メトロノーム 5

イラスト/ 思えば手をつないだこともなかった。
 出会ったとき、すでに少年は人に無条件に自分の手を預けることができるほど幼くはなかった。
 でも、大人にはまだ遠い。
 自分の意志で決めることができる世界の扉に手を掛けたばかり。何もかもこれから・・・可能性も限界も。そのことがとても眩しい気がして、でも大人として 彼をどう大切にしたらいいのかわからなくて、それでもみながやわらかな気持ちになった半月だったと思えた。

 その日をとびきり楽しい1日にしたいと願うのはみな同じかもしれなかった。
 息を弾ませて駆けて来た少年の顔に浮かんでいる切なさをできるならひと時の間消したかった。

 アコーディオンを弾くにはゾロの車よりもサンジの車の方が後ろの席にゆとりがあって楽だろう、ということでサンジの車をゾロが運転することになった。

「ほらよ、鍵。ちゃんと丁寧に運転しろよ」

「ああ」

  アキは軽い調子で鍵を投げ渡すサンジを見た。陽気な赤い色のその車をサンジはとても大切にしてこだわりを持っている。そしてゾロもその ことを知っている。そこにいろいろと感じるものがあった。

 後ろの席のアコーディオンの音とサンジとシュンの会話が前に座る2人の耳に直接流れ込んでくる。圧倒的なその音の洪水は、無関係の人間の耳にはただの騒 音でしかないかもしれなかった。 アキとゾロは特に会話をしないでその流れに意識を漂わせていた。



「・・・・あれじゃねぇか?」

アキ!見て!なんだかすごいよ!」

 ゾロとシュンの声が重なった。
 陽光を受けて輝くガラス張りの建物。よく見るとガラスの1枚1枚の形が同じではなく、パズルのピースのように海の中の光景を描き出していることがわか る。透明な光の海、透明な魚、透明な珊瑚。

「あそこにジンベイザメがいるんだよね」

 後ろの席からのぞいたシュンの顔には期待の笑顔があった。

「水族館の1番の人気者だからね」

  アキはなんとなくカメラをチェックした。


 水族館のメインは地階から3階までまっすぐそびえたつ大きな円柱型の水槽だ。様々な種類の海の生物を一度に見ることが出来る。目の前を通り過ぎては身体 の輝きを見せていく小型魚の群れ。ひらひらと舞ってのんびりと横腹を見せていく大型魚。
 ジンベイザメもそこにいた。
 光が届かなくて見えない水槽の中心部からふわり、と魚たちを引き連れるように現れる。そしてガラスの壁面に沿うように泳ぎながら斜めに上昇していく。

「でけェ・・・・・」

 サンジが呟いた。
 ゾロは黙って見上げている。
 シュンはジンベイザメの後を追って次々と階段を駆け登る。その後を追う アキは笑顔のまま息を切らせていた。
 3階の水槽の前で アキが追いついたとき、シュンはガラスに手をついて額をあてていた。

「行っちゃった・・・・」

「待ってればまた回ってくるよ」

「ずっと泳いでいるんだよね。誰も見てないときも」

「そうだね、きっと」

「すごいね・・・」

「わたしたちはずっと歩いたり走ったりはできないものね」

 そのまま2人はしばらくジンベイザメを待った。待ちきれなくなったシュンが先に立って階段を下りていくと途中でゾロとサンジと一緒になった。4人が揃っ た時にちょうど巨大な姿が見えてきたのでそのままそこで眺めた。頭の上を大きな腹が通り過ぎると、またシュンはその後を追った。今度はサンジがスタートを 切った。長い足で3段抜きで身軽に階段を登っていく。

「またじきに戻ってくるな」

 ゾロは腕組みをして2人を見送り、 アキは微笑んだ。

 少年は何回階段を往復しただろう。
 2時間近く過ぎた頃、4人でテラスのテーブルに陣取ってサンジが持ってきたバスケットを開けた。彩りの良いサラダに冷たいパスタ、一口大のサンドイッ チ。焼き菓子と菓子との組み合わせを計算されたフルーツ各種の刻み合わせ。ゾロが肩にかけていたバッグには冷たいソーダやレモネード、熱いコーヒーと紅茶 が入っていた。
 カップを持ち上げてささやかな乾杯をしたとき、4人の顔にはそれぞれの表情があった。そうしている間にも過ぎていく時を意識しながら、料理に手を伸ばし た。心優しい料理人を悲しませたくなくてみながおかわりを重ねる中で、 アキは初めてその素晴らしい味わいを楽しむことが出来なかった。

 笑顔があった。
 4人の顔に一瞬どんな表情がよぎっても最後には笑顔があった。

 帰りの車の中はまた音がいっぱいだった。

 車の中で、水族館で、 アキは何度もシュンの表情の中に信頼を見たと思った。サンジに、ゾロに、そして自分に・・・少年が『大人』に向けた信頼と期待。
 自分が子どもの時には大人というのは子どもとは感じ方も考え方も全部違うのだろうと想像していたことがあった気がする。よくわからないまま大人の体の大 きさがそのまま安定感のようなものを象徴している気がした。
 自分が大人に近づくに連れてその幻影は薄くなり、今は自分と子どもの間にはそうたいした違いはないのじゃないかと思っていた。ちがうとすればそれは純粋 に生きてきた時間の長さとそれに付属する経験と知識の量だ。経験がものをいう。だから・・・逆に言えば初めての経験については子どもと同じくらい戸惑うと いうことかもしれない。
 例えば、こんな風に年が離れている友人という間柄の自分たちに訪れる別離とか。相手が幼いだけでこんなにも無意識に深く受け入れてしまっている部分があ ると今更ながらに気がついたときとか。

 大人とは何なのだろう。
 経験という殻で身を守る術を身につけたその内側にあるのは、もしかしたら子どもの自分そのものなのではなかろうか。

  アキはサンジの声を聞きながらゾロの横顔を見た。
 大人。2人も自分の殻を意識することがあるのだろうか。
 シュンはどんな大人になるのだろう。子どもの時に得た思い出は、あっというまに風化してしまうか心の底にいつまでも残るかのどちらかである気がした。大 人になったシュンの心に3人の残像はあるだろうか。

「忘れても、いいんだけど・・・・」

  アキの呟きを聞いたゾロが一瞬目を向けた。

「今あったってことには変わりはねぇからな」

 まるで自分の思考が伝わったようなゾロの言葉に アキは目を丸くした。ゾロはすぐに前を向いてしまった。



 公園の前で車を止めた。
 シュンと アキとサンジが降り、ゾロは座ったまま窓を開けた。

「住所も電話番号もわかってるんだからよ、あとはお前次第だぜ」

 サンジが言った。3人はシュンの引越し先を訊かなかった。シュンの気持ちに任せたかった。

「・・・また弾かせてね、アコーディオン」

 泣いてはいけない・・・そう自分に言い聞かせるシュンの気持ちが伝わってきた。

「おう。・・・元気でな」

 サンジは片手を挙げてから車に乗り込んだ。
 シュンの瞳に浮かぶ涙を見つめながら アキはそっとシュンの頭に手をのせた。

「元気でね。毎日楽しかった」

 最後に迷った言葉を飲み込んだ アキがあたたかな感触が残る手を離すと、シュンがその手を両手で握りしめた。

「すぐに電話する、絶対。すぐに」

「うん、わかった」

 少年は約束が欲しいのだろうと思った アキはニッコリ笑って小さな手を握り返した。

「すぐにね、シュン」

 涙でぐしゃぐしゃになりはじめたシュンは3人に背を向けた。とぼとぼと数歩歩いてから1度振り向き、また歩いた。次にシュンが振り向いた時、 アキは大きく手を振ってから車のドアを開けた。少年の瞳が大きく見開かれたのが見えた。
  アキが乗り込んでドアを閉めるとゾロがクラクションを1回鳴らした。
 少年は走り出した。
 ゾロはエンジンをかけてアクセルを踏んだ。



「メトロノームを聴かせてくれる・・・・?」

 マンションの前で車が止まった時、沈黙を破ったのは アキだった。
 ゾロはちょっと アキの顔を見ていたが、すぐにポケットから取り出した鍵を差し出した。

「先に部屋に行ってろ。俺は車をしまってから行く」

 頷いた アキとサンジが車を降りた。2人はそのまま階段を登り、なんとなく当然のように一緒にゾロの部屋に入った。

「サンジ君、荷物・・・・・」

「ああ・・・・忘れてた。いいや、あとで」

 サンジはどこか気が抜けたようにソファに座った。
  アキは窓辺に行ってメトロノームのネジを巻いた。

「へェ・・・そんなのがあったんだ」

 サンジの声と一緒に煙草の匂いが漂った。

「うん。なんかね・・・落ち着くの。気持ちがひとつずつ整理されていくみたいな気がして」

 振り子が動き出すのを確認すると アキはサンジの隣りに座った。

「今日は走ったね」

  アキが笑うとサンジも煙草を咥えた唇の端を上げた。

「結局俺たち、あのでかいサメしかまともに見てねェのな」

「そう言えばそうだよね」

  アキの顔を見るサンジの顔には見慣れない表情が浮かんでいた。寂しさなのかもしれなかった。

「なんかさ、ここんとこずっとあいつがいたからさ。もう、ゾロの奴なんてほとんど父親だったんじゃねェ?面白かったよな〜」

「じゃあ、サンジ君はお母さん、かな」

  アキが言うとサンジの頬が染まった。

「え〜、それは勘弁ねがいてェよ。ゾロと夫婦になっちまう。・・・まあ、シュンと アキちゃんは姉と弟って感じがなかなかよかったけどさ」

「う〜ん、かなり年が離れた姉弟だね」

  アキは笑い、メトロノームの音に耳を傾けた。
 ひとつ、ひとつ。
 気持ちが固まってくる。

 ベルが鳴ってドアを開けたサンジはそのままキッチンに歩いていき、入ってきたゾロは アキの隣りに座って後ろに身体を伸ばした。

 ひとつ、ひとつ。
  アキには2人に話さなければいけないと思うことがあった。

「あのね・・・」

  アキが口を開くとゾロは片方の眉を上げ、飲み物を運んできたサンジは立ち止まってトレーを置いた。

「この間ゾロにメトロノームを聴かせてもらった時ね、わたし・・・・シュンに会ったの」

「え・・・それっていつ?」

 サンジは首を傾げ、ゾロはひとつ頷いた。

「公園でシュンに会う1週間くらい前、かな・・・。その時、正確に言うとシュンはわたしのことを見ていないというか・・・メタの仕事中だったから」

 ゾロはあの夜の アキの様子を思い出していた。メトロノームの音を一心に聴いていた後姿。どこか心ここにあらずで不安定に見えたこと。

「それはどんなメタだったんだ?」

「うん・・・・・」

  アキはうな垂れた。

「シュンの父親が雇い主でね、わたしの役は彼の愛人だったの・・・」

「愛人?」

 サンジの声が響いた。
  アキは深く息を吸い込んだ。

「シュンの父親は1年くらいシュンと母親と別居してこの街に住んでいたんだけど、半年くらい前にシュンたちが彼を追いかけるように越して来たの。事情はわ からないけれど彼は2人と別れることを決めていて、けれど母親はそれを認めることが出来なくて気持ちがすれ違ったままぶつかりあっていたんだと思う。年月 をかけて積もってきた気持ちの話はどちらか一方が譲ればいいものではないし譲れるわけもなく・・・・・ある日親子3人で会っている時にシュンの父親はシュ ンに怪我を負わせてしまったの。サンジ君・・・・見たでしょう?シュンの背中に傷跡がなかった?」

 サンジの体が小さく震え、その頭が2度頷いた。

「俺・・・・・ アキちゃんは知らないと思ったから言わなかったんだけど。自分でケガをしたのかなとも思ったし」

 雨に濡れたシュンをバスルームに引っ張り込んだとき、シュンは突然ひどく暴れてサンジに抵抗した。服を脱がせたとき目に飛び込んできたそれを見た時サン ジはその理由を知った。一筋の・・・・赤い線。真っ白な背中に浮き上がって見えた1本の傷。

「ほんの一瞬、我を忘れたんだと父親は言っていた。自分の子どもも1人の個人だということを忘れて自分のものとしてシュンにつのる鬱憤をぶつけてしまった のだと。そして怪我をさせた瞬間に我にかえって、このままではいけないと決めて手段を考えたの。・・・・別れるしかないのだと母親に納得させる状況を見せ ればいいんだと。何がどうなってもそれはシュンのせいじゃなくて自分のせいだと明らかにしておこうと。それでわたしのところにメタの話が来た・・・・」

  アキは息をついだ。

「父親には本当に別の女性がいたのかもしれない・・・・それはわたしにはわからない。わかっていたのは、積み重なったものは清算することも消してしまうこ ともできないしやり直すことも無理だと決めた彼が自分をひとつのきっかけにしようと決心していたことだけ。そして当日・・・・・指定された場所に行った ら、そこにはシュンも来ていたの。ちょっと驚いたような顔をした後に一生懸命父親の話を聞いていたわ。時々そっとわたしの方を見ながら父親と母親の顔を繰 り返し見つめていた・・・・。あんな風に子どもの前で演じることになるとは思わなかったけれど・・・・わたしはその前でいかにも親しげに意味ありげにふる まって所有欲丸出しの愛人になったの。でも・・・」

  アキが声の震えを抑えようと言葉を切った時、サンジが叫んだ。

「もういいよ、 アキちゃん。もう、いいから・・・・・」

 ゾロが息を吐いた。

「・・・全部しゃべっちまえ」

「おい、ゾロ!・・・だって アキちゃん、すごく辛そうじゃねェか・・・」

「途中でやめれば辛くなくなるのか」

「いや・・・・それは・・・・」

  アキの頬を涙が伝った。
 2人の声が自分には勿体無いと思った。

「何年か前にメタモルフォーゼをはじめたとき、最初は戸惑いとかそういうものが結構あったの。でも、いつのまにか自分がまったく知らない他人に・・・心も 身体も別人になりきることに心の奥底から快感が湧いてくるようになった・・・・メタの間は本当に自分じゃなくなってる気持ちになるの。ひどいときにはメタ を解いて気持ちが落ち着くまでに何時間もかかったりすることもあった。だから・・・・あの日、わたしの心の中には関係者として現れた子どもの姿に驚いて迷 う自分が確かに少しいたけど・・・・でも、別のどこかには恋の勝利とか愛情を狙うひとりの女を演じることへの快感もあったの・・・。ひどいでしょう?で も、あったのよ・・・・部屋に戻ってメタを解きながらそんな自分がいやになってどうしようもない気分になった。幼い子どもを傷つけて自分はどうして平気 だったんだろうってずっと考えた。考えてもどうにもならなくてゾロのところに行った・・・・メトロノームがあることを思い出したの。昔どこかで聞いた音が 記憶にあって、気持ちを静めてくれるかもしれないと思った。メタの間の自分をひとつずつ思い出して、それから本当の自分を思い出して・・・・そうしてバラ ンスをとれるようになったと思った時に偶然シュンと再会して・・・」

  アキは自分が涙声になっていることに気がついていたがやめることはできなかった。自分が求めているのは懺悔なのかもしれないと思った。 シュンのことを大切に思っている2人にいつまでも黙っているわけにはいられなかった。
 サンジがまた口を開こうとしたが迷うように閉じた。その瞳にも光るものがあった。
 ゾロは黙っていた。

「最初は・・・多分責任を感じていただけなのかもしれない。ずぶ濡れのシュンを放っておくことはできなかった。でも・・・・・知り合っていけばいくほど シュンは好きにならずにはいられない子で・・・。公園では父親を待っていたんだと思う。前に見かけたことがあると言っていたから。父親はもう2人の前に姿 をみせないと決めていたし、母親はこれからの自分とシュンのことを決めなければならない。シュンは2人の事情がわかっていたからただ待っていることしかで きなかったんだと思う。きっと・・・落ち着かない気持ちを持て余して、どうしていいかわからなくて・・・自分のせいだと考えてしまうときもあったかもしれ ない。でも、サンジ君とゾロに会って笑顔を見せてくれるようになった。・・・きっとじきに引っ越すことが決まるだろうとわかっていたけれど・・・それは知 らないことにしておかなきゃいけないと・・・ああ、もう、何を言ってるんだろう・・・」

 どこで言葉を切っていいのかわからなくなった アキは自分を抑えようと両腕を身体に回した。
 その時、隣に座っていたゾロの身体が起き上がって アキのほうを向いた。その全身が目に映る前にゾロの腕が アキの身体を横から抱いた。
 突然与えられたあたたかさと包み込まれる感触に驚いてゾロの表情を確かめようとした アキの頭を大きな手が押さえた。

「何でもねぇ・・・・気にするな。あいつはお前に犬っころみてぇにくっついてたじゃねぇか」

  アキの心と身体にぬくもりと声がゆっくりと沁み込んでいく。
 許されて受け止められるのはこんなにも切なくて甘いものなのか。
 子どものように。
 そして1人の人間として。

  アキはかすかにふちが赤みを帯びているサンジの青い瞳を見上げ、右手を伸ばした。
 多分、 アキと一緒に震えていたサンジの心。
 寂しい時には素直にそれを映す大きく見開かれた瞳と唇にあった煙草をとって挟んだ長い指。
 温めたいと アキは思った。

 俺も?

 サンジの唇が音がないままそんな言葉を呟いたように見えた。

 ったく、照れくさいにもほどがあるぜ

 次はそんな風に見えた。いや、聞こえたのかもしれない。
 やがて2人の前に黙って膝をついたサンジは アキの手を取って軽く唇をあてるとゾロの背中に腕を回した。

「あいつは俺たち3人のこと、結構気に入ってくれてるさ」

  アキは目を閉じた。
 多分2人もそうしているだろうと思った。
 全身にぬくもりを感じながら。ほんの少しの間の触れ合いを持った少年を想って。
 いつか誰かの電話がなることがあるだろうか。その日が来たら今日こんなに泣いたことが別の思い出に変わるのかもしれない。

 静かになった部屋の中でメトロノームの音が空気を刻んだ。

2005.6.15

Copyright © ゆうゆうかんかん All Rights Reserved.