長く続くはずはないのだと誰よりも知っていたはずだった。それでも少年と過ごす時間は戸惑いを越えてしまえば素直に目新しく、慣れるに連れて日々がそのま ま続いていくのだという錯覚を生み出していた。
そう、錯覚だ。
アキはシュンの言葉を聞いたときに自分の顔にどんな感情が浮かんでいたのか確かめるのが怖かった。
「引っ越すんだ。準備があるから毎日早く帰らないとダメだって」
ドアを開けた
アキの前でうつむいたまま呟くシュンの声は小さく、そのまま空気に吸い込まれた。
アキは顔に浮かんでいたはずの笑みがそのまま不自然に張り付いてしまった気がした。何か言わなければいけないと気持ちばかりが空回りし て言葉が浮かばない。
「おかえりなさい・・・」
結局いつもと同じ言葉しか出なかったが、それを聞いたシュンは顔を上げ、
アキが表情を確かめる間もなく腕を伸ばして抱きついた。背中のカバンごと抱き返そうとした
アキは自分の腕が震えていることに気がついた。そして、少年の身体も震えていることに。
「わかってたんだ・・・引っ越すってわかってたんだ。でも・・・・」
泣きじゃくる声は幼く、
アキはそっとシュンを抱いたまま玄関に入ってドアを閉めるとそのまま抱きしめていた。
泣き止むまでずっと・・・・
アキにはそうすることしかできなかった。
「いつ・・・・引っ越すの?」
涙の跡を擦りながらシュンは立っていた。
アキが先にソファに座って見せても動こうとしない。すぐ帰らなくてはいけないと思いつめている様子がうかがえた。
「日曜日」
カレンダーは残された日にちがあと4日であることを示していた。
今別れてしまえば今日がシュンとの最後の時間だったことになるだろう。シュンは
アキたち3人のことを・・・縁があってできた大人の友人のことを母親には教えていない。知られたらここに来ることを許してもらえないだ ろうという予感があるようだったが、それは正しいだろうと
アキは思った。
普通の場合でもきっと母親は驚くだろう。まして今は・・・・
アキはどうにかしてシュンとの時間を延ばそうと考えている自分に気がついた。今はサンジもゾロもいない。会わないままに最後になるのは きっとシュンも辛いだろう。けれど、母親との約束を守らなくてはという気持ちとの間で板ばさみになっている姿も辛そうだった。
アキはテーブルの上に開いて伏せたままになっている本の表紙に目を留めた。
「土曜日は学校は休みだよね?」
囁くような
アキの声を聞いたシュンは惹かれるように1歩前に出た。
「うん。・・・どうして?」
「シュン、ジンベイザメを見たくない?一緒に・・・・見に行こうか」
「でも・・・」
戸惑う少年の顔に希望の色が浮かんだ。喜びと悲観が混ざり合ったその表情が
アキの心に触れてくる。
「お友達とのお別れ会ってお母さんに言えば、嘘ではないでしょう?それでも心配だったら、わたしが電話する」
「電話は・・・」
「・・・・うん。お友達のお母さんのふりをしなくちゃね」
アキが微笑むとシュンの顔が明るくなった。ささやかな秘密と共謀の香りが別れの気分をほんの少し軽くしていた。
「できる?そしたら、一緒に行ける?」
すがるようなシュンの声がたまらなくて、
アキは目を逸らして紙に携帯電話の番号を書いた。
「わたしが電話した方がよさそうだと思ったらこっそり連絡して」
「うん!うん、わかった!」
シュンは紙切れをしっかりと握りしめた。それからちょっと
アキの方を見てから部屋から駆け出していった。
アキはしばらくただそのままソファに座っていた。
ああ、と思った。ゾロとサンジに早く連絡をとらなければ。早く伝えればそれだけ一緒に行ける可能性が増えるだろう。
携帯電話を持つ手が震えた。
登録してある番号を表示させようと思うのだが、方法に関する記憶が頭の中から突然抜け落ちてしまったみたいにどうしたらいいのかわからなかった。
サンジはディナータイムの前の仕込みが忙しいだろう。
ゾロは・・・・ゾロは今日はどこで何をしているのだろう。
「お願い・・・」
何を誰にどう願うのかわからないまま口が呟く。電話番号を呼び出して電話を耳にあてると呼び出し音が始まるまでの時間がひどく長く感じられた。
(あ・・・)
呼び出し音が途切れた。
『なんだ?珍しいな』
ゾロの声が頭の中に響いた。どうやって伝えるかを全く考えていなかったことに気がついて
アキは焦った。
「ゾロ、あの・・・・・今、電話、平気?」
『ああ。あと30分くらいは大丈夫だ。何かあったのか?』
声の震えが聞こえてしまっただろうか。
アキは電話を持ち直した。
「ゾロ、あのね、シュンが・・・・日曜日に・・・」
『・・・泣いてるのか?』
涙が勝手に落ちてきたのはゾロの声のせいだ。声を聞くと安心してしまうから。気持ちが溢れてしまうから。
アキは涙を拭いながらさっき見たシュンの泣き顔を思い出した。
「大丈夫。何でもない」
『とも思えねぇが。とにかく、落ち着いて言ってみろ』
それから10分ほどかけて
アキはゾロにシュンの引越しと土曜日の計画について説明した。ゾロが聞き出したと言った方がいいかもしれない。ゾロがぶっきらぼうな声 で投げてくる言葉がなぜかいちいち
アキの気持ちをいっぱいにしてしまうので、
アキは手にタオルを持って目元を押さえながら話した。
『・・・わかった。アホコックには俺が電話しておく。おまえとあいつじゃ会話になりそうもないからな』
それだけ言ってゾロは電話を切った。
アキは電話を置くとタオルで顔を覆ったままソファに倒れこんだ。脱力感と緊張感が同時に身体の中にあった。サンジはどんな顔でゾロの電 話を聞くのだろう。気になった。
と、電話が鳴った。・・・サンジだ。
「はい・・」
『もしもし、
アキちゃん、大丈夫?ゾロのアホが・・・・いや、まあ、とにかく、俺、なんとか土曜日空けるから。クソジジイに負けねェから。だから
アキちゃん、安心して。いや・・・・ありがとうって言った方がいいのかな』
一気に話すサンジの声がまた・・・
アキの中で溢れた。
アキはただ、頷いた。頷きながら声を出していないことに気がついて慌ててサンジの名を呼んだ。
「サンジ君、大丈夫?」
『いや、俺は平気さ。あのアホと一緒で落ち着いたもんだ』
アキはそれから数語を交わすと電話を切った。
忙しそうな様子のサンジの声がいつもと少し違うように思えたのは勘違いだろうか。
アキのことを気遣いながら自分の動揺を隠すサンジと淡々とした受け答えをしながら土曜日の計画を丸ごと受け入れたゾロ。2人の間ではど んな会話が行ったり来たりしたのだろう。恐らく、ゾロが手短に事情を話してサンジが最初はそれを受け止め損なって。想像しているとすこし気分が落ち着いて きた気がした。
ゾロとサンジ。
アキにとっては刺激物でもあり鎮静剤でもある2人。
(今夜は遅いのかな)
アキは寝転がったまま膝を抱えた。
美しい音色を聴きたかった。
目を閉じるとどこからともなく聴きなれた音が聞こえてくる気がした。