町の中心部を離れた郊外。
車の窓の外を流れる光景が見慣れた感じから変化していく。こんな場所があったのか、と
アキは知らないうちに熱心に眺めはじめていた。
港とはかなり離れた場所だった。海浜公園も遠い。街の人が「海に行く」時に思い描く場所とは縁がない。
なのにそこには海があった。
一度来たことがあるか、或いはよほど注意力がある人間だけが気がつくだろうと思える小道。一般の道路からひそかに切れ込むその道を曲がるとくだりの傾斜 が続く。道の両側は固められた灰色の壁。周囲も行き先も見えない道は好奇心か恐怖心をそそる。その場所へ行くためにだけ作られた道。
カードをじっくり確認してからこの道に車を入れたゾロは先に進みながら考えていた。幅の狭い1本道。予想外の状況になった場合は行動のスピードが決め手 になりそうだ。
バックミラーで後ろを見ると、
アキは身を乗り出して窓の外を眺めている。感覚的にまだ慣れない顔に浮かぶ夢中になっているその表情は不思議と見覚えがある感じがし た。
やがて短いトンネルに入り、ぬけた。
そして目の前には海があった。
小さな湾のように見えるその青い海は恐らく人工的に作られたものだろう。理性ではそう思うが海や入り江の様子があまりに自然で感情的には錯覚してしま う。寄せては返す波頭の白。黄昏時の赤みを帯びてきた陽光に染まりはじめた水面。
「あれだな」
入り江にはひとつだけ建物があった。曲線を描いた灰色の建物は砂を型にいっぱいに詰めて地面の上でそっと型を外してできたような・・・・・
アキはそんな印象を受けた。海側の壁面には大きめの窓が並び、反対側にはほんのいくつかの小窓しかない。海を見せることが窓のメインの 役割なのだと考えられていることがすぐにわかる。
ゾロは駐車場に車を入れて静かに停めた。他に数台の車がすでに停まっている。
「いいか」
「ええ」
ゾロがボディガードらしく先に降りて無駄のない動作でドアを開け、
アキは柔らかな微笑を浮かべてつま先から車を降りた。それからは半歩、ゾロがリードする。やがて2人は建物の正面に立った。
レストラン・バラティエ。
目立たない字体で小さく書かれた店の名前を
アキは記憶に刻んだ。
ゾロが無言でドアを開けて待ち、
アキは微笑を浮かべたまま数歩進んだ。そして・・・
流れるような身のこなしで現れた男を前に、一瞬全身の呼吸が止まった。
「シャムニー様ですね。バラティエへようこそ。フジタ様は先ほどテーブルにご案内したところです。本日は都合によりフロアマネージャーの代わりにわたしが ご案内いたします」
柔らかな声。優雅な一礼の動作に合わせて流れる金色の髪。そして、
アキのすぐ後ろに立つゾロに向けられた青い瞳とごく僅かに上下した個性的な眉。
サンジ。
「よろしくお願いしますわ」
すぐに「メタ」に戻った
アキは礼儀正しい、そして少し上から下を見るような視線をサンジに向けた。
(なるほど、別人だ)
ゾロは心の中で頷いた。サンジと交わした一瞥には感情を込めず、そのまま仕事に気持ちを集中させる。入り口手前側のいくつかのテーブルに客がいる。あと は奥。サンジが案内しようとしている一番大きなテーブルには2人の男の姿が見えていた。1人は恐らくゾロと同じ役割、そして今立ち上がったのがフジタ・キ リュウ。
アキが・・・・というよりはシホ・シャムニーが会うことになっている相手だ。
「やっとお会いできましたね、レディ・シホ。お互い無粋な者を連れて歩く身ですが、それがこんなに残念に思えたことは初めてです」
差し出された手に自分の手を預けてキリュウの唇を受けながら、
アキは男が自分の胸の赤い石に走らせた視線に気がついた。確認されている。石を、それとも人間を?
「何度もお誘いをお断りして申し訳なく思っています。ここのところ体調がすぐれませんで、家にこもっておりました。メールでお顔を拝見しておりますので初 対面という気がしませんわ」
少し長めの髪を首筋の辺りで束ね、日焼けした肌に白い歯が光る。黒い瞳は
アキの目を覗き込んでやわらかく光る。爪の1枚1枚まで手入れが行き届いていることがわかる。
「先ず、座りましょう。ここの料理は本当に美味しいんです。まだ数回しか来たことがないですが、あなたをお誘いできるならここしかないと決めていたんで す」
タイミングよくサンジが引いてくれた椅子に腰掛け、
アキは観察を一旦やめた。これからいろいろわかってくるだろう。それに収集欲をそそる相手ではなかった。
「お勧めで任せたいんだが、選ばないとだめなものはあるか?」
キリュウの問いかけに答えてサンジが料理の説明をはじめた。流れるような言葉の中には料理の素材の特徴、季節感、調理方法、酒との相性など沢山の情報が 織り込まれている。それを生き生きと語るサンジの横顔を
アキは黙って眺めた。楽しそうだ、と思った。
ゾロはキリュウをちょっと見てから後ろのボディガードを観察していた。服の上からはゾロを上回って見える体格、無表情な顔。
(つかめない男だな)
生気のなさが偽装のように感じられた。視線を落としたままなのも違和感があった。ゾロの事を舐めてかかっているならそれでいい。やっかいなのはすでに一 つの目的を決めてあるから無駄な観察をしないという場合だ。
「供の2人にも食事をしてもらってよろしい?」
アキの声にゾロは視線を動かした。こういう高いところの連中にとっては供の食事はどうでもいいものではないだろうか。効率よくガードす るためには立たせておくのが正解なはずだ。
しかし、キリュウは満足そうな笑みを浮かべた。
「そうおっしゃるかと思っていました。噂どおり、思いやりのある方だ」
「メタ」はなりきる相手の性格もここまで再現するものなのだ。ゾロは自分には違和感を感じさせた言葉が「正解」だったことを知った。
「では、隣りのテーブルの準備をいたしましょう」
サンジの合図でウェイターが素早く動きはじめた。
自己紹介の時間帯が過ぎた。軽い食前酒と前菜と一緒に。
アキの「メタ」は完璧らしい。ゾロは
アキとキリュウの会話、そしてキリュウの表情からそう判断した。ゾロから見ても「
アキ」はどこにもいない。サンジも当然気がついていないようだ。
アキを見る目は時に一瞬、ひどく甘い。ゾロはそんなサンジを見て苦笑いした。
(・・・阿呆・・・)
アキとキリュウはグラスを数回空にした。
ゾロと向かいに座る男は水にしか手を伸ばしていない。
その他は4人とも同じ料理を運ばれた。正確に言うと
アキとゾロはお勧めの魚料理のコース、キリュウとボディガードは肉料理のコース。
キリュウはかなり積極的だ。
アキは艶やかな微笑の裏で戸惑いを感じていた。
アキは恋愛経験が豊富ではない。自分がメタしている女性のような立場もよく知らない。
自分がグラスに手を伸ばすとき、キリュウの手がそれを狙うように伸ばされるのは偶然か?微笑みながらそれをかわすとキリュウはまるでゲームの次の手を待 つような顔で微笑み返してくる。
(2時間、かぁ)
思ったよりも疲れる仕事かもしれないと
アキは心の中でため息をついた。
それに、時折胸の宝石の上に落ちる目線が気になった。
アキの感覚では趣味が悪いくらい大きな石だから悪目立ちするのは仕方がない。けれど、キリュウの視線はいつも一瞬で別の方向にそらさ れ、かえっていい感じを受けない。
グラスに手を掛けるとまた、キリュウの手が伸びてきた。
「突然で申し訳ないと思いますが、婚約の発表は特に必要ないと思いませんか」
(・・・・は?)
それまでの会話の流れを断ち切るその言葉に
アキは眉をひそめた。問題はないはずだ。シホ本人でもそうしただろう。あくまでも婚約者候補であるこのキリュウとは初対面であり、まし て婚約する意思は皆無だという情報を
アキは得ている。
「どういう意味でおっしゃってますの?一般的なお話ですわね?」
訊き返すとキリュウは笑った。どこかそれまでとは違う顔で。
「わたしたちのことですよ、勿論。出会った2人が互いに惹かれあって衝動的に結ばれる・・・珍しくもないことです。婚約を飛び越して結婚してしまうことも ね」
「理解できませんわ・・・・」
思わずグラスを求めた
アキの手にキリュウは思いがけない素早さで形の良い手を重ねた。
「ほら。さっきからやろうと思えばできたんですよ。いろいろとね」
アキは黒い瞳を睨んだ。
「おやめください。失礼ですわ」
キリュウはため息混じりに両手を上げてヒラヒラさせた。
「なかなか手ごわい方だ」
アキの手が改めてグラスを握ったその時。
白くて長い指がグラスの口を静かに押さえた。
がっしりとした手が
アキの右腕をつかんだ。
「飲んじゃだめですよ」
「飲むな」
声を合わせる2人を
アキは見上げた。
サンジとゾロ。サンジは
アキに微笑みかけ、ゾロは厳しい目をグラス、そしてキリュウに向けた。
「何の真似だ」
ゾロの低い声に
アキは身体を震わせた。
キリュウは唇をゆがめた。片手で合図すると傍らにボディガードが現れて初めて視線を上げる。そこには服従の色と冷たさがあった。
「さっき言ったでしょう。感動的なストーリーですよ。出会って惹かれて結婚。2人の感動の出会いの様子は偶然おなじレストランに居合わせた他の客たちが口 を揃えて証言してくれる。花嫁は何も知らずに眠っているうちに最高のしあわせをつかむ・・・いい話だと思いませんか?」
(薬を入れられた・・・?)
アキはようやく気がついた。さっきからのキリュウの手の動き。入れられたことに全く気がついていなかった。
「そういうことか」
ゾロは離れたテーブルから複数の人影が立ち上がるのを確認した。
アキの手首を握る手に力を入れるとすぐに
アキは立った。時計を見る。あと15分で約束の2時間だ。
「・・・・そんなアホみたいな計画でレディを自分のものにしようってのか、てめェは。おまけにそのアホ計画にうちの店を使いやがって」
サンジが煙草を咥えた。
「そんな怖い顔をしてないでオーナー・シェフを呼んで来い。報酬と迷惑料、目を回すくらいはずんでやる」
サンジは煙草に火をつけた。その唇の端がゆっくりと上がる。
「うちのオーナーが目を回すだと?そいつは俺もあいつが死んじまう前にぜひ見ておきてェ顔だけどな」
「あと10分」
アキが囁くとゾロはうなずいてジャケットの内側に手を入れた。
「離れるな」
ゾロの手の銃を見た
アキは思い出してバッグの中から自分の銃を取り出した。表面を美しく磨き上げられた曲線的な形は手の中にすっぽりとおさまる。ゾロと視 線が会った。
「銃などあなたには似合わない。大切にしますよ、これからずっと。人形のようにね」
キリュウは座ったまま動く様子を見せない。
「まだ言うか!」
サンジの身体がフッと見えなくなった。と、思うと黒い靴を履いた足が下から伸びてキリュウのボディガードの顎を蹴り上げた。大きな身体が宙に飛び、音を たてて誰もいないテーブルの上に落下した。
(サンジ君・・・・)
(早いな、やっぱり)
アキとゾロの前でサンジはゆっくり立ち上がってネクタイを直した。
「ほぅ」
キリュウはなおも座ったままだった。
「後悔するぞ。早くオーナーを呼んで来い」
「いや・・・俺が呼びに行かなくても・・・」
サンジは煙を吐いた。
「またか、サンジ。店のテーブルを壊しやがって」
聞き覚えのある渋みのある声に
アキはその主を探した。
その人は店の中央に立っていた。マンションのオーナーの時の姿からは想像できない真っ白なコックの服装。ヒゲと鋭い目つきは同じだ。
オーナーがゆっくりを歩いてくると2種類の音がした。
(義足・・・・・)
初めて見る1本の棒のような義足。今の技術ならいくらでも本物の足に似せた義足を作ることが出来るのに。そうしないのにはどんな想いがあるのだろう。
アキはオーナーの姿を見つめた。
「店の客はもっとよく選べよ、クソジジイ。こいつらみんなでアホな計画でこちらのレディを落としいれようって連中だぞ」
「なら、副料理長のお前にも責任があるな」
「ああ、わかってるよ。責任はとるさ、これから」
2人が会話を交わす間にジリジリと客たちが輪になって距離を詰めてくる。
アキは時計を見た。
「2時間たった、ゾロ!」
「よし、行くぞ」
ゾロはサンジの横に立った。
「俺はこれからドアの前の邪魔な奴らをどかして外に出る。何か店の物を壊しちまったらそこの男から金をもらってくれ」
「わかった、援護してやる。このアホはジジイにまかすさ。そのレディに怪我させるなよ」
「ああ」
歩いてきたオーナーと入れ替わるように3人はドアに向かって進んだ。すれ違いざまにオーナーの厳しい視線が
アキとゾロの上に落ちた。
アキは願わずにはいられなかった。このままドアまで黙って行かせてもらえるように。しかし、近づくそれぞれの手には自分と同じ物騒な凶 器があった。
「ためらわずに撃てよ、走るぞ!」
ゾロの右手が
アキの手をつかんだ。
「でも、右手・・・」
アキの心配は聞こえなかったようにゾロは勢いよく床を蹴った。連射の音が響き、人の輪が崩れた。
(足が・・・・)
走りにくいかかとの高さに、
アキは足首をひねった。気がついたゾロが足を止め、その横をサンジが駆け抜ける。複数の銃声を聞きながら
アキは急いで靴を脱いで立ち上がった。サンジに弾が当たった様子がないことに胸をなでおろす。
と、身体がふわりと持ち上げられた。ゾロの右腕がしっかりと
アキの腰を抱えている。
「右、任せたぞ」
一気にドアに向かう2人に対する男たち、そして女たち。その中にサンジが飛び込み、
アキはそれぞれの人影の真ん中を狙って引き金を引いた。軽い発射音が響いた。
「てめェら、もうあきらめろ!」
サンジの声を背に2人は外に走り出た。
と、目の前にタイヤを鳴らして車が停まった。
「乗れ、早く」
開いた窓の奥にエースの笑顔があった。ゾロは後ろのドアを開けて
アキの身体を放り込み、自分も身を滑り込ませた。
「甘いな、あの連中。ふつう、外にも誰か残しておくもんだ」
陽気な声と同時に車を発進させて、エースは笑った。
「でも、エース、どうして・・・・・」
今になって身体が震えはじめた
アキは一生懸命声を抑えた。
「何かありそうな感じだったしなぁ。ちゃんと2時間働いてくれたかどうか誰かが確認しといた方がいいだろ?」
明るい声につられて笑いながら、
アキは自分の頬が濡れているのに気がついた。
「無理すんな。こういうヤバ目な感じ、あんた、初めてだろ?まあ、メタってこういう事もあるって覚えときな。これからはその分稼ぎも増えるさ。誰も追って 来てないとは思うが、念のため今日はひとりになるなよ」
涙と笑いを一度に止めようと
アキは喉に力を入れた。スイッチを切れば声は出さないですむとわかっていたが、手が震えていうことをきかない。
車が一本道から広い一般道に出た頃。
アキは大きな手が頬に触れるのを感じた。恥ずかしくて顔を上げられなかった。涙を拭ってくれるゾロの手はあたたかかった。