感じた。彼の身体から熱が移ればいいと願った。
 そのうち猫の体温が上がったような気がした。口許を濡らしてやっても反応はないが、じわじわと体温は上がり続け、熱いくらいになった。これは傷と戦いは じめた証拠に違いない。これまでに数多くの傷を身体に受けて治してきたゾロには確信があった。まだ生きることを諦めていない、生きることができる可能性は 消えていない。

「お前が勝ったら俺の親友の名前をやる・・・だから、生きろ」

 それが彼自身のわがままであるように感じながらもゾロは呟いた。それが彼に言える精一杯だった。



 朝、体内時計に脅されて飛び起きた少年はすぐに腹の上の温かさを確かめた。小さな鼻と少し開かれた口から聞こえる呼吸音が夜よりもずっと大きくなってい た。口にあてられた布の水を追うように舌がのぞいた。
 つながった。それがわかったゾロは猫の身体を腹から下ろして横に寝せた。見ると猫がのっていた腹の上には濃い染みが残っていた。しなやかな身体に巻いた 包帯から滲み出してゾロの着物に移った血の色。それは大して大きな面積ではなかったがこの小さな生き物にすればどれほどの温かみを失ったことになるのだろ う。でもゾロの腹も猫の包帯も見える色はすでに乾いていた。

 両腕をあげて大きく伸びをしたゾロは盛大に騒ぎはじめた腹の虫を静めようと鍋に米を入れて外に出た。彼の小屋には水道はなく、外の井戸が水源だった。扉 を開けて朝の光に慣れたゾロの目に戸口の外に置かれたものたちが映った。米その他の穀物が入った袋、料理の皿、菓子箱、酒瓶(恐らく中味は果汁の類に入れ 替えられているだろう)、野菜果物、滑らかに磨き上げられた木刀、衣類、本に靴、そして包帯と見覚えがある膏薬の壷。
 これだけの人数が近づいた気配に全然気がつかなかったことを痛恨とも侮辱とも思うべきだったかもしれない。けれどその時のゾロの顔には年齢相応の笑顔が あった。彼が生まれたことを他人がなぜ祝ってくれるのかわからない。でも彼は自分があの子猫のように守り育てられた記憶を忘れてはいない。そこに何かつな がりがあるのなら、誕生日も満更悪いものじゃない。そう思えた。



「約束だ。お前は男だから、名前は『ジン』だ」

 初めて猫が薄く目を開けた時、ゾロがこう話かけると子猫の瞳は光り返したようだった。それから包帯がとれて猫が自分の力で動くことができるようになるま でゾロは毎日できるだけそばにいた。学校も道場も事情を知ってからは少年を自由にさせてくれた。ゾロを止めても無駄だということを大人たちはよく知ってい るようだ。家にいてもやるべきことを人一倍ちゃんとやるということも。
 子猫が走れるようになって俊敏さを取り戻してからはゾロは普通の生活に戻り、猫に食事をやることもやめた。彼は猫を『飼う』つもりはなかった。求めてい たのは対等な中で築くことが出来る気持ちだった。猫は猫で自分で生きる術を見つけなければだめだと思った。狩りをするもいい。他の家に通って食べ物をもら う習慣ができてもいい。そんなゾロが嫌になって離れていくなら仕方がない。時に甘やかしたい気持ちを抑えて向きあうゾロから猫は・・・離れなかった。気が 向くままに外へ出て狩りをする。夜になると戻ってきてゾロの傍らで眠る。時には羽虫や小鳥を咥えてきてゾロの前に置く。そんな時の猫の顔には誇らしげで温 かい色があった。
 雪が降る季節になると猫は当たり前のような顔で布団の中のゾロの腹の上で身体を丸めた。獲物が減るはずの時期に入ったのでゾロも時々猫に食事を分けてや ることもあった。満足して顔を洗う猫の動作を可愛いと思い飽きずに眺めていることもあった。そうして時間が過ぎるうちにいつの間にか季節が移っていた。

「ちょっと外を歩いてこねぇか、ジン」

 声を掛けると出会った頃より大きくなった黒猫は一声鳴いてゾロの後をついてきた。

「この坂登ったらちょっといい場所があるんだ・・・ってお前は多分知ってるよな。縄張りの中だから」

 振り返るとゾロの声を黙って聞いている猫が彼を見上げていた。月明かりの中その身体の周りを薄色が舞った。その動きに反応して臨戦体勢になった猫は、落 ちてくるそれが生き物ではないことに気がついたのか不思議そうな顔で前足を伸ばした。

「ほら、来いよ。もうちょっとだ」

 ゾロが笑うと猫はまっすぐに駆け寄ってゾロの肩に登った。こすりつけられる毛の柔らかさと髭のこそばゆさに首をすくめたゾロは猫をのせたまま一気に坂道 を走り登った。
 満月の下に広がる大木の枝とそれを覆う花の雲。
 ゾロは自分の肩にいる猫を摘み上げて腕の中に抱いた。猫は頭を数回こすりつけてからゾロの顔を見上げ前足を胸に掛けた。

「なあ、ジン。俺、朝になったら町を出るんだ。もっと・・・強くなりに行く」

 猫の頭の上に落ちた花びらを吹き飛ばすと猫は必死に顔を拭った。その動作のひとつひとつを記憶に刻むように見つめた後で、ゾロは猫のやわらかさに顔を埋 めた。猫はゾロの頬を舐めた。

「俺は多分もう戻らねぇ。だから・・・お前も元気でいろ」

 閉じた瞼の奥に浮かんでは消えるこれまでの時。強く在りたいと願う二つの意志。舞い落ちる花びらの中でゾロはまたあの声を聞いた。


 強くおなり

 強く真っ直ぐに生きるんだ

 誰にも負けないほど強く逞しく


 これからこの声を聞くたびに心の中に小さな黒い姿が浮かぶだろう。温かさを抱きしめながらゾロは流れていく時を感じていた。

2005.11.1

少年ゾロです
「追思」の1年後という設定です
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