ゆっくりと近づいてくる低いエンジンの音に気がついた時、
アキはようやく膝の上から顔を上げた。迎えに来てくれたエースに、ちゃんとお礼を言わなければならないと思った。あの状況から逃がして くれたこと、そして身体を休める場所を与えてくれたことに。
立ち上がらなければ。頭の中ではそう考えたはずなのに身体が反応しなかった。焦燥が心を掴んだ。これがよくない兆候であることはわかっていた。今ここで 自分を見失うわけにはいかない。ちゃんとここから戻って・・・・。
アキの背筋を冷たい痺れが走った。どこへ帰ると・・・帰ることができるというのだろう。ゾロとサンジとフレークがいるはずのあのマン ションのことをログスが知っている。それだけで
アキの部屋は近づいてはいけない危険な場所になってしまった。昨日まで陽だまりのようなあたたかくて心地よい場所だと安心しきっていた というのに。
アキは右手に動くように念じた。そうすればポケットの中にあるはずの携帯電話を取り出すことができる。でも、そうして誰に電話をかけよ うというのだろう。声を聞きたい相手、会いたい相手は自分でよくわかっている。わかってはいるが今の中途半端な状態の自分を知られたくない気持ちの方が強 かった。
早く、身体を動かそう。
エースに笑って礼を言おう。
あとのことはそれから一人で考えよう。
ちゃんと一人で。
繰り返し自分に言い聞かせながら
アキは動こうとしない身体に焦った。絶望に近い気持ちと情けなさが喉元まで込み上げる。落ちそうになった涙を堪えるために俯いた時、ド アが開く音がした。それと一緒に冷えた空気が流れ込んだ。
「
アキ」
低くて柔らかいその声を聞いた
アキは驚きとともにそっと顔を上げた。
ゾロ。
黒の革ジャン、黒のスラックス、白いTシャツ。
この部屋の中でずっと心に描いていたその姿が目の前に立っている。立ち上がろうとする
アキの意思に逆らう身体はぐらりと傾き、床に倒れ掛かった。思わず目を閉じようとした時にはすばやく膝をついたゾロの腕に受け止めら れ、あたたかな胸の中にいた。
「・・・すげぇ顔になってるな」
微笑を含んだゾロの声が胸にしみわたった。そう言えば車から転がって落ちた後はただ身体を丸めて床に座っていた。顔も身体も土埃で真っ黒なはずだ。
ゾロは埃でざらつく
アキの髪をそっと撫ぜた。汚れきった
アキの顔には涙の跡が幾筋もついていた。それを拭ってやりたいと思ったが、今はただやわらかく抱いて細い身体を包んだ。
「ゾロ・・・ゾロ・・・」
名前を呼んだ後に続ける言葉が見つからず、また名前を呼んだ。
ゾロは
アキの声に答えるように髪に、額に唇を触れた。
「汚れてるから・・・」
アキが言うとゾロは笑って片腕を外し、自分のTシャツの裾を捲くって
アキの顔を拭いた。
「触られて痛むところがあったら言えよ・・・・まず、ここか?」
ゾロがそっと
アキの額の擦り傷に触れると
アキは小さく顔を顰めた。感じた熱い痛みになぜか驚きを感じた。もう感覚を失ってしまったかと思っていた。
「しっかし見事だな」
ゾロの声に視線を動かすと白いTシャツについた黒い汚れが見えた。
「ゾロ、もう・・・」
言いかけた
アキの顔を今度はゾロの素手がゆっくりと撫ぜた。
「こんだけ黒くても・・・可愛くて仕方がない」
腕の中で目を丸くした
アキをゾロは真っ直ぐに見下ろした。真剣な眼差しはすぐに柔らかな光を帯びた。
「・・・お前が可愛くて仕方がないんだ。・・・・目を離してる間に透けて消えちまいそうなお前の姿も、やわらかい髪も・・・少々言葉を喋るのが苦手そうな 唇も・・・」
言いながら
アキの唇を指でそっとなぞり、ゾロは
アキを抱いている腕に力を込めた。
「だから、お前がちょっと疲れたんなら・・・俺が抱いて行く。今帰りたくないんなら、どこへでも連れて行く」
今までにゾロがこんな風に言葉で想いを表現したことはなかった。
ゾロの言葉に満たされながらそれを受け止めていいのか
アキは不安さえ感じていた。今までもずっとゾロのことを好きで大切にされていることを感じてきたはずだった。それとは違うこの満たされ 方は苦しいほどに幸福だった。ゾロと一緒にいる時に過去を思い出したことがないのはサンジに言ったとおり本当だった。ただ、自分の部屋で一人でいる時にふ とよぎる不透明な感覚・・・・嬉しくて楽しくて有頂天になっている時ほど自分勝手に一人で喜んでいるだけなのではないかと過去を振り返って怖くなる時が あった。
アキの手がゆっくりとゾロの腕を抱いた。
「もう少しだけ・・・こうしていたい。それから・・・帰りたい」
サンジとフレークが待っているはずのあの場所へ。他の場所など思いつかないほどいつの間にか安心して根を下ろしていた時間へ。
ゾロは
アキの額に触れた唇を頬に移し、それから静かに唇に重ねた。
キスまではメタの仕事の演技の中で何度か経験をしたことがあり、その仮想の経験によって自分が大人として成長できたと信じて生きてきた。けれど
アキ自身が口づけを体験したのはゾロが初めてで、その時には本当の自分自身はまだ幼いまま内側に取り残されていたことを知った。あれか ら幾度か高まる気持ちの中でゾロと唇を重ねた。今もまだ不慣れだと自覚しながらもその熱さに安堵と興奮を同時に与えられる感覚が好きになっていた。
「本当に・・・お前は・・・」
ゾロは遠慮を捨てて
アキを抱きしめた。
ゾロの腕の強さと言葉が与えてくれたもの。
アキはそれに満たされたまま目を閉じた。