空の暗さと大気の重さに予感していた通りの雨粒が落ちはじめた。途端に公園の中の姿が散った。逆に傘を片手に小走りに入ってくる人影もいくつかあり、帰る 時は大小の傘を並べて去っていく。
白雨。アスファルトの上を水が跳ねはじめる。そろそろ自分も走って戻ろうか、そう考えてベンチから腰を浮かせた
アキは少し離れた小さな噴水の向こう側に人影を見た。
(子ども・・・・?)
「お〜い、
アキちゃ〜ん!」
振り向くと深いブルーの傘を振るサンジの姿があった。黒いスーツ姿。仕事帰りだ。
サンジはあっという間にできはじめた水溜りを飛び越えながら走り寄り
アキの上に傘を差しかけた。
「サンジ君、早いね」
「ランチタイムが片付いてからちょっと仕込みを手伝ってきたんだ。お土産、あるよ、クソじじいの紅茶も。にしても雨の中でどうしたの?」
「うん、あのね、夕立に動く人を眺めてたんだけど・・・・。あれ、子どもだよね?」
雨と噴水の水がつくる半透明なカーテンを透かすように2人は目を凝らした。
「確かにありゃあ子どもみてェだけど・・・何してんだ?」
動く様子がないその人影を視界に入れながら2人は噴水の方へ歩いて行った。
ようやくその小さな姿のはっきりした輪郭と色が見えはじめた時、
アキは一瞬足を止めた。予感とともにまさかという気持ちに襲われる。
「ずぶ濡れだ」
サンジが声をかけると小さな背中が大きく震えた。振り向いた顔の幼さと警戒するような表情のミスマッチが今風に見える。全身に張り付いた濡れたTシャツ と濃い色に変化している膝丈のハーフパンツ。短く刈り上げた頭から首に伝わる水の流れ。少年は今にも震えそうに見えた。
アキは大きく吸い込んだ息を静かに吐き出した。
「誰か待ってるのか?」
少年は2人を見上げたまま黙っていた。
待ち人がいるのかもしれない・・・・サンジが言うとおり。
アキは少年の瞳を見た。思いつめたような表情は記憶に残るものと全く同じ。少年には
アキに関する記憶はないからこれは一方的な知識であり、何ともいえない気持ちを伴う記憶だった。罪悪感というのが近いのかもしれない。 待ち人がいるに違いないこともその待ち人がくるはずがないこともわかってしまっているということへの。
アキは少年と目の高さが合うまで腰を落とした。
サンジは傘を少年の真上に差しかけた。
「良かったら部屋に寄って行って。服を乾かしてお茶でも一緒に」
少年の目が
アキを見つめた。10の内の7が警戒心、2が好奇心、1が無意識の安堵。
「心配だったら家に電話しておけよ。携帯持ってないなら貸してやる。部屋の住所、教えるぜ」
サンジの声に見上げる2組の目に同じような色があった。動揺、失意、困惑・・・その中に説明できるものがあるだろうか。サンジは心の中で首を傾げた。
「行こう。・・・・ね?シュン君」
今度は少年とサンジが揃って目を丸くした。
アキは少年のズボンのポケットからこぼれている銀色のチェーンを指差した。そこにはアルファベットで名前を刻んだネームプレートがくっ ついていた。
ああ、と同時に頷いた少年とサンジの視線がぶつかった。サンジがゆるく微笑むと少年の唇も上向きの曲線を描いた。
「俺はサンジ、こちらのレディは
アキちゃんだ」
シュンは噴水のふちから地面にポンッと降り立った。
「とにかく、いいから、シャワーが先だぞ!レディの部屋のバスルームを借りるなんざぁお前には10年早いから俺の部屋だ。ほら、こっちだ」
まるで首根っこをつかまれた猫のようにサンジに引きずり込まれていくシュンを見送ってから
アキは自分の部屋に入った。濡れた服を脱いでタオルで髪の毛を拭いてから着替えを探す。ふと、バスルームの片隅に置いたままにしてあっ た畳まれた衣類に視線が止まる。偶然という言葉のいたずらな響きを噛みしめながらその衣類をまとめてゴミ袋に押し込んだ。
サンジの部屋の前に行くとロックを外したままのドアが半開きになっていた。
アキは一応ノックをしてから中に入ってドアを閉めた。
「ああ、
アキちゃん。あの子、ようやく服をひっぺがしてシャワーに放り込んだぜ。下着までびしょ濡れだったから今洗濯中」
明るく笑うサンジは広々としたキッチンでリズミカルに包丁を動かしていた。明るくて心地良い色に溢れた部屋もキッチンも、ここにいると外が雨模様である ことを忘れてしまいそうだった。
「コーヒーよりもお茶の方がいいよね」
アキは流線型がきれいなサンジの銀色のケトルを火にかけた。
「あ、じじいのブレンドはそこの袋ね。店に来るガキどもは結構ジュースが好きなんだよな」
サンジは刻んでいた野菜をガラスボールに入れると冷蔵庫からオレンジを取り出した。ナイフを入れると甘い香りが流れ出す。
アキはオレンジを絞るサンジの手に見惚れた。流れるように無駄がない。
湯が沸いたのでポットとカップを取り出す
アキを見てサンジが笑った。
「紅茶だけは
アキちゃんの方が上手いよな。ちょっと悔しいけどさ」
なんとなく最初にサンジの部屋に来た時に出されたカップがそのまま3人の色になっていた。
アキは自分が取り出した3つ目のカップを見て手を止めた。薄茶色は・・・
「クソ剣士に飲ませてやるのも癪だけど呼んでみる?あいつもまだ晩メシ前だろうし」
サンジは
アキの返事を待たずに胸のポケットから携帯電話を取り出した。電話の鮮やかな赤い色に見覚えがあった
アキは思い出して頷いた。
「サンジ君の車と一緒だ」
「ちょっと気に入ってる色なんだ。・・・・くそ、出ねェな、あいつ」
電話をポケットにしまい、サンジは絞った果汁をグラスに注いだ。
居間に入りかけたとき漂ってきた清潔な香りと湯気の湿度がシュンの存在を告げていた。トレーを持ったサンジの後から入った
アキは部屋の真ん中に立っている少年の姿に思わず微笑んだ。サンジのTシャツとハーフパンツは幼い子供にはどこもかしこもダブダブで、 裾を縫い縮めたらそのままピエロの衣装になってしまいそうだ。
「・・・パンツまで洗うなよ」
シュンの口から絞り出したような声が漏れた。
「なんだお前、最初に聞かせる言葉がそれかよ。にしても水切れがいい便利な頭だな〜」
サンジの手が少年の首からタオルをとって刈り上げた頭を包み込んで軽く叩く。
アキはサンジの笑顔とそれとは対照的なシュンの顔を見た。別に捕らわれてしまったわけではないのに逃げ出したいと願う気持ちが表れてい る少年の顔。それでもどこかでサンジの手を受け入れている姿。心の中の葛藤が見えた。
サンジは最後に元気よく2回シュンの頭を肩を叩いてタオルを剥がした。
「ほれ、一丁上がりだ」
あたたまって顔を赤くした少年の姿は幾分初めよりも綻んで見えた。
アキが先にソファに座って隣りを指差すと黙って座り、サンジがジュースのグラスを前に置いてやると口の中で呟くように礼を言って手を伸 ばした。
「意外と行儀いいな」
サンジの軽口にシュンがちょっとにらみ返すとサンジは面白そうに口を歪めた。
シュンは本当にしっかり躾けられた年齢よりも大人びたところがある子どもだ。半年前まで住んでいた街の学校では文武両道に優れた優等生だった。それがこ の街に越してきてから時々学校を休むようになっていた。そしてそのことを気にかける大人の存在が薄くなっていた。
アキは頭の中にあるデータを眺めながら少年の横顔を見ていた。
「ん・・・?」
少し前から1箇所に留まっている少年の視線の先を追った
アキは驚いてガラスキューブの上に身を乗り出した。
「サンジ君、あれ、アコーディオン?」
窓際に置かれた小さなテーブルの上に堂々とした風格を漂わせた大きな姿が載っていた。並ぶ鍵盤の白と黒がくっきりと浮かび上がっている。
シュンも
アキと一緒に熱心な視線を向けた。
「ああ、あれ。クソジジイの愛用品だったんだけど、今回ちょっとだけ小さめのヤツに替えたんで持ってけって言われたんだ」
サンジは見開かれた4つの大きな瞳を見て苦笑した。
「弾ける?」
シュンの声が弾んだ。
「少しはな。鍵盤ものは嫌いじゃないから」
幼い時に何度もこっそりこのアコーディオンに触って怒られた・・・そんな記憶を辿ったサンジは苦笑いしたまま歩いていき、煙草を捨てると楽器を持ち上げ た。しっかりとしたバンドに手を通して肩にかけ左右の収まり具合を確かめると、彼を見つめる2人に向かって軽く頭を下げる。
アキとシュンが息を詰めたその瞬間サンジの指が鍵盤に触れ、四角く見えていた楽器が扇形に開いた。
流れ出したのは華やかでありながらどこか物悲しさを秘めたメロディ。刻んでいく拍子が特徴的で音に合わせて踊る男女の姿が想像できる。明るいこの部屋も 雨垂れ落ちる灰色の空も両方を余すことなく包み込むような響きに
アキは夢中で聴き入った。鍵盤の上を移動する白い指。軽々と扇を返す大きな手。ほっそりして見えるけれどとても頼もしい手だと
アキは思った。
幾度か繰り返された盛り上がるフレーズの後でサンジは唐突に手を止めた。
「ダメだな、指がもつれちまう。悪いね、今度はちょっと練習しとくから」
アコーディオンを下ろそうとしたサンジは視線を逸らさずに彼を見つめるシュンに気がついた。まだ心を躍らせているのがわかる。
「触ってみるか?」
一声掛けると跳び上がるようにして駆け寄る姿を見るサンジと
アキの顔にはよく似た微笑があった。
サンジが少年の気が向くままにアコーディオンの操作を教えはじめた時、胸のポケットから音がこぼれた。携帯電話を取り出して耳にあてたサンジの顔に笑み が浮かんだ。
「てめェ、食い物の気配には敏感なのな〜。わりとすぐできるからよ、帰ってきたら顔を出してみな。あ、ヴァイオリン持って来いよ!・・・・・あ?いいか ら!来ればわかるって」
電話の相手が誰なのかすぐわかった
アキの顔に笑顔が浮かび、わからないシュンの顔には戸惑いと期待の色があった。
「さて、ちょっと待ってろよ。腹すかせたクソ音楽家が来ちまう前に料理を仕上げちまうからな」
サンジがアコーディオンから手を離したのでよろめきながらシュンはサンジを見上げた。
「あんた、料理作れるの?」
「こら、俺の名前はサンジだ。俺はな、プロの料理人だ、よく覚えとけ」
シュンの目がまた大きく見開かれた。いつのまにか感情を素直に見せるようになっている少年の姿に
アキは何とも言えない気持ちになって目を伏せた。