手を繋いで 11

 胸に耳をあててゾロの心臓の鼓動を聞いていた。
 見上げると少しだけ早くなったように感じるそのリズムにさらに耳を澄ませた。
 ここにいる。
 生きている。
 温かく、そして熱く。
 繰り返し与えられる口づけに包まれながら目を閉じた。
 ふわふわと心と身体に感じる浮遊感。高熱を発した時の気だるさにも似たこの脱力感は言い表しようがないほどの幸福と等しい。

「ゾロ・・・」

 幸福なのに、もっと欲しくなる。
  アキは自分の欲の深さが恥ずかしかった。異常だ、と思う。気持ちのどこかで箍が外れてしまっている。
 飢えに似たその気持ちを堪えようとした時、ゾロは アキを腕に抱いたまま立ち上がった。現実になった浮遊感とゾロの腕だけに身体を支えられている幸福感が アキの胸に満ちた。
 ゾロは細い身体をしっかりと抱いたまま アキの額に、頬に、唇に、喉元に唇を落とした。小さな触れ合いの重なりにいっぱいに満ちていく アキが愛しかった。震えている全身と唇がもっとゾロを求めている。その姿に切なさを感じながらさらにそっと唇を触れた。

「・・・ここは、エースの場所だ。そいつを忘れないうちに・・・・だが、大丈夫か?車・・・乗れるか?」

  アキはゾロの胸にあてた額を小さく動かした。

「ゾロの車なら、怖くない」

 ゾロは初めて深く唇を重ねた。応える術を持たない アキの口をやわらかく侵した。反射的に背筋を少し反らしながら腕にすがりついた アキの身体の動きすべてがゾロの気持ちをゆっくりと満たした。

「・・・連れて帰るぞ」

 囁いたゾロは小さく頷いた アキを抱いて倉庫を出た。
 鍵を閉める間も片腕でしっかりと アキを抱いていた。




「・・・どうするかな」

 エースはちらりとフレークと一緒にソファに座っているシュンを一瞥し、額に手をあてた。

「俺にはちっともわからねェが、とりあえず、『アヤミ』ってのが誰なのか、教えてくれるか?あんたらのどっちでもいい」

 サンジは二人の男にコーヒーを満たしたマグカップを渡した。シュンと飲んだ残りのそれは、いつものサンジだったら絶対に人に飲ませることはない。コー ヒーメーカーにのったポットの上で空気に晒されながら保温しっぱなしだったものなど。けれど、どうやら今はサンジのこだわりを優先している場合でもないら しい。サンジはどっかりと床に座り、胡坐をかいた。

「とにかく、突っ立ってんな。座れ」

 エースは口角を上げながら軽い動きで床に座った。
 ログスはまだ立ったままでいた。

「子どもに聞かせていい話とも思えねぇんだよな」

「・・・大体、君たちはアヤミと何の関係がある?君はただの隣人、そして君は・・・・アヤミを連れて車を暴走させた愚か者というだけだろう」

 ひとつもヒントのないジグソーパズルの前に放り出されたような気分を感じながら、サンジは二人の顔を見た。

「アヤミってのが アキちゃんのことなら俺は確かに隣人だ。けど、それだけじゃねェ。 アキちゃんは俺の大切な友人でもある。そこに座ってるシュンも アキちゃんのことを大好きだし、 アキちゃんもこいつを大切に思ってる。だから、俺たちに遠慮する必要なんざねェ。別に口出しする気もねェ。勝手に話、進めてみろよ」

 エースは微笑を含んだ目でサンジを見た。

「あんたにあの子の話を聞く権利があるってのはわかってる。じゃあ、まあ、遠慮なくはじめさせてもらうが・・・・」

 エースは厳しい光を浮かべた目をログスに向けた。

「あのなぁ、あんたは俺を知らないだろうが、実は俺はあんたを知ってる。大昔にある病院で一緒に入院してた仲なのさ。あの子も・・・ アキもおんなじ病院にいた。いつのことか、わかるだろ?」

 ログスは眉を顰めた。

「・・・腹を撃たれたチンピラか・・・・?看護師に聞いたことがある」

「チンピラ、ねぇ。ま、間違ってもいないからいいけどな。俺はあんたとは全く縁がなかったが、あの子とはなぜかちょっとだけあってな、何年か一緒に仕事し てきた。いろんなものから逃げ出したがってたあの子に逃げる場所を提供したのも俺だ。それだけ、なんだが」

「アヤミを攫った犯人か?どれだけの騒ぎになったと思ってる。警察は家出だと断定したが、アヤミがそんなことをするわけがないのはわかってた。ちっとも動 こうとしない警察に代わってどれだけの人間がアヤミを探して走り回ったか・・・」

「聞き間違うなよ、肝心の言葉を。あの子はあんたたちがいうその『家』ってのから自分で逃げたんだ。俺が手を取って連れ出したわけじゃねぇ。追いつめて追 い出したのがあんたたちなんだよ」

「何を馬鹿なことを。アヤミをわたしたちはとても大切にしていた。声を失くした不自由さを忘れさせるために考えつく限りのことをやった」

「死んだ双子の片割れの姿を押しつけてか。いなくなって寂しいから代わりになれって要求してか」

「・・・何を・・・一体・・・・。君に何がわかる。何を知っている。アヤミがアユミにどれほど憧れていたか、アユミのようになりたいと願っていた か・・・・過去を知らない君に何がわかる」

「女に惚れるのは勝手だが、その自分の気持ちが世界の中心だと思うなよ。ったく、馬鹿馬鹿しいぜ!あんたが恋人に憧れるのは当たり前だが、あの子にはあの 子の世界とか考えとか生き様があるんだよ。まだ全員生きていたガキの頃からあったんだ。んなことも見えねぇで、あんたの方こそ、何をわかってるって言える んだ?大体、あんた、自分のその足で、身体で、目で、いなくなったあの子のことを探したのか?親の金で通り一遍の探し方しかしない『プロ』ってやつらを 雇って頼っただけだろ。笑わせるな」

「・・・人を雇って何が悪い」

「悪くなんかねぇぜ?何人でも雇えばいいさ。だがな、自分でも探したのか?って言ってるんだ。あんたたち親子、ただ待ってただけだろ。可哀想、可哀想って 言いながら。会社、どんどんデカクしながら。んで、何年も時間が経ってからようやく発見の報告をもらって、事情もよく調べずにあの子が自分で作り上げた生 活に土足で踏み込んで引っ掻き回す。『アヤミ』だぁ?言っとくけどな、そんな女、もうどこにもいないぜ」

「あれは・・・アヤミだ」

「昔はその名前だった。それは消せねぇし、消すのも不自然だ。だが、そこまでだ。あの子は『 アキ』だ。自分の力で生きて、食べて、飲んで、笑って、大好きな家族や恋人を作ってる。あんたたちが『アユミ』のおまけとしか見てな かった『アヤミ』なんて、実は最初からいないのさ。名前なんてどうでもいい。あの子があの子らしく生きてる今が、丸ごとあの子の時間だ」

「だが・・・アユミは・・・」

「死んだ。そのことは気の毒に思う。だが、失くしちまったものを埋めるために勝手に他人の魂を殺すな。あんたはあの子から声を奪った。でもあの子は声を奪 われたこともプラスに変えて自分の力で立った。もしも、これ以上あんたがあの子から何かを奪う気なら、俺は・・・いや、俺だけじゃない・・・ここにいる二 人も、多分猫も、そしてあと最低一人はそれを絶対に許さない。あんたが何かする前に、どんなことをしてでもあんたを止める」

 男二人の間の緊迫した空気を感じながら、サンジもシュンも黙って言葉の一つ一つを聞いていた。シュンの驚きに満ちた顔とは違い、サンジの顔にはやり場の ない感情の気配が浮かんでいた。細かなところはわからなくても、 アキが属していた過去が少しだけ見えた。その見えたものがこれまでの日々の中で時折感じたものと結びつき、サンジを泣きたい気分にさせ ている。
 あの アキが逃げ出さなければならなかった時間。
 声を失ってまでそこから自分を守らなければならなかった痛み。
 『自分が幸せだと思っている時って実は相手のことが一番見えていないときなのかもしれない』と言っていた時の苦しそうな顔を思い出す。

「・・・俺は」

 サンジの口から呟きが漏れた。
 今も何となくしかわからない アキの過去に口を出すつもりはなかった。でも、黙っていられそうもなかった。落ちそうになった涙を留めるために唇を噛んだ。

「・・・俺は・・・」

 再びサンジが口を開いた時、ドアに何かがぶつかったような鈍い音がした。
 こんな時に、何だ。
 サンジは険しい表情のまま歩いて行き、外を確かめもしないでドアを開けた。そして、口から出かかった言葉を呑み込んだ。

「・・・お前・・・なんで連れてきた?」

 切羽詰ったサンジの声を聞き、ゾロは口角を上げた。

「眠っちまう直前まで・・・お前に会いたがってたからな」

「・・・ってよぉ・・・・お前、少しは状況を考え・・・」

 声が震えだしたサンジは最後まで続けることはできなかった。
 ゾロの腕の中で、 アキは眠っていた。
 全身、真っ黒に埃だらけな姿で、自分を抱いているゾロの腕を抱いていた。

「なんだよ、これ・・・・すっげェ可愛い・・・」

 ゾロは涙を零しはじめたサンジの顔を見た。

「鼻水、垂らすな。ガキか、てめぇは」

「るせェ。垂らしてねェ!」

 低い声でささやきながら二人が入っていくと、部屋の中が静まり返った。

「・・・・眠っちまってるのか。絵に描いたように無防備ってやつだな」

 苦笑したエースは思い出したようにマグカップのコーヒーを飲んだ。

「冷め切ってるだろ。もうやめとけよ。新しいの、淹れる」

 キッチンに向かって歩き出したサンジはログスの前を通りかかり、足を止めた。

「・・・・震えてんのか?あんた」

 ログスはサンジの声も聞こえていないように、じっと アキの顔を凝視していた。

「眠ってる・・・?薬を飲まずにか?・・・・いや、そんなわけはないな。君が飲ませたのか?」

 ゾロはしばらく黙ったままログスの顔を眺め、それから軽く首を傾げた。

「言ってることがわからんな。こいつは薬なんか飲んでない。今までも、ずっとな。今はただ、疲れて眠ってるだけだ」

「そんなはずは・・・」

 この男は何を動揺しているのだろう。
 ログス以外は黙って顔を見合わせた。

アキは昔、薬を飲まなきゃ眠れなかったの?」

 口を開いたのはシュンだった。反射的に声のするほうを睨んだログスは、相手が子どもであることを知ると少しだけ肩の力を抜いたように見えた。

「事故の日からずっと・・・薬を飲まなければ眠れなかった。眠れないのに薬を飲むことを嫌って何日も寝なかったり・・・・だから無理矢理飲ませた り・・・・・そんな毎日だった」

「そりゃあ・・・・キツそうだな、 アキちゃんも・・・・あんたも」

 ログスはサンジの顔にゆっくりと目を向け、それからまた アキの寝顔を見た。

「キツかったさ。だが、いつか眠れるようになると・・・・わたしがそばにいれば眠れるように・・・・そんな風に」

 ゾロの腕の中の アキに近づくログスの遅い歩みを止めようとした者はいなかった。手を伸ばせば触れることができるくらいまで近づいたログスは、寝顔から ゾロに向かって視線を上げた。
 ゾロは強い視線を返した。
 まっすぐに引き結ばれたゾロの唇とは対照的に、ログスのものは震え、歪んだ。

「・・・アヤミの何を知ってる」

「知らない。俺にはその名前は意味がない。 アキが俺に見せたい分だけ俺は知ってる。十分だ」

「そんなのは詭弁だ」

「そう思うなら思っとけ。俺にはあんたが今の アキを知らないことに動揺してるようにしか見えない」

 ゾロはソファに近づき、シュンがすばやくよけた場所に アキを寝かせた。

「悪いな、久しぶりの再会はこいつの目が覚めるまでお預けだ。それまでは、そばにいてやれ」

 ゾロの言葉に頷いたシュンはソファの足元に座り、毛布を抱えてきたサンジはそっと静かに アキの身体を覆った。

「夜食、作っとこうかな〜。ああ!クレープの準備はバッチリだったよな、シュン!」

 サンジはポットに水を入れて火にかけた。

「やっぱ アキちゃんは紅茶の方がいいかな。ゾロ、準備してやるからメシの続き、ちゃんと食えよ!腹減ってるヤツはとにかく座れ。今からコーヒー もおとすから」

 サンジの中に、部屋の中に普段の時の流れが戻っていた。
 ゾロはおとなしくシュンの隣りに座り、エースは一人だけ立ったままのログスを見上げた。

「・・・・なんか、一気に時間が正常に戻っちまったみたいだな。あんたも感じてるんだろ?」

「これが正常とは・・・・思いたくないが」

 ログスの目は アキの寝顔を見つめていた。
 もしかしたらそれは、ログスが初めて見た顔なのかもしれない。ログスが アキのことを強く意識するようになったのが事故の後だとすれば。
 エースは腕を伸ばし、立ち上がった。

「あんた、本物のこの子に惚れとけばよかったな。これからってのは間に合わないみてぇだし」

「どのみち、とっくに印象は最悪だ」

「まあ、そんなことないさ、とは言ってやれねぇな」

 エースは笑顔でキッチンに顔を向けた。

「コーヒー、ご馳走さん!一家団欒の邪魔をするほど野暮じゃねぇから、もう行く。今度バラティエでメシ食わせてくれ」

「おー!いつでも寄ってくれ。デートの時は予約してくれな。ちゃんといろいろ考えてやるぜ」

「はは、そのうちな。・・・・ほら、行くぞ、あんたも。どうせ、運転手を待たせてるんだろ?」

「・・・ああ」

 喉の奥から搾り出されたようなその声を、それぞれが黙って聞いた。
 足音が離れ、ドアが閉まった。

アキ・・・・大丈夫?」

 シュンは弾かれたように立ち上がって アキを見下ろし、フレークがしなやかに毛布の上に跳び上がった。

「心配するな。お前が来てることを言う暇がなかったから、目を覚ましたら驚くぞ」

「もうだいぶ、 アキちゃんに身長、追いついたもんな〜」

 懐かしい色に戻った空気。それを敏感に感じ取ったシュンは安心と嬉しさで満面の笑みを浮かべた。その顔はちょうど、半年前、知り合った頃によく見た笑顔 そのものだった。

2006.12.20

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