暫くの間、店に他の客は入ってこなかった。
マリエとサンジたち3人の空間は程好い距離が互いの間にあって、
アキとゾロもすぐにくつろぐことができた。
アキとゾロのグラスが空になるたび、皿の料理が残り少なくなるたびにサンジは軽やかに席を立った。空になった器を下げてカウンターでマ リエと言葉を交わし、次の飲み物や料理を受け取って戻る。それを繰り返すサンジの表情だけではなく全身が楽しげで、
アキは微笑むと同時になぜか段々と胸のどこかに締めつけられるような感覚を味わいはじめていた。
今のサンジでは、隠しているつもりでも彼の想いがまったく伝わらないはずはないように思えた。もしかしたらサンジにそうさせているのは・・・サンジは最 近
アキとゾロの前では無防備で素直に見える時が多かった。
「なんて顔してるんだ」
カウンターのサンジを見つめる
アキにゾロは苦笑した。そのくせ、彼の中にも何か別の感情のようなものの存在があって、けれどそれは敢えて正体を見極めないほうがいい もののように思えた。考えても仕方のない心の動きであれば。
「・・・どんな顔してた?」
不安そうな
アキの声にゾロはまた笑わずにはいられなかった。
「ものすげぇ心配そうな顔だ。おまえがあのアホコックに惚れてるとかそういう感じに見えちまうぞ」
アキは目を丸くした。
「心配なのは・・・サンジ君の気持ちなんだと思う。わたしたちといる時のサンジ君はすごく素直に感情を見せるから・・・でも、マリエさんの前では・・・な んというか・・・いろいろ隠してるみたいだったから」
アキの言葉を聞いたときの自分の感情の動きをゾロは・・・・とりあえず無視した。
「それじゃあまるで過保護の肉親だ。あいつが珍しく心の中をちらほら見せてる相手がそれに応えてくれなかったときのことを今からおたおた心配してる」
確かに、と
アキは思った。ゾロの言葉は
アキの気持ちをかなり近く言い表していた。
アキの中にあるサンジを大切に思う気持ちは「惚れる」の好きではなくて、もっと別の大切さだ。いつものサンジの女友達とはまったく違う マリエの存在を知り、
アキ自身もマリエの魅力に触れて。サンジが見せている想いの分だけはマリエが見せていないことに怯えて、サンジが傷つかないかと不安に なったのだ。
うん、と深く頷く
アキの頭の上にゾロの手がすっと伸びた。
「馬鹿らしいだろ、耳で聞くと。・・・大体、あいつが俺たちをここに連れてきたのは、案外このためかもしれねぇし」
ゾロの手は
アキの頭を軽く叩いてから引っ込んだ。
「まあ、飲みに行くっつって今のあいつの頭にはここしか浮かばなかったってのがほんとのところだろうけどな。おまえはいろいろ感じ取りすぎて余計な苦労を するタイプだな」
それでいて鈍いし、とゾロはなんとなく呟いた。
「お待たせ〜!旨そうだろ、このオムレツ。これは、俺がマリエさんにレシピを教えた新作なんだ」
サンジが湯気といい香りが漂う大きな皿を持って戻ってきた。皿の上にはふっくらとした形と何か工夫を凝らしたソースの色が見える。
なぜだろう。サンジがマリエにレシピを教えたことがとても重要なことに思えた。そして、
アキは笑顔で座るサンジに手を伸ばして触れたいと一瞬思い、思い直すとあわてて席を立った。
「あ、化粧室はね、カウンターの横を通った奥だから」
返事をしないで離れて行く
アキの後姿にサンジは首を傾げた。
「お前、
アキちゃんに何かおかしなこと言ってねェだろうな」
「アホ。それはお前だ」
ゾロの言葉にサンジはいよいよ首を傾げた。
カウンターに近づきながら、
アキの背中は緊張でこわばっていた。自分に向けられているマリエの視線を強く意識し、背中にはサンジの視線を感じていた。
それを和らげたのはマリエが浮かべた微笑だった。
「素敵な組み合わせね、あなたたち」
マリエの耳に心地よい声は柔らかく、
アキはカウンターの前で足を止めた。スツールに座るマリエを軽く見下ろす感じで向き合うと、その女らしい印象が強まった。やはり、とて も美しい女性だった。
「カクテルもお料理もとてもおいしいです」
思い切って
アキが言うとマリエの微笑が深まった。
「いい子ね、あなた。・・・大切なのね、サンジさんが」
アキはマリエの瞳を見た。自分の感情を正確に読み取っているような黒い瞳。自分でもまだわからない部分がある気持ちを丸ごと受けとめら れているような気がした。
「妹のように」
アキが笑うとマリエは軽く頷いた。
「サンジさんが安心しているのはあなたたちがいるからね。本当の家族だと逆効果の場合も多いのよ。彼は幸運だわ」
そうであればいい、と思い
アキは頷いた。
その時、ふと、
アキの目を引いたものがあった。
マリエの背後の壁の棚、一番上の段の片隅に。
「トランプ?」
古くて角が丸くなったような外箱の色と柄に見覚えがあった。遠い記憶に触れてくる黒に近い青色。
マリエは立ち上がって箱を手に取った。
「・・・忘れてたわ、懐かしい。わたしのものじゃないのだけど」
古いけれど埃がかぶっている様子はないトランプのその状態がマリエの嘘を告げていた。それを棚に戻して
アキを見るマリエの顔には、自分の嘘を認める表情があった。
「ごめんなさい」
アキは謝った。触れてはいけない領域に心の手を伸ばしたことを。
マリエは初めて声を出して笑った。すると静謐な印象が変化した。薄いベールが上がって奥から鮮烈なものが見えたようだった。
(この人は映える人だ)
アキはその姿を見つめた。
「昔、ステージに上がってた時期があったの。このトランプはその時に知り合った人のもので、その人にはもう何年会ってないかしら。時々、1人の時にこれで 遊んでみるのよ、こんな風に」
マリエは箱から出したトランプをしなやかな手つきでカウンターの上に扇状に並べた。
「今はもう、こんなにぎこちなくしかできないけれど」
静かな口調とともに再びマリエの周りにベールが下りたのを
アキは感じた。
「あざやかなお手並みだ」
アキの隣にサンジが立った。気になって見に来たのだろう、2人の様子を。
サンジはカウンターに向かって腰掛けた。
「あのさ、マリエさん。俺、今日はマリエさんに話があったんだよね。ほら、前にうちのレストランに来てくれるって言ってただろ?で・・・7日はどうかなっ て。・・・店を休むことになっちゃうけど・・・」
7月7日。七夕の日。
マリエは2人に背を向けて壁のカレンダーを見た。
サンジは
アキに微笑んだ。
「
アキちゃんとゾロの奴も誘おうと思ってたんだ。7日にさ、バラティエでちょっとしたショーというか集まりがあるんだよ。『マジックの夕 べ』って奴。ショーを見ながらの早めのディナーが出て、それから何人かのマジシャンがテーブルマジックを見せてくれる。クソジ・・・オーナーの知り合いが 凝っててね、店を貸し切ったんだ」
マリエはしばらく振り向かなかった。
サンジは
アキに話しながら視線をマリエの背に向けている。その顔からいつの間にか微笑みは消え、目と口元がひどく真面目に見えた。
サラ・・・とマリエの髪が流れた。黒い瞳がまっすぐにサンジに向いた。
「あなたは・・・何か知っているの?」
マリエの声から伝わるものにサンジは笑みを返した。
「マリエさんのトランプがもしかしたらマジックのものかなとは思ってたけど、それだけだよ」
サンジとマリエは目を合わせた。
マリエがもう一度口を開こうとした時、店のドアが開いた。男女数人が入ってきて中の一人がマリエに陽気に声をかけた。
「ごめんなさい、返事は後にさせてね」
マリエはトレーを出してグラスを並べはじめた。
ホッとしたのかもしれない、と
アキは思った。