ああ、と思ったのはあの日のサンジとの会話があったからかもしれない。本当は驚愕、とか愕然という言葉があてはまる瞬間だった。
帰宅途中の道を歩いていた
アキの傍らにスッと寄って停車した1台の車。後部座席の窓ガラスが下がり、男の顔が現れた。
「探したよ、何年も」
見覚えのある面立ちと懐かしさと感情が篭った深い声。
アキの全身は硬直した。
アキの顔を確かめるようにじっと見つめていた男は車から降りた。
「今はもう、君しかいないなんて・・・。大切にするよ、絶対に」
自分が男の腕の中に包み込まれていることさえ
アキにはわかっていなかったかもしれない。全てが麻痺してしまった感覚の中で、耳だけが男の声を拾っていた。
「もう二度と・・・・失わない」
あの日の会話が言霊となって今を呼んでしまったのだろうか。その時、
アキの手にサンジの手の感触が蘇った。あたたかかったサンジの手。ゾロの寝顔。安らかだった時間。身体に力が戻り、男の腕を振りほどい て離れた。
「アヤミ・・・!」
呼びかけられた名前が心に波を掻き立てる。一文字違いの別の名前が蘇る。幸福、失意、絶望、喪失。蘇った感情が渦を巻く。
逃げなければ、と思った。このまままた子どもに戻って心を切り離すしかなくなるのは嫌だ。今の自分には失いたくないものがある。何よりも大切にしたい時 間が、人がいる。
アキは男に背を向けて走った。自分の部屋に戻ることさえ出来れば。
「一度帰るんだろう?送ろう。アヤミの部屋は知ってる。さっき行ってみたから」
男の言葉が
アキの足を止めた。部屋を知られている・・・そのことに動揺した。もう、帰ることが出来る場所はない。ならば。
追い詰められた気持ちのまま向かう方向を迷った
アキは身体の向きを変えた。
「アヤミ!」
道路に飛び出した
アキの身体を引っ掛けそうになった1台の車が急停止した。必死に車の先を回り込もうとした
アキの腕を身軽に車から降りてきた人間の手が掴んだ。
「何やってんの。その男から逃げてるってとこか?」
腕の自由を取り戻そうともがきかけた
アキはその人間の良く知った声と顔に気がついた。
「あれは別に逆恨みしてる依頼人とかじゃないよな?俺、紹介した覚えねぇし。とにかく、乗って。ちょうどいい。あんたに話があって来たんだ」
ニヤリと笑ったエースはドアを開けて
アキを後部座席に乗せた。
「待て、アヤミ!」
声を上げた男の顔を面白そうに眺めたエースの瞳に強い光が浮かんだ。
「そういう名前の女は知らないな。頼むからしつこく追って来るなよ。面倒くさいし時間がもったいねぇから」
「何を・・・」
男の言葉は聞かずにエースは車の中に滑り込んでドアを閉めた。
「さて、適当に走るから、しっかりつかまってろよ!」
頷くと同時に発進した勢いに背中を後ろに押し付けられながら、
アキはバッグの中から携帯電話を取り出した。蓋を開いてポタンを押しかけ・・・そこで止めてすぐにバッグに電話を戻した。
まだ、話せない。話したくない。
あの頃の事を話せないならこれは誰にも関係のないことだ。頼るわけにはいかない。本当はエースの車に乗っていることもおかしいのだ。
アキが口を開きかけた時、エースは笑って勢い良くハンドルを切った。
「あのあんたのファン、あきらめるつもりはないみてぇだな。いいか、いっそシートに最初から転がってろ。今からちょっとばかり荒っぽくなるぞ」
エースの車の後ろにぴったりとついた1台の車。それを振り返る勇気がないまま、
アキは言われたとおりに身体を倒した。床に投げ出されないように堪えるだけで精一杯だった。
(ゾロ・・・サンジ君)
目を閉じた途端に二人の名前が心に浮かんだ。離れていく部屋との距離がそのまま二人との距離のように思えた。