手を繋いで 7

 ずっと目を閉じたままでいた。
 目を開けたら目の前には炎上している車があるかもしれない。空気から伝わってくるあの熱さまで感じられる気がして動くことができなかった。
  アキの身体は細かく震え続けていた。

 すべては意識を失っている間に終わっていた。
 それぞれの命が離れていったところも知らず、目覚めた時には白一色の病室の中にいた。その時には既に家族は真新しい墓の中に入っていて、すべてを取り仕 切ったのが死んだレグスの両親であることを知った。
 生存者は2人。隣り合わせの個室で目を覚ました子ども。
 双子のうち美しく華やかだった一人を失ってどれほどの嘆きが叫ばれたのか。時々隣の部屋から声が聞こえる気がした。
 それなのに誰もが顔を見ると懸命に笑顔を作った。
 辛いけれど悲しんでも失ったものは戻らない。あなたが残ってくれたことを祝福して喜びましょう。
 レグスの母親が最初に言ったこの言葉に他の人間がみな従って合わせているのだと思った。
 みなが運の良さを誉め、笑顔をくれた。
 その中にはひとつも心の中の喪失感を埋めてくれるものはなかった。
 ずっと傍らにいた人間を失った。一緒に助かったと信じていた少年は恋する相手を助けに走って炎に巻き込まれ連れて行かれた。家族がいなくなったというこ とは戻る場所を失くしたことに等しいと思った。
 なぜ自分なのか。
 どうしてもう一人の双子に夢中になっていた人たちが今、ぎこちない笑顔で無理にかまってくれようとするのか。
 なぜ笑顔を見せなければいけないとこれほど強く思うのか。泣いてはいけないと直接言われたわけではないのに。
 なぜ誰も失ったことを悲しまないのか・・・自分の前では。
 病室に次々と美しい切花が届いた。
 いつのまにかその芳香を感じると頭痛がするようになっていた。
 事故の後、一度も泣くことはできなかった。
 訪れる人の祝福が心に重石を重ねていった。
 それでもギリギリのところで踏みとどまっていた心は隣りの病室からやって来た少年の言葉で砕け散った。

「もう絶対に失くさない。君はこれから僕のアユミだ。きっとアユミのように綺麗になれる」

 これはみんなの心の中の本音だろうか。
 アユミの身体にアユミの心があったからあんなに輝いていたことを知っているはずなのに。
 もしもアユミの真似をして笑い、歌い、髪型も好みの服も全部同じにしたとしても、そこにいるのはアユミではない。かと言ってもうそれは自分でもない。
 では、誰だ。人がそこに望んでいる人間を映し出すだけの存在ならそれはただの鏡だ。無機質で透明。生きている必要さえない。
 無意識に喉が焼け付くほど絶叫していた。
 ログスはすぐに部屋から遠ざけられ出入りを禁止されたが、その時にはもう、病室に残っているのは抜け殻の、感情も記憶もどこかに離れてしまったボロ屑の ような身体だけだった。その身体は声を失くしていた。

 心を失っていた時の記憶はほとんどが曖昧で濃い霧の向こう側の出来事のようだった。気持ちは楽だった。何も感じないで済んでいたのだから。
 そう。心を飛ばせば楽になれる。それは良く知っている。こうして目を閉じたままでいればまた楽になれるのかもしれない。
 ズキン、と地面に擦った額が痛んだ。
 全身の感覚を少しだけ戻すと手の中に何か握っているのが感じられた。鍵。誰かが・・・・エースが渡した倉庫の鍵。必死に話しかけてくれた声が少しずつ蘇 る。
 待っていろ、とエースは言った。
 弱虫ではないだろう、とも言った。
 そして・・・・『あの二人』のことを考えろ、とも・・・言った。あの二人。ゾロとサンジ。
 名前を思い出した瞬間、身体の中を小さな痛みが過ぎた。その痛みに切なくなって、全身に力を入れた。
 目を開けると顔に降り積もっていた砂埃が入って涙が出た。顔全体をぬぐっても涙はなぜか止まらなかった。
 鍵に刻まれた文字を読んだ。
 56−A。
 首を動かすと近くの小ぶりな倉庫のシャッターには31−Cと書かれているのが見えた。数字を辿っていけばエースの倉庫に辿りつけるだろう。何を閉まって おくために借りている場所なのかは知らないが、少なくともシャッターを閉めればここから空間を切り離すことができるだろう。
  アキは慎重に身体を起こして立ち上がった。骨折や捻挫をしている様子はなかった。ただ、地面とぶつかった側の身体の表面がズキズキと痛 んだ。
 途中まで何も考えずにただ足を交互に動かした。
 ふと目に入った数字から恐らく反対の方向に進んでいることを知り、向きを変えてまた歩いた。30番台だった数字が40番に、そして50番台になった。C 列から2本表通りに向かうとA列があった。
 56−A。
 その番号が書かれた中くらいの大きさの倉庫の入り口はシャッターではなくて鋼鉄製のドアだった。差し込むと鍵がぴったりと合う感触がし、軽やかに回っ た。思いドアをそろそろと引きあけた。すると、自動的に中のライトが点灯した。
 目の前に現れたその光景に。
  アキは一歩中に入り、その場に静かに膝を落とした。
 モノトーンで統一された室内でひときわ目を引く明るい色のクッションが並べられた大きなソファ。楕円形の食卓テーブルの上に置かれたPCと広げられたま まの雑誌。打ちっぱなしのコンクリート壁を覆う何枚かのラグ。天井に近い高い位置に細く並んでいる明り取りの小窓とゆっくりと回りはじめた大きなファンの 2枚羽。予想していた剥き出しで埃っぽい場所とはまったく違っていた。
 ここは、エースの住処だ。
 プライヴェートで秘密の気配がする大切な場所だ。
 それなのになぜ、あんなにも簡単に鍵を渡したのだろう。
 行き場所も心も失っていたあの日、自分の場所を求めて過去から逃げ出した。ようやく見つけたあの場所に感じた例えようもない安堵。今、心に溢れたのはあ の時の気持ちと同じでただ、身体の力が抜けた。
 今はここにいることができる。
 あたたかさを感じることができるこの場所に。
  アキは床に座ったまま膝を抱えた。

2006.9.16

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