手を繋いで 5

 大きくハンドルが切られるたびに滑らかに方向を変える車の中で、しっかりと目を瞑っていた。
 瞼の裏の薄闇の中で世界がくるくると回っている錯覚を覚えていた。
 それは肌の表面を粟立たせるあの感覚を呼び起こす。
 紐が切れた凧のようにどこにもつかまる場所なく全身に感じた浮遊感。
 強すぎて実感として感じることができないままの恐怖。
 あの日、行き先を見失って道から飛び出した車の中で。
 他の人たちは何を思ったのだろうか。




「おい?酔ったか?大丈夫か?」

 バックミラーの角度を変えて後部座席を確認したエースは、シートの上で膝を抱えるようにして身体を丸めている姿を見た。その姿に何か違和感を覚え声を掛 けたが、返事はない。ただ、身体を縮こまらせて・・・目は閉じているようだ。
 その姿は遠い記憶に繋がる気がした。まだ彼がほんの駆け出しで一つの組織に繋がっていた頃。下手糞なくせに数だけは沢山撃ってきた相手の銃弾に脇腹をか すめられた日。
 まずいかもしれない。
 エースはすばやく今走っている場所と方向を計算した。
 いける。ダメもとでもやってみなくてはならない。このまま車に乗せておくわけにはいかない。

「いいか、ちゃんと聞けよ。これから倉庫街に突っ込むぞ。あの中につい2、3日前まで工事をしてた一画がある。そこまで走ったら合図するからドアを開けて 外に転がれ。地面に着いたら身体を寝せたまま目を閉じてろ。後ろの連中にはバレねぇ。ものすげぇ埃が舞い上がってるからな。で、いいか、今、鍵を渡すから 車が2台とも離れてタイヤの音が聞こえなくなったら、鍵に書いてある番号を見てその番号が書いてある倉庫を開けろ。そして、そこに入って待っていろ。絶対 後で迎えに来るから、そこを離れるんじゃないぞ」

 言葉は高いエンジン音に吸い込まれた。
 エースは軽く唇を噛んだ。

「返事しろ。このまま車で暴走してたら、お前、ダメになっちまうだろうが。思い切り転がって落ちれば多少の打撲で済む。いいな。弱虫じゃないだろ」

 反応は返ってこない。エースは小さくため息をついてから深く息を吸った。

アキ!お前の名前は今はもう、『 アキ』だろうが!頼むから言うことを聞け。車を下りて安全な場所に行くんだ」

 うずくまっていた身体の表面が呼ばれた名前にピクリと反応を見せた。
 ゆっくりと顔を上げてミラーの中のエースの目に視線を返した瞳は濡れていた。
 エースは一瞬、出掛かっていた言葉をすべて忘れた。

「多分あんたの中には何かいろいろなモンがいっぱいになってるんだろう。ちゃんと静かに座れる場所で考えるなり泣くなり、したいことを何でもするのがい い。だから・・・俺が声を掛けたら、今は何も考えずにドアを開けて飛び出せ。目を瞑ってていい」

  アキは小さく首を横に振った。怯え震えている気配をエースは感じ取った。

「怖かったらあんたのお隣さん・・・・あのちょっと変わった二人のことを考えろ。あいつらは、あんたを待ってる」

 涙が零れ落ちた。これが感情がちゃんと動き出した証拠ならいい。エースはさらにアクセルを踏み込んだ。

「迷うなよ、いいな」

 半分車体を滑らせながら角を曲がった車は倉庫街に入った。無機質でモノトーンのグラデーションの間を縫うようにして走りながら、エースは最後にミラーの 中を見た。

「大丈夫だ。絶対に迎えに来る」

  アキはエースの方を見なかった。懸命に身体を起こして震える手をゆっくりとドアに伸ばした。
 ガクン、という感覚とともに音が変化し窓の外は砂煙と埃で何も見えなくなった。

「行け!」

  アキは唇を噛んでドアのロックを外し、力いっぱい押し開いた。目を瞑ると時が一瞬にして遡った。風の圧力の中で身体が浮きながら落ちて いく感覚と固い地面に叩きつけられた痛み。 アキは目を閉じたまま横たわっていた。
 勢い良く走り去るエースの車と追っていくログスの車。音が遠くなるのと一緒に気持ちも遠くなった。
 今、ここにいるのは誰だろう。
 生き残ることも死ぬことも、どちらも願った記憶はなかった。
 どちらにしても後悔する。
 もしかしたらあの時もすでにそのことを知っていたのかもしれなかった。

2006.9.12

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