「あ、シンベイザメ」
嬉しそうなシュンの声に
アキが顔を上げるとスクリーンには海の中をゆったりと泳ぐ斑模様の巨体が映っていた。
「どこかに本があったと思うんだけど・・・・」
自分の周りを見回した
アキはすばやく目当ての本の山から1冊抜き出して満足そうに微笑んだ。
「いいよな、
アキの部屋」
受け取った本を開いてシュンが呟いた。
公園での出会いから2週間。
シュンは3人のマンションにほとんど毎日顔を見せていた。サンジのアコーディオンに続いてゾロのヴァイオリンを生で聴いた少年はあの翌日待ちきれないよ うに朝早くサンジの部屋にやって来た。
『学校があんだろ!真面目に行かない奴の相手なんかしてやらねェぞ。俺たちの誰もな!』
そんなサンジの怒声に追い返されてとりあえずシュンは毎日学校へ行くことにしたようだった。部屋に来たら最初に宿題をやることに決められて不満そうな顔 する様子は年齢にぴったり一致していた。
毎日といってもサンジとゾロはそれぞれに出かけていることが多く、自然とシュンの足は
アキの部屋に向いた。学校から真っ直ぐに
アキの部屋に来て適当に本を引っ張り出したりコンピュータをいじったりしているうちに、早上がりだったサンジが差し入れを持ってきたり ゾロの部屋に戻った気配がしたりする。そうすると次は自然と音楽の時間になり、どちらかの部屋に移動した。
本と映像と音楽とのんびりしたティータイム。3人と一緒にいる時のシュンは2週間前の姿が嘘のようにくつろいだ笑顔を見せるようになっていた。
「サンジ君もゾロも帰ってこないね」
アキは冷蔵庫から冷たい麦茶を出してグラスに注いだ。
「紅茶でもいい。
アキ、紅茶が好きだろ?」
シュンがカウンターのスツールによじ登った。
この少年は一旦打ち解けるとかなりつきあいやすい子どもだった。周囲の人間の気持ちを察するのが上手くいろいろな事に好奇心を示すが、決して煩くつきま といはしない。
アキはニッコリ笑ってシュンにグラスを渡した。
「シュンはこっちの方が好きでしょう。合わせるよ」
少年の表情がほんの少し暗くなった。
「俺が子どもだから?」
「ううん、お客様だから」
シュンの顔が晴れるのを確認してから
アキは冷蔵庫の探索をはじめた。見事に食べられそうなものが見あたらない。それでもかろうじて1個転がっていた林檎を見つけてナイフを 出した。
「サンジは料理人でゾロは居合い。サンジはアコーディオンでゾロはヴァイオリン」
シュンは指折り数えるように言って
アキを見上げた。
「
アキは得意技ないのか?」
「うん・・・・ないねぇ」
アキが皮を剥き終わった林檎を8等分して皿に盛りフォークを探しているうちに小さな手が一切れつまんだ。
「じゃあさ、あの・・・・・」
「うん?」
フォークを見つけた
アキが顔を上げるとシュンは顔を赤くして俯いていた。
「・・・どっちとつきあってるんだ?」
アキは思わず笑いたくなったが我慢した。
「ゾロともサンジ君ともシュンともつきあってるし、つきあってもらってるでしょ?」
「そういうんじゃ・・・・」
シュンが抗議しようとした時、隣りの部屋のドアの音が聞こえた。
「あ!」
「ゾロだ!」
嬉しそうなシュンと目を合わせた
アキはもしかしたら自分の顔にもこんな風に感情が弾けてしまっているのかと思い、駆け出すシュンを見送りながらひとつ深呼吸をした。少 年ならいとおしくても自分なら少々滑稽だ。
アキはちょうどゾロの部屋のドアが開いたときに外に出た。
「んだ、来てたのか。入るのはいいが俺はシャワーが先だ。適当に遊んでろ」
気だるそうなゾロの声は少年をすっぽりと丸ごと受け入れているように聞こえる。
アキがためらっているとシュンが振り向き、同時にゾロがドアの陰から顔を覗かせた。
「
アキ、早く!」
「いたのか。とろいな」
確かに、とろい。今更、かもしれない。
アキはドアを押さえる手を交代しシュンの後ろから中に入った。
シャワーに行ったゾロを待ちながら
アキとシュンは並んでソファに座っていた。シュンはゾロがいないときには決してヴァイオリンに触れようとはしない。
アキはそんなシュンが好きだった。
「う・・・・・」
シュンはさっき
アキが渡した海洋生物の本を開いて顔を突っ込むようにして読んでいた。どうやら漢字に苦戦しているらしい。
アキにも覚えがあるが、この頃は文字の形や前後の文章から推測してわからない漢字を適当に読んでいることも多い。専門用語の割合が大き い本ではこれがなかなか通用しないことが多いのだ。
「あのね、わたしが気に入ってるところがあるの」
小さな手からそっと本を抜き取ると
アキはページを繰った。見ると少年の顔には期待の色が浮かび上がっている。それに応えたいと願う自分の気持ちは
アキにとっては慣れないものでそしてどこか甘いものだった。
「あった、ここ。ジンベイザメの名前の由来は灰色の背中にある白い斑点模様が・・」
声を出して読みながら
アキはシュンの顔に目を走らせた。大きな目を一層大きくして聞き入る幼い顔。いささかぶっきらぼうなはずの
アキの声をなぜこんなに嬉しそうに受け止めるのだろう。気がつくと
アキの足とシュンの膝が触れ合っていて、そこはとてもあたたかかった。
受け止めることと受け止められること。本当はそれを当たり前に感じる年齢のはずなのに。
アキは頬を染めながらできるだけ丁寧に読み続けた。
「寝ちまったのか。なんか犬っころみてぇだな」
ゾロはタオルで頭を拭きながら
アキの膝に頭を預けて眠る少年を見下ろした。身体を丸めて暖かそうな顔色をしている。
「多分、毎日夜更かししてるんだと思う」
アキはゾロが持ってきたタオルを受け取ってシュンに掛けた。大き目のタオルは少年の身体を覆い隠した。
「ふぅん。わかるのか?」
「うん・・・・・」
シュンを見つめたまま顔を上げない
アキにゾロは何か考えるような視線を向けた。
アキは少年の小さな口元を見ていた。呼吸に合わせてやわらかく動いて時々何か言葉を零しているように思えた。
呼んでいるのだろうか、誰かの名前を。
思い出しているのだろうか、今日あった出来事を、そして・・・普段は記憶の底にしまってある物事を。
ヴァイオリンの音色が流れた。ゾロの部屋のベルだ。
確かめに行ったゾロは荷物を抱えたサンジと一緒に戻ってきた。
「ただいま〜。やっぱり今日も来てたのか、こいつ。
アキちゃんの膝枕なんて図々しい奴だ」
そう言いながらもサンジの声は囁く程度に抑えられている。
「お前はここを誰の部屋だと思ってるんだ。仕事帰りに直行しやがったな」
「残念だったな、最初は
アキちゃんのとこに行ってみたんだ。いないみたいだから仕方なく来てやったんじゃねェか、荷物もあったしよ」
サンジは大きな紙袋をテーブルに載せると中から何かを引っ張り出した。
6角形の2枚の板をつなぐ黒い蛇腹の部分と板についているボタンと持ち手。
「アコーディオン・・・?」
アキとゾロの声が重なった。
サンジの鍵盤タイプのものとは違ったが一目でわかる特徴的な形はとても美しいものだった。よく見ると傷や色褪せがあるのだが、それさえも味わいと感じら れる。
「小型でいいだろ、これ。昔ジジイが使ってたのを思い出してよ、ちょっと借りてきたんだ。こいつにちょうどいいと思ってよ」
サンジの手がそっと楽器を撫ぜた。
「目を覚ましたら喜ぶね」
アキが言うとサンジは照れくさそうに笑った。
「こんな時に寝ちまうなんてタイミング悪い奴だよな〜。
アキちゃん、重くない?俺、替わろうか?」
「ううん、大丈夫。もう少しこのままでいい」
目を覚ましたらシュンはどんなに喜ぶことだろう。何だかんだ言っておそらくサンジも早くアコーディオンを見せたくて飛んで帰って来たに違いなかった。
アキは盛り上がる気持ちを懸命にこらえた。その時サンジが人差し指でシュンの頬を軽く突いた。少年は何かつぶやいて頭の向きを変えた。
「このやろ・・・」
目を合わせた2人は笑いをこらえて肩を震わせた。
その様子を見ているゾロの唇の端が小さく上がった。
その日、少年が見守る3人の前で目を覚ましたのはそれから小1時間が過ぎた頃だった。信じられないといった顔で楽器に触れる小さな手と紅潮した頬、そし て光るものを浮かべた瞳を3人はそれぞれのやりかたで心に刻んだ。たどたどしくブツ切れに続く音の響きはそれからしばらくの間途絶えることがなかった。