無事にクレープの種を混ぜ合わせ、冷蔵庫に寝かせた。
一緒に一仕事終えた後の微笑を交わしたあと、サンジは口を開いた。
「なあ・・・・おまえさ、猫、嫌いだったか?」
え。
驚いたようにサンジを見上げたシュンはひどく幼く見えた。
「いやぁさ、うちに来てからずっとお前、フレークのことを気にしてるし。でもよ、もしも好きだったらとっくにじゃらしに行ってるはずだろ?」
少年はサンジの顔から猫に視線を移し、それから小さく息を吐いた。
「かわいいと思えたよ、きっと・・・・あの頃に会ったんなら。でも・・・その子は僕がいない間に来たんだよね。で、いつの間にかサンジと
アキとゾロの家族になってた。・・・・そういうの、今、なぜだかあんまり嬉しくないんだ」
そういうことだったのか。
サンジはコーヒーメーカーのスイッチを淹れた。真剣な子どもの相手をするときはドリップは機械に任せてもいい。
「お前もコーヒー、飲むか?」
「・・・ガキには勿体無いっていつもサンジ・・・言ってたろ?」
「今夜はいいさ。眠れなくなっちまっても無理に眠らなくていいからよ」
半年前には紅茶やココアを入れてやっていたマグカップを取り出すサンジの手をシュンは黙って眺めていた。あっけないほど簡単に短時間に抽出された琥珀色 の液体を注ぐと、白い湯気がのぼった。
「ブラックで飲んでみろよ。一番最初はやっぱそのものの味を体験しねェとな」
少年は臆するところを見せるのを恐れるようにせっかちにカップに口をつけた。熱かったのだろう・・・涙ぐみながら一口飲んだ後、サンジを見上げた。
「・・・これが美味しいの?」
「食べ物が旨いっていうのとはちょっと違う『美味しい』かもな。なんつぅか・・・・身体に癖になるっていうか」
「ふぅん・・・」
シュンはもう一口飲むとカップを置いた。
「・・・・母さん、結婚してほしいって言われたんだ」
大人の事情に巻き込まれた子ども。
サンジは自分のカップと少年のものを両方持つと、肘で幼い背中を押しながらソファに向かって歩いた。二人並んで腰かけてからしばらくは、少年は何も言わ なかった。サンジは少年が言葉を選んでいる姿を眺めていた。
「その男の人は普通にいい人で、でも・・・・この頃はちょっとうざかった。何となく、あ、この人は僕の父親をやってみたくなったんだってわかったし、何で か不思議だった」
「ああ・・・・急に勝手に距離を縮められると驚くし相手によっては困っちまうよな。・・・お前さ、その人のこと、母さんの恋人だと思ってたわけ?」
シュンは首を横に振った。
「あの人が母さんを好きなのはわかってた。でも・・・母さんはそういう『好き』じゃないと思ってた。たまたま同じ駅から同じ電車に乗る人で、たまたま降り る駅とか会社の場所が近かったっていう知り合い。・・・母さんは休みの日はいつだって僕と一緒だったし、一人であの人と出かけようとはしなかった。で も・・・結婚してほしいって言われたって言った時・・・何だか悩んでたから・・・・」
「お前は新しい家族が増えるなんてこと、考えてなかったのに・・・・ってことか?」
「うん、多分。それに・・・」
言葉につまった少年の姿を見ながらサンジは煙草を咥えて火をつけた。それから指先で少年の額を突いた。
「言われてすぐに断って欲しかったんだろ。母さんにはお前がちゃんといるもんな。それに・・・・まだお前の父さんのこと、好きでいて欲しいんじゃねェ の?」
少年は俯いた。
「勝手だろ・・・ただの自分の我侭だよ・・・わかってる。でもどうしていいかわかんなくて。そしたら・・・ここに帰りたくなって」
くしゃくしゃと掻き回したシュンの髪はやわらかかった。サンジはその感触をあたたかく感じながら煙を吐いた。
「いいよな〜、お前。母親と息子ってさ、どこか恋人みたいなところがあるんだってな。俺、そういうの知らねェからよ」
少年は目を丸くした。
「え・・・サンジ・・・・いないの?お母さん」
「ば〜か。母親がいないでどうやって生まれるんだよ。どこかにはいるさ、俺を産んでくれた人。でも俺は顔も声も何にも知らねェし、今生きてんだかどうかも わからねェ」
「・・・そうなんだ」
俯きかけた少年の頭をサンジはポンっと叩いた。
「そうなの。ちなみに、父親も知らねェ。はは、俺に似合ってるだろ?薄幸の美青年。でもよ、お前にはどうやってもそんなのは似合いそうもねェよな。言っち まってもいいんじゃねェの?お前の本音。大人ってのは案外これまで生きてきた分いろいろ臆病にもなるから、母さん、お前の気持ちがわからなくてかえって自 分のことも話せないのかもしれないぜ?」
「でも・・・・もし母さんが・・・・結婚したいと思ってたら・・・・」
サンジは灰皿の上で煙草をひねった。
「あのな、もしも母さんがその男を好きになってたんならお前にわからないわけはなかったと思うぜ。お前がその人を全然恋人だと思ってなかったってことは、 多分母さんも同じなんだ。ただよ、大人だってお前と一緒で友達みてェな相手を欲しくなるんだよ。恋人とかそういうのとは違った感じで安心できて大切に出来 る相手を見つけることができたら最高なんだ。もしかしたら母さんは、そっちの方を求めてるのかもしれねェな」
シュンはじっとサンジを見ながら言われた言葉を考えているようだった。サンジは子どもの顔に過ぎる小さくて様々な表情を楽しんだ。疑問、安堵、喜び、反 省、希望。そして・・・・
「そっか。
アキとゾロはサンジのそういう人なんだ」
・・・・確信。
急にこっちに振るなよな。
サンジは頭を掻いた。
「あのマリモの前でそんなクソバカなこと、言うなよ。あいつ、つけあがるからな」
「・・・・へへ」
「へへ、じゃねェ!嬉しそうな顔しやがって。ほら、そろそろフレークとちゃんとご対面しろよ。お前も一員なんだぞってしっかり覚えてもらえ」
頬を染めたのを隠すようにして猫の方にそっと歩き出した後姿を見ながらサンジはコーヒーを飲んだ。本当はこんな単純な話ではないことはわかっていた。 シュンと母親の中に残る父親と元の夫に対する気持ち・・・・それを想像しただけで深いものを盗み見した気分になってしまう。サンジにできたのは少年が今見 せたい分、渡したい分の想いを受け止めただけだ。少年もそれを知っている。
だから、いいのだ。
またそのうちに何かが溢れそうになったら、またこうやって会いにくればいい。いつでも扉は開かれていて前と少しも変わらないのだということを互いに納得 できただけでいいのだ。
それにしても。
サンジが玄関のドアに視線を向けたとき、短く2度、ベルが鳴った。この鳴らし方はゾロでも
アキでもない。首を傾げながら立ち上がったサンジをシュンの目が追った。
「・・・はい」
インターホンの向こうに聞こえたのは押し殺したような息づかいだった。
「ちょっと伺いたいことがあって失礼させていただきました。アヤミ・・・あなたの隣りの部屋に住んでいる女性のことなんですが・・・」
・・・アヤミ?
サンジの背中に緊張が走った。自分が知らない何かが突然に近づいてきた時のあの感覚。予感に似た興奮。
ゆっくりと鍵をあけたサンジはドアを開いた。そして立っているスーツ姿の男と視線を合わせたとき、近づいてくる高い靴音を聞いた。
「悪いな。どうやらあんたの部屋をちょっとした話し合いに使っちまうことになりそうだ」
走ってきたエースはサンジと男にニヤリと笑いかけた。
何かが一本に繋がろうとしている。
サンジはドアを押さえたまま身体をよけて二人の男に中を示した。