カチ、カチと繰り返される音は思ったよりも柔らかく、左右に振れる金色の振り子のゆっくりとした動きはいつまででも見ていられそうな錯覚を生む。巻いたぜ んまいが緩み終わるまでの一刻。
部屋の雰囲気もこの錯覚に一役買っている。
アキは立ち膝で肘をのせていた小さな出窓から振り返ってぐるりと視線を走らせた。『月夜の洞窟』。初めてこの部屋に入った時からその印 象は全く変わらない。薄暗い程度の光量と黒と褐色だけの部屋の色合いは静かな心地良さを醸し出していた。
揺れながら時折輝きを見せる金色の動き。ギリギリまで端によせた錘の重みは右に左に限界までその扇を広げ、本当にまた持ち上がってくるのだろうかと心を 小さく騒がせる。その繰り返しには鎮静効果があるようだ・・・
アキはほうっと息を吐いた。
ゾロは中味が氷だけになったグラスをテーブルに置いた。
ぼんやりとメトロノームを眺めている
アキの後姿はゾロには見慣れないものに思えた。
早めに道場での稽古を終えて部屋に戻りシャワーを浴びてから適当なつまみと一緒にビールを飲んでいるとベルが鳴り、ドアの外に
アキが立っていた。疑問を感じる前に
アキはただ、メトロノームの音を聴かせてくれと言った。ゾロがこの部屋に来てからなんとなく窓辺にただのせておいたメトロノーム。過ぎ てきた時間を感じさせる古い木目が模様を描き出している外観はそのまますっぽり部屋の中に溶け込んでしまっていたから、ゾロは
アキがその存在に気がついていたことを驚いたし、彼自身はそれがあることをすっかり忘れていた。部屋に入った
アキは真っ直ぐに歩いていって窓辺に膝をついた。慎重な手つきで蓋をはずしネジを巻く姿をゾロは黙って見ていた。その頃になってようや く首を傾げる気分になっていた。様子がおかしいと断言できるほど変なわけではなかったが、
アキはいつもと違っていた。錘を上一杯に引き上げてそっと指を離す仕草には何か張りつめたものが感じられた。それから肘をついて上半身 を預けて少し背中を丸めた後姿を眺めながら、ゾロはしばらく無言でグラスを傾けていたのだが。
「飲むか?」
振り向いた
アキの顔には驚いたような表情があったのでゾロは苦笑した。部屋の主の存在を忘れるほどの何があったのだろう。
ゾロはグラスに放り込んだ氷の上から透明な酒を注ぎ、酒の倍ほどの水を加えた。
おぼつかない足取りで歩いてきた
アキはゾロの隣りに座るとグラスを受け取った。その時ゾロは
アキの身体から流れたシャンプーと石鹸と思われる香りを吸い込んだ。
(なるほど)
ゾロは内心再び苦笑した。夜に女がシャワーの残り香を身にまとって1人で男の部屋を訪れた場合、普通は男の身体の中の血液の流れが一気に速まってもおか しくない。しかし、その女というのが
アキである場合は。
(恐らく仕事の後だってことだ、こいつの場合は)
身体と心にまとったメタモルフォーゼを解いて。
アキのちょっとおかしな様子も極度の集中を解いた後の脱力状態と考えればある程度は納得がいく気がした。
ゾロが差し出した皿から枝豆をひとつとった
アキは指先で莢を軽く押した。緑鮮やかな粒がこぼれた。
「あ・・・」
床に転がった粒に気をとられた
アキは手にもつ莢のことを忘れ、気がつくと後を追うようにもう2つ、緑がこぼれた。
「疲れてるみてぇだな」
豆粒を拾い集めてテーブルの端に置くと、ゾロは
アキの手の中のカラを取り上げて仲間に加えた。
「ほんのちょっとね」
アキはグラスを持ち上げた。その目はまだメトロノームを見ていた。
「プラスチックのものより随分柔らかい音がするね。あれに合わせてヴァイオリンを弾いたりする?」
「いや。あれは貰い物だ」
ヴァイオリンと一緒に。ゾロにはもう随分遠いことに思えるあの日に。自分がなぜずっとそれを持ち続けてきたのかもうわからないほどの昔に。
「ありがとう、突然だったのに」
アキは一気にグラスを干した。
「馬鹿、無理すんな」
アキが酒に強いのか弱いのかゾロにはまだわからなかった。気がつくと結構な量を飲んでいたりする。酔い方も笑い顔がちょっと幼くなるく らいでおとなしい。
ただ、
アキの飲み方はいつも静かでゆっくりだったから。
ゾロが言うと
アキは微笑んだ。
「眠れそうだから大丈夫」
それはメトロノームの効果なのか酒の効果なのか。
(ま、どっちでもいいけどな)
もしも今ここにサンジもいたら
アキもゾロもまた違ったかもしれない。ふと考えたゾロはそんな自分を妙だと思った。それでもきっと何か料理を作りに走ってにぎやかにそ れを
アキに食べさせるだろうサンジの姿があまりに簡単に想像できた。
(俺は見守るくらいしかできねぇ)
グラスを置いて立ち上がった
アキの上半身がふわりと揺れた。ゾロが立ち上がって手を伸ばすと
アキはどこか子どものように笑った。
「大丈夫、立ちくらみ」
ふわふわした足取りでドアに向かう
アキの後ろをゾロは黙ってついて行った。いつもより細く見える後姿を引き寄せる自分の腕を一瞬想像した。恋人としてではなく家族である わけでもなくただほんの少し寄りかからせてやりたいというこの気持ち。
(柄じゃねぇ)
唇に笑みがのぼった時
アキがくるりと振り向いたので、ゾロは反射的にその場で身体を硬くした。見ればすでにドアが目の前だった。
「ありがとう、ゾロ・・・」
柔らかな微笑を浮かべたまま
アキは右手を伸ばしてゾロの腕に触れた。それから頬を染めてまたにっこりするとドアの向こうに1歩踏み出した。
「このまま寝ろよ」
ゾロの腕には
アキの指の感触が残っていた。多分これは恋人でも家族でもない
アキがちょっと見せた心の許しと甘えだ。ゾロがそうさせてやりたかったのと同じ。
「うん。ちゃんと歯を磨いてから寝る」
閉められたドアの外側と内側で2人はそれぞれに小さくて新しい気持ちを胸に抱いていた。