大きな月に照らされて、草原の中を通る小道はくっきりと1本の線に見えていた。風になびく草の波が銀色に光を返し、どこからともなく聞こえる波の音が良く 似合っていた。
「元気だねェ」
かなり前を走る双子とルフィ、チョッパー、ウソップの後姿を眺めながら煙を吐いたサンジは、自分がナミとロビンの間で言わば両手に花状態になっているこ とに気がついた。
「しあわせだ〜」
呟く声にはいつもの過剰に込められたパワーはなくただ静かな言い方だったから、ナミとロビンは目線を交わすと両側からサンジの腕にそれぞれの腕を絡め た。
驚いたサンジの口から煙草が落ちた。
「大丈夫よ、コックさん。今度は、きっとね」
「そうよ〜、サンジ君。ああ見えて、ルフィだってウソップだってきっと気持ちは一緒よ」
そうかもしれない、とサンジは思う。
いや、そうに違いない、と思い直す。
気を取り直して両側の美しい花たちに賛美の言葉を言おうと息を整えたとき、サンジの両肩から生えた2本の手が彼の口をふさいだ。
「無理はしないのよ、優しいコックさん」
「たまには無口ないい男のままでいてくれていいわよ」
(・・・レディの言うことには逆らっちゃいけねェな)
サンジは黙って微笑んだ。
互いの身体に腕を回してぬくもりを感じあう。
それだけで満たされて眩暈すら感じ、
リンは震えだそうとする身体を気持ちで抑えていた。ゾロの胸に頬を当てて目を閉じる。意識してゆっくりと息を吐くと大きな手が静かに髪 を撫ぜた。
「
リン・・・」
ゾロの声は低く、語尾はかすれた。
それでも、彼の身体に触れる
リンの身体から細かな震えが伝わってくると、ゾロの唇に笑みが浮かんだ。
「・・・変わんねぇな」
甘えるのも求めるのも下手な
リンのことがいつもたまらなく愛しかったことを思い出す。逸る気持ちを抑えて
リンの心と身体をほどいていく過程。馴染んだ肌は深まりはするが決して情味が薄まることはない。
ゾロは
リンの頬に手を当てて色白の顔を上向けた。
リンは閉じていた目を開けた。瞳の色が幽玄な緑を湛えてゾロの情念を吸い込むようで。
ゾロは両手で
リンの顔を包み込むと首を傾けて唇を重ねた。
「ほらよ、お前ら、毛布にココアだ」
サンジが登っていくと歓迎の拍手が沸いた。
見張り台では月の観望会がにぎやかに行われていた。
大はしゃぎの双子に負けずにチョッパーも嬉しくてたまらなかったので、途切れることのない歓声が他の人間たちを呼んだ。結局クルーたちは全員甲板に出て 空を仰いだ。
「こうやって見んのがいっちばん楽だぞ、ナミ〜」
最初に寝転がったのはルフィだった。
それに倣うようにみんなココアのカップを横に置いて身体を伸ばした。
夜空に大きく照り映える月だった。
「なんだか海の真ん中で見る月とは違った感じがするよな〜」
ウソップが今見ているのは、心の中にある故郷の月なのかもしれない。サンジは思った。
「あれ?どしたんだ、お前?」
身を起こしたルフィの前に小さな裸足が着地した。月の光を浴びて柔らかな髪が銀色に光った。
「ルフィ・・・・」
ダンは口ごもった。大きく見開かれた瞳がいっぱいになっている心の存在を告げている。
「・・・ルフィ、お願い・・・・、
リンを一緒に連れて行って」
言葉を搾り出したダンの頬を一筋の涙が流れ落ちた。
目を丸くしたルフィは上を見た。その視線を追ったクルーたちは見張り台から甲板を見下ろしているロンとチョッパーの心配そうな顔を見つけた。
「1度温泉に行ってからね、どうして他の大人の身体には傷がないのか、2人ともずっと真剣に不思議がってたの」
並んで横たわったゾロと
リンは笑みを交わした。
向かい合うと重なり合う斜めの刀傷。
ゾロはひじを突いて上体を軽く起こすと、頭から肩へ流れる
リンの髪を静かに手でなぞった。
「背中には傷はねぇのをちゃんと見せとかねぇとなぁ」
「わたしはだめだね、ひとつ、あるから」
リンが微笑むとゾロは片手で
リンの身体を引き寄せ、背中の一筋の傷を指で辿った。その傷があることをゾロは少し前に知ったばかりだった。
記憶の中では滑らかな手触りだったはずの肌に見つけた違和感。
腕の中に子どもを抱いて守った時に受けた傷。
高まりあう息の中でゾロは何度もそっとその直線を愛撫した。
「お前の傷は恥なんかじゃねぇだろ」
ほっそりした身体に回す腕に力が入る。
ゾロがいないところで傷ついた
リンの身体。
子どもたちが言っていた
リンの涙。
そしてそんな
リンを見た子どもたちが流したであろう涙と心の揺れ。
離れているから知らないのは当然で、たとえ一緒にいても気がついてやれるとは限らない。わかっているが、それでもゾロの心には自分が知らなかったという ことが思ったよりもこたえているようだった。自分の中に見つけた弱さだという気がして一瞬ただ振り捨てようと思ったが、それが
リンの事なのだから、そして自分と
リンの間に生まれた子どものことなのだから、動揺して当り前だと思い直した。己の心の揺れを知りその原因を知った上ですべてをただ受け 入れる。そうすることで次に進めると思った。
「
リン」
ゾロは
リンの額に口づけをして瞳を覗いた。
ずっと言い逃していたことが、今、はっきりと頭の中で言葉になっていた。
「言ってくれ。お前の夢は・・・願いは何だ」
リンの身体に子どもが宿ったとわかったときから。
ゾロも
リンも、ルフィと他のクルーたちも口にしなかったひとつの事。多分ルフィたちはそれをすべてゾロと
リンの気持ちに任せ、ゾロと
リンは言葉で確かめることなく・・・
リンは双子を産んだ後そのまま船には戻らなかった。
「いってらっしゃい」と
リンが言い、「おう」と答えたゾロがいた。それを何度も繰り返した。
リンはゾロの瞳を見つめながらその唇に指を触れた。
ゾロの唇と
リンの指先、その両方が震えていた。
願うこと。
守ること。
夢の妨げにならないこと。
体内に宿った命は大切で愛しいと同時にあまりに未知の存在で時に恐怖心さえ湧き上がり、先のことなどひとつも考えられなかった。
1度にふたつのやわらかであたたかな命が誕生した後もそれは同じで、だから誰も先のことを言わなかったし言えなかった。
心を殺したわけではない。我慢したわけでもない。やってみなくてはどうなるものかはわからなくて、ただ、みんな、一生懸命だった。
もう願っていいのだと
リンの心に思わせたのは、心も身体も・・・
リンの存在の全部が求めてやまないゾロの言葉であり体温で。言葉にする勇気をくれたのは、日々新しく心に刻まれる幼い2人の笑顔と言葉 だった。
「わたしの夢は・・・ゾロと一緒に・・・・」
微笑んだ
リンの瞳から涙が溢れた。
「ゾロ〜〜!
リン〜〜!」
月夜の下の草原で、ゾロと
リン、ルフィとサンジは互いの距離を詰めた。
「んだよ、2人で月夜の散歩か?」
サンジは煙草を咥えてマッチを出したが、思い直したように火をつけるのを止めた。サンジの目はゾロと
リンの顔を順番に眺めた。
「・・・
リンちゃんを泣かしやがって・・・」
小さく呟いたサンジの口の端がゆっくりと上がった。
「るせぇ」
小声で返したゾロはニヤリと笑った。
「なあ、
リン、俺とサンジは荷物を運ぶのを手伝いに来たんだ。3人分だからいっぱいあるだろ?」
ルフィは当り前のような顔で言った。
リンは一瞬瞳を大きく見開いて、それから首を傾げて微笑んだ。
「ロンとダンはまだ起きてる?」
「ああ。何だか俺たちがすぐに
リンちゃんたちを連れて帰らねェと寝そうになくてさ。・・・ごめんね、気が利いてるようでもやっぱガキだよね、あいつら」
サンジがすまなそうに言い、それからニッコリ笑った。
「ほんとはさ、あいつら、
リンちゃんだけ連れてってくれって言ったんだ」
「え・・・・」
ゾロと
リンは顔を見合わせた。
「バカだよな〜、俺たちがそんなことするわけねぇのに。だから、あいつらはそのまま置いてきた。
リンと一緒にあいつらの荷物も持ってってやったら、きっとびっくりするぞ〜」
「「ルフィ」」
ゾロと
リンの声が重なるとルフィは笑った。
「俺はガキの時シャンクスに連れてってもらえなかったけど、あいつらにはゾロと
リンがついてるからな。だいじょ〜ぶだ!なんかあったらそん時に考えるさ。だからよ、また一緒に海に出て冒険しよう、
リン!」
「そうだよ〜。誰も言わなかったら、俺、今度こそ絶対、我慢できなかったかもしれねェ。とにかく試してみようぜ。違う答えが出たら、そん時はまた次を試せ ばいいさ」
ルフィとサンジの言葉を聞いた
リンの頭の中から言おうと決めたものがすべてどこかへ飛んでいった。
こんなこともあるのだ。
互いを思う気持ちがぴったり重なって一度に溢れて動き出すことが。
みんなが待っていたのは
リンと子どもたちの気持ちだったのだと改めて気がつき、言葉にする切っ掛けをくれたゾロの手を握った。
「うん、ルフィ、サンジ君」
リンが頷くとルフィはイシシ・・・と笑った。
「これってよ、知らない奴から見たらどう見ても夜逃げって奴だよな」
サンジが呟いた。
「そ〜か〜?船を出すのは明日だぞ」
荷物を背負ったルフィが地面を蹴って弾んで行く。
「だってよ、船は裏につけてあるだろ?これって
リンちゃんと2人だけだったら、まさに愛の逃避行だな」
ルフィと会話を続けるために、自然とサンジの足も小走りになっている。
「はしゃぎやがって・・・」
どんどん離れていく2人の後姿を眺めるゾロの表情は穏やかだった。片手で大きな荷物を肩に担ぎ、もう一方の手の中に
リンの手をおさめて。
やがて見えてきた船のシルエット。その上でたくさんの灯りが揺らめいていた。風のせいだけではない。いくつかの灯りは、それを持つ手が大きく左右に動い ていた。
最初に2つの灯りが飛び出した。それから4つが後に続いた。
「帰ってきたな」
胸に一度に想いが迫ってきた
リンは、ただ、ゾロの手を強く握った。
それから灯りを持つ手を大きく振った。