「んじゃ、ゆっくり休んどいてくれ」
マンションの前で車を停めたエースは一瞬真顔になった。
「出来れば今夜は自分の部屋に帰るな。お隣りさんのこいつのところにやっかいになってくれ。後始末が終わったら連絡する。・・・・頼むな、あんた」
ゾロは頷いた。
「ああ、わかった」
「・・・ありがとう、エース」
泣き顔が恥ずかしくて小声になった
アキを見たエースの顔にいたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「そんだけグシャグシャになったらメタを解く手間、だいぶ省けたんじゃないか?」
2人を降ろした車は勢いよく発進して行った。
バッグを持ってくれようとするゾロの手をくぐるようにして
アキの手が急いで柄を握った。中にはメタ関係の道具がいろいろ入っている。それに何より、これ以上甘えたくなかった。涙を見せてしまっ ただけで十分だと思った。ゾロも自分も仕事を請けただけのことだ。
アキも本当なら平気な顔をしているべきだったのに。
そんな
アキの様子を見るゾロは唇に浮かびそうになる笑みを噛み殺して黙って階段を昇った。わずかに足をひきずる
アキに手を貸すのもやめておいた。
「そのメタ、すぐに解けるのか?」
「・・・お風呂で洗い流したりいろいろ部品を外すのが手っ取り早いんですが・・・・」
「じゃあ、最初に風呂だな」
サンジがいたら多分騒ぐだろう。ゾロは再び笑みを抑えた。
ゾロは鍵を取り出してドアを開けた。
アキはためらうように数歩離れた場所に立っている。
(迷惑をかけたくないってとこか)
「早く入れ。その姿を見られたらまずい」
思ったとおり、
アキはその言葉に素直に従った。
意外と思うべきかそれとも納得するべきか。
アキは部屋の中をゆっくり見回した。その背後でゾロはドアを閉めてロックがかかったのを確かめた。
基本的にはサンジの部屋と同じつくり、間取りの部屋だった。けれども印象が全く違う。サンジの部屋が陽光が似合う海辺とすれば、この部屋は月明かりが似 合う洞窟だ。壁のクロスは暗い茶系で表面がザラザラしている。ほとんど床と高さの差がないように見える黒いソファとそれよりは若干高さがあるテーブル。無 造作に何種類かの酒が置いてあるミニカウンター。
(あれは・・・・)
アキは奥の壁に平行に並んでいる3本の・・・・部屋の灯りがやわらかな間接照明だけなのではっきりと見えなかったが、壁にかけられてい るのは刀のように見えた。
ゾロは真っ直ぐ奥に姿を消してすぐに戻ってきた。
「すぐに湯が入る。お前の風呂も同じ大きさだろ」
いや・・・と言いかけて
アキはやめた。居間の改造と現状だけでゾロはかなりあきれていた。浴室のことはまだ黙っていた方がいいかもしれないと思った。
ゾロは持ってきたタオルを
アキに渡し、そっと背中を押しやった。
「軽くなって来い」
その言い方になぜかまた涙が滲みそうになり、
アキはあわてて浴室に行った。
浴室も基本のカラーは黒だった。照明も柔らかで
アキのところと比べると夕暮れ時のようだった。
身につけていた衣類を丁寧に畳むと
アキは鏡に向かって「取り外し」をはじめた。長い髪のウィッグ、カラーコンタクト、鼻筋、頬、唇、うなじ、胸・・・あっという間に鏡の 前に山ができる。それをどうにかこうにかバッグに押し込むと、次にバッグから取り出したボトルを持って浴室に入り、50ccほどの液体をボトルから湯に注 いだ。液がおちたところから湯はゆっくりと白く濁った。同時に懐かしい感じの花の香りが広がる。
ざっと身体を洗ったあとに
アキはゆっくりと湯の中に身を沈めた。身体全体、特に胸から上と両腕、顔を白い湯でマッサージする。すると湯の中に様々な色が溶け出し た。こうやって初めて
アキの身体も心もメタから開放される。頭の天辺まで湯に潜ったあと髪の毛も洗い、
アキは手足を伸ばした。
(終わったな・・・)
ゾロが一緒だったことは幸運だったのだ。
アキは思った。ここは自分の部屋とは全然違うが、隣りだと思うとなぜか落ち着く。全く知らない場所で一晩明かすことを思うと今はぞっと した。
(サンジ君もいたな)
アキだということは知らずに助けてくれたサンジ。どうやら彼も只者ではない。
複雑な色になった湯を流して浴槽を洗うと、
アキは髪を拭いて身体にタオルを巻いた。失敗した、と思った。着替えを取りに戻るくらいはできたはずだった。
悩みながら鏡の前まで行くと、パンパンに膨らんだバッグの上に載せられた黒い衣類が目に入った。
(いつの間に・・・)
もうゾロには頭が上がらない。
アキはため息混じりに微笑んだ。
ゾロが用意してくれたのは作務衣スタイルの上下で、上衣の袖もズボンの裾も
アキには長かった。何回か折り返して身体に合わせると、なんだか子供のような気分になった。
バッグを引きずりながら
アキが居間に入ると、ゾロは寝転んでいたソファから身を起こした。
アキの上から下までゆっくりと移動する視線が
アキにはくすぐったかった。
「お風呂、ありがとう」
「普段用」に戻しておいた
アキの声を聞いてゾロは頷いた。
「ずっとお前だったんだな、やっぱり。大したもんだ」
氷を入れたグラスにボトルから水を注いでゾロはソファから立ち上がった。
「俺はシャワーにしておく。すぐ戻るから誰か来ても出るな」
ゾロの後姿を見送ってから
アキはソファに座ろうとして、バランスを崩して沈み込んだ。手足がまっすぐ床の上に伸びる。行儀は悪いが心地良い。
アキは足からはがすように靴を脱いだ。右足は少し腫れているようだ。一気に開放された気分になって背中を倒した。
(気持ちいい・・・)
水を飲もうと思ったが後にすることにした。もう少し今の気分を味わいたかった。
アキは腕を思い切り伸ばして目を閉じた。何かゾロに言おうと思っていたことがあった気がした。
(こいつ、よく眠ってる)
タオルで髪をゴシゴシと拭きながらゾロは
アキを見下ろしていた。ソファから半分足をはみ出しながら丸くなってぐっすり眠っている横顔は、元の顔に戻ると年齢も性別も越えた存在 になってしまう。
(いいのか、そんなに安心して)
苦笑いしながらゾロはそっと指先を
アキの足首に触れた。よく見れば視覚的にもわかる。ひねった方、右の足首が腫れている。テーブルの引き出しに常備してある湿布を1枚取 り出して封を開け、細い足首に貼った。
アキはかすかに身じろぎしたが、眠りから覚めそうになかった。
(ここで素振りするわけにもいかねぇな)
ゾロはすっかり氷が溶けきったグラスの水をぐっと飲み干した。思いついて寝室から毛布を取ってきて
アキの身体に掛けてやる。初めて入るゾロの部屋でここまで深く眠ってしまったのはゾロを信じきって安心したからだけではないだろう。多 分、あの2時間、これまでにないほど緊張していたのだ。メタしている間中、そんな風には感じさせなかったが。
(そういえば・・・)
ゾロはふと思い出した。唇に小さな笑みが浮かぶ。再び寝室に行って目的の物を持ってくると、ゾロは床に座って胡坐をかいた。
アキは夢一つ見ないで眠り込んでいた。その眠りの底にはずっと記憶にある音色が流れていた。時に切なく、時には甘い旋律。知っているは ずなのにタイトルも何もわからない曲。
ゆっくり目を開いていくと自分の睫毛の影が見えた。その向こうにぼんやりと人影が浮かんでいる。手が
アキの頭の中のリズムに合わせて上下しているような・・・・傾けた頭部に揺れる金色のもの。あれはきっとピアスだ。
「ゾロ・・・・ピアス、変えた・・・・?」
半分夢の中の気分で呟くと頭の中のメロディーが止んだ。
「悪いな。起こしちまったか?」
「ん・・・・まだ眠い」
「眠れるなら、寝ろ。これはやめておく」
ゾロは何かを置いた。長い棒のようなものと・・・・あれは確か・・・・
「ヴァイオリン・・・・・?」
アキの身体がむっくりと起き上がった。目の焦点がはっきりと合う。床に胡坐をかいているゾロの手には確かにヴァイオリンと弓があった。
「ゾロ、ヴァイオリン弾いてた?」
「ああ。お前が言ってたのを思い出してな」
ゾロはヴァイオリンを構えなおすと一節の旋律を奏でた。それはここ数日ずっと
アキの頭から離れなかったあの曲だった。ゾロはニヤリとした。
「ゾロだったんだ・・・!ここで弾いてたのがわたしの部屋まで聞こえてたのね」
「夜中に弾くことが多いから、睡眠学習だな、ほとんど」
アキはソファの上に座って身を乗り出した。
「聞かせて。聞きたい・・・あの曲。なんていう曲?」
「俺も知らない。俺は楽譜なんて読めねぇし、耳で拾って弾くだけだから自分で適当に変えちまってるだろうしな」
そう言いながらゾロはヴァイオリンの弦を数回指で軽くはじいてから弓を当てた。ゆっくりとシンプルで物悲しい旋律が流れはじめた。
ゾロという人物にヴァイオリン。
アキには意外に思える組み合わせだった。それでも音に囲まれながらゾロの横顔を見ていると、段々と自然な光景に思えてくるのが不思議 だ。
アキは音に身をまかせながら膝を抱えた。気になっていたことを思い出していた。
「ゾロ。今日は何人も撃たれて怪我をした・・・・?」
ゾロは手を止めずに
アキを見た。旋律がやわらかく変化した。
「お前の銃は麻酔針を仕込んだ奴だったろ。俺のも似たようなものだ。麻酔じゃないが、身体に食い込むほどの弾じゃない。当たった奴は目を回すくらいはした だろうが、起きたら大体は局部的な打撲だ。運が悪い奴は骨にひび。そのくらいのもんだ」
アキは長く静かに息を吐き出した。
「お前が偽者だったことはあいつらにもバレるだろうし。死人を出したらこっちがまずいことになる。・・・不安だったか?」
「うん。ああいう場面は初めてだったから。そう言えば血は見なかったけど、今までよくわかってなかった」
「それにしちゃ、よく当ててたがな」
ゾロが言うと
アキは微笑んだ。
それからゾロはヴァイオリンを弾きつづけ、
アキは黙って聴いた。
ベルが鳴った。ゾロの部屋のベルの音色はヴァイオリンの一節に設定されていたので、一瞬、音が重なった。
ヴァイオリンを静かにテーブルに置き、ゾロは
アキに動かないように合図した。壁を伝うようにドアに近づいて覗き穴に目をあてる。
「なんだ・・・」
ゾロはため息とともにロックを外してドアを開けた。
「なんだじゃねェ。お前の部屋、随分暗いな」
聞こえてきた声に
アキは微笑んだ。サンジだ。
入ってきたサンジは珍しそうに部屋を見回し、すぐに
アキに気がついた。
「
アキちゃん!・・・・うわ、どうしたのそのカッコ。まさかこいつに・・・て言うかさ・・・」
サンジは両手に持っていた皿をテーブルに載せた。銀色のホイルで覆われていて中は見えない。けれど食欲をそそる香りが溢れている。
「なんだ、もしかして今日のレディ、
アキちゃんだったんだ、やっぱり」
サンジは笑った。
「やっぱり・・・?」
「ああ、今さ、先に
アキちゃんの部屋に寄ったんだ。そしたらいないし。こいつを無駄にするのも勿体無いからゾロのとこに来たんだけど。ゾロはあのレディと 一緒に出てったし、ここには
アキちゃんがいるしね。
アキちゃんの仕事は知ってるし」
話しながらサンジは手際よくホイルを剥いだ。1枚の皿にはあたたかい前菜各種が美しく盛り付けられ、もう1枚にはこんがりとトーストされた薄切りのフラ ンスパンが並べられていた。
「店の残りを温め直しただけなんだけど、よかったら。お前も食べていいぞ、ゾロ」
「誰の部屋だと思ってる」
眉間に皺を寄せたゾロだったが、立ち上がってカウンターに行ったのは飲み物を取るためだった。
戻ってくると
アキとサンジにグラスを渡す。
「好みくらい訊けよ」
言いながら一口飲んだサンジは慌ててグラスの中身を水で割った。
アキの手からもグラスを取って水を注いで氷を回す。
「いくらロックでもストレートはよせ。腹が減ってる時は特にな」
そういいながらサンジはゾロが自分の分のグラスを持ってこなかったことに気がついた。
(なんだ、まだ終わってないってことか。自分だけ飲まないつもりかよ)
アキも気がついたらしく自分のグラスに口をつけずにテーブルに置いた。
「お前は飲め。飲んで食って寝ろ。その方が気楽だ」
ゾロが
アキに言った言葉にサンジは飛び上がった。
「寝ろってお前、
アキちゃんを泊めるってのか。だったら俺も泊まるぞ!」
「なぜお前まで泊めなきゃならないんだ?」
答えを予想しながらゾロが言うとサンジは
アキの隣りにどっかりと座り込んだ。
「俺は
アキちゃんを守るナイトだからな。いくらお前が無関心な鈍感野郎でも万が一ってことがある」
(まあ、そんなところか)
ゾロは頭を掻いた。
アキとサンジ。どうもゾロのペースを乱すのが得意な種類の人間らしい。ゾロは1人でいるのが好きだし苦にならない人間で、言葉でいろい ろ説明するのはあまり得手ではない・・・はっきり言うと面倒くさい。だから誰かと一緒にいるとゾロは平気でも相手は間がもたなくなって困るのが常だ。
女を感じさせない
アキにはなぜか口数が普段より増える。それが決して嫌じゃない。
なんだかんだと絡んでくるサンジはうるさいが気がついたらそのペースに巻き込まれて言葉を返している。大声も出す。それでもやっぱり嫌ではないし、サン ジもしつこく気にしている風もない。
恐らく。ゾロが普段どおり黙って座っていてもこの2人は気にしない。そんな予感もした。
「しょうがねぇな。床でごろ寝だぞ」
「上等だ」
アキは2人の会話を聞きながらグラスから一口飲んだ。まだ謎な部分がおおい2人だったが不思議と自分は安心してくつろいでいる。誰かと こうして時間を過ごすのは何年ぶりのことだろう。初めて会った時は迫力いっぱいで圧倒されたゾロとスマートで底を見せない印象が強かったサンジ。どちらも 笑うと印象ががらりと変わる。素で本音であたたかい。
(メタみたい)
2人の変身振りは面白くて心地良かった。
「おい、皿はないのか。俺、フォークしか持ってこなかったぞ」
「そのままパンにのせて食べればいいだろうが」
「ったく・・・・」
サンジはトーストを1枚取ってその上に海老と野菜をのせて
アキに渡した。にっこりして口に運ぶ
アキの顔に内心、ホッとする。バラティエで見たレディとは別人なのだ、やはり。上品で美しい動作で料理を食べていた姿には今のような 「嬉しさ」がなかった。サンジの部屋で見せてくれたアレでサンジは
アキに惚れこんだのだ。女として、というのとは違ったが。そういう目で見るには
アキはいろいろと複雑すぎる。あの
アキの部屋のように。
(こいつもよ・・・)
もう1枚のトーストに盛り付けているサンジの手元を見ながら素直に待っているゾロの顔を見てサンジは噴出しそうになった。物騒で律儀で落ち着いた顔をし ながら喧嘩も受ける。旨い食べ物と酒に弱い。部屋にはなぜかヴァイオリンが転がっている。壁には刀が3丁だ。真っ黒な服装の中で耳のピアスが光る。オー ナー・ゼフの目は確かだと思った。ゾロには目を離せない何かがある。
一緒に食べると食べ物が旨い。
3人はそれぞれの形でそれを感じていた。
サンジが持って来た皿は両方ともすぐに空になった。ウキウキとデザートを取りに戻りながら、サンジは自分の上機嫌がおかしくなって笑った。
アキはためらっていたが思い切ってヴァイオリンを指差した。ため息をつきながらもゾロが弓に手を伸ばすと嬉しくていっぱいいっぱいの笑 顔になってしまった。それが恥ずかしくて顔が熱くなったがゾロはお返しに小さな笑みをくれた。
ヴァイオリンを弾いていると戻ってきたサンジが目を丸くした。大げさなくらいの忍び足になってコーヒーを淹れはじめた様子がおかしくて、ゾロはそのまま 引き続けた。すっかり音の世界に引き込まれているらしい
アキの姿はゾロを不思議な気持ちにした。こんな風に誰かの前で弾く時がくるとは思っていなかった。
「サンジ君・・・・?」
コーヒーにかかりきりで不自然なほど2人のほうを振り向かないサンジに
アキが声を掛けた。ゾロは弓を持った右手を止めた。
「止めんなよ・・・」
背中から聞こえてきたサンジの声は震えているようだった。
「おい、お前・・・」
驚いたゾロが立ち上がるとサンジは慌てて振り向いた。
「何でもねェ!いいから続きをやれよ」
サンジの青い瞳はキラキラと光を反射した・・・そこに海があるように。
アキはニッコリし、ゾロは再び音を奏ではじめた。唇の端に笑みをのせて。
気分の良さに半分ぼんやりとしながら
アキは携帯電話を取り出して画面を見た。エースからのメールだった。本物の「シホ」が無事に結婚の手続きを終えて帰宅したことが書かれ ていた。家族にも秘密の結婚。どれだけ反対されても変わることがなかった気持ち。逃げようと思えば2人で逃げ出すこともできたはずなのに手を取り合って一 緒に戻ってきた。
(ああ・・・そうか)
この女性も今は自分の居場所を見つけたのだろう。身体だけじゃなくて心も落ち着くことができる場所。
アキは順番にゾロとサンジの姿を見た。
今の部屋ではしばらく暮らしていられそうだ。自分が今の自分であることを隠すためにいろいろ考えなくてもいい。それは
アキにとってはじめての感じだった。
(よかった・・・・)
自分は心のどこかでこういう場所をずっと求めていたのかもしれない。
そう思いながら
アキはゆっくりと目を閉じた。
「眠ったか?」
「ああ。気分が落ち着いたみたいだな。疲れただろうしよ」
夢の入り口を通る前にそんな会話が聞こえた気がした。