七夕というのはどういうものなのだろう。
アキには笹に飾られた願い事の短冊のイメージが強かったが、その願いは誰に向けて送られたものなのかずっとピンと来ていなかった。幼い 頃に1回だけその短冊を書いたことがある記憶がよみがえったが、自分が書いたことは一文字も思い出せなかった。
織姫と彦星。
この2人は何者だっただろう。
床に座る
アキの周りを数冊の本が取り巻いていた。機を織る高貴な人と牛飼い、牛で地を耕す人。そんなイメージを膨らませる情報は見つからなかっ た。コンピュータを繋いでみようか・・・・
アキはぼんやりと立ち上がり、ため息をついた。
(逃げてるよね)
アキは苦笑とともに歩いていき、奥の四角い部屋の扉を開けた。天井に渡された何本もの銀色のパイプ。そこにぎっしりと『衣装』がかけて あった。どれもこれまでに仕事で使うか或いは実験的な意味で購入したものだ。
この中には
アキが自分自身用に買ったものはない。自分のものは部屋の片隅に置いてあるこじんまりとした3段の引き出しの中に納まっている。どれも シンプルでほとんどが天然の素材のものだ。
ドレスアップ。
これが
アキの心にひっかかっている言葉だった。
マリエの店の帰り道、サンジが言った。
「7日はさ、ドレスアップした
アキちゃんを見られるね。俺、楽しみにしてるから」
心の中は恐らくマリエのことでいっぱいだろうに。
アキは微笑み、ゾロはかすかに鼻を鳴らした。
あの時は酔っていたせいもあってか何も考えなかった。けれど、目覚めたときには頭の中に「悩み」がもやもやと存在していた。
仕事で別人になっているときは高価なドレスや宝石を身に着けることも珍しくない。身にまとったその時々の「人間」にどういう服を合わせたら効果を出せる かを冷静に考えていくつものパターンを試す。髪型にメイク、どれも1枚の絵を仕上げる気分で念入りにこなす。
でも、それが「
アキ」自身のこととなると。
アキは途端にどうしていいかわからなくなる。
1枚のワンピースが目に入った。上品で黒いフォーマルな雰囲気は無難なように思えた・・・・・服だけは。問題は
アキの体型だ。
(まさか、胸の部分だけメタしていくわけにも・・・・)
そのドレスは美しい曲線美の持ち主になったときのものだったと思い出す。自分にはあてはまらない。
アキはバスルームに入ると全身が映る大きな鏡を見た。
細くて色白、やわらかめの髪が肩先であちこちと好きな方向を向いている。顔全体が無表情で唇にだけ薄く色を塗ってある。
(ダメだ)
アキは鏡から目をそむけるとバスルームを出て、そのまま早足で玄関に向かった。
自分からイメージを得られないなら、逆に服の方からイメージを合わせるしかない。
そう思った。
七夕は、もう明日だ。
商店街を歩きながら
アキはウィンドウに目を走らせた。どの服もそれを使いたいメタの『役』を想像させる。そう言えば『講師』の仕事が来る予定だったと思い ながら見る夏向けのスーツ。普段の
アキなら人が集まっている前で話をすることなど不可能に近いが、メタしていれば言葉は驚くほど容易く口から流れ出る。現金なものだと思 う。
それにしても、どの服にも『自分』をあてはめることができない。
心の中に湧き上がるのは、一言で言えば自信のなさ、だろうか。普段の無関心の裏側。本能的に消してきた記憶からつながる細い糸。
ふと、光るものをとらえて視線が止まった。
ウィンドウの前で行ったり来たりする背の高い後姿。首を傾げてうなっている、サンジ。彼が向いているウィンドウの中には
アキの予想を裏切ったものが展示されていた。
「サンジ君」
飛び上がったサンジの口から飛び出したタバコが描いた放物線の行く先を
アキは眺めた。それから見上げると、サンジの瞳はまだ大きく見開かれていた。
「びっくりしたよ、
アキちゃん。買い物?」
「うん・・・・もしかしたらサンジ君と同じ目的かもしれない」
西日があたるウィンドウの中には白地、色地、染め抜かれた様々な柄・・・何点もの浴衣が飾られていた。
「いや・・・あのさ、俺、いつもスーツだろ?明日はちょっと変えてみようかなって思ってさ・・・」
サンジの頬が染まった。
「わたしも、何だかどういう服装がいいのかわからなくて探しに来たの」
アキが言うとサンジの顔が明るくなった。
「あ、じゃあ、浴衣にしない?昨日、ゾロにも言ったんだ。たまには真っ黒けじゃなくてイメージ変えてみろって。そしたらあいつ、持ってねェって言うから、 じゃあいっそ浴衣でも買えよってことになったんだけど。まずは俺が手本を見せてやらねェとなぁ」
「浴衣かぁ」
アキはウィンドウを覗き込んだ。
サンジも隣で同じように中を見つめた。
「俺、実はこういうの初めてなんだよね、自分で買うの。ガキの頃に1度クソジジイがどっからか出してきたのを着たことあるけど」
「わたしは着たことあったのかなぁ。メタではあるけど」
そろって首を傾げた後にサンジが笑顔になった。
「じゃあさ、俺に
アキちゃんの浴衣を見立てさせてよ。で、
アキちゃんは俺に1枚選んで!それだと、何かうまくいく気がしてこねェ?」
ああ、それは楽しそうだ。
アキも笑顔になった。
「じゃ、行こ。ゾロをびっくりさせてやろうぜ」
そういうサンジの心の中には別の人の名前が浮かんでいる気がした。
サンジによく似合う色と柄を精一杯選んでみよう。
アキは思った。
約1時間後、2人は店を出た。店の店長と2人の店員がそろって外に出て2人を見送った。
「ちょっと恥ずかしくねェ?こういうの」
「そうだね。・・・やりすぎたかな?」
「あはは。でも結局みんな楽しそうだったからいいんじゃねェ?」
アキとサンジは顔を見合わせて苦笑した。
2人はそれほど高価なものを買ったわけではなかった。しかし、とても良い買い物をしたと思っているのは同じだろう。
店員が最初に何点かの浴衣を2人前に並べてくれた時。最初に火がついたのは
アキだった。どれもサンジに一番似合うものとは思えなかったからだ。その時の
アキの顔が仕事の時の顔になっているのにサンジだけが気がついた。
(うわ、本気モードだ)
一瞬焦ったサンジだったが、
アキが本気になっているのが自分のことであるのを思い出すと、妙にくすぐったいような嬉しさを感じた。
(よし、俺も負けられねェ)
サンジも燃えた。
最初1人の店員が2人の相手をしていたが、3人揃って熱気を帯びてくると自然ともう1人が手伝いにやってきた。
互いのために店にある中で1番似合う浴衣を選ぶ。この簡単な目的は気がつくと店にいた他の客も巻き込んでいた。ひやかしに来ていた数名の顔が真剣にな り、自分のためや一緒に来た相手のための浴衣を選んで行った。
最後にはとうとう店長が重い腰を上げた。
「う〜ん、どれもいい柄なんだけどなぁ、なんか違うんだよなぁ」
店員が
アキの背中にあてた浴衣と
アキの横顔を眺めながらサンジが唸った。
アキは色だけは青に決めたらしく、いろいろな青の中に埋まるようにして考え込んでいた。
誰もが夢中になっていた。
浴衣と一緒に帯や下駄も広げられ、組み合わせに頭を捻った。
落ち着いた無難な組み合わせを薦める店員、答えを出せずに駆け回る店員、そして意外に斬新な提案をする店長。
サンジは提案のひとつひとつを吟味して腕を組み、
アキは自分の勘だけに頼って奥の棚にまで視線を走らせる。
そして、ついに、2人は浴衣を買った。
アキはサンジの、サンジは
アキのものを。店員の一人は目立たぬようにそっと手を叩いていた。
「お店の中がすごくなってたね」
店内所狭しと広げられた色の洪水に
アキが気がついたのは支払いの時だった。その状態が仕事前の準備期間中の自分の部屋と同じだったので、見えていなかった経過も想像でき た。
「ああ、
アキちゃんさ、絶対俺の倍は浴衣を見せてもらってたよ」
悪戯っぽく笑うサンジを
アキは軽く睨んだ。
「たくさん声を出してたのはサンジ君だったよ、多分」
「そいつは否定できねェなぁ。疲れたからさ、ちょっと一休みしよう」
夕日の色に染まりはじめた中、2人はカフェの店先のテーブルに座った。
「そういえば、わたしが持ってるのがサンジ君のなんだよね。取り替えなくちゃ」
「だよな。すんげェこだわって選んだから、すっかり自分の買い物にしちまったけど」
2人は笑いながら手提げ袋を交換した。
ちょうどマリエの店に行ったのもこのくらいの時間だった。
アキは思い出しながらサンジを見た。あれからサンジはまたあの店に行っただろうか。夜を切り取ったようなあの空間に。
「俺、マリエさんには自分を見せたくなっちまったんだよ。自分があの人を見れていろいろ・・・何だかいっぱいもらってるもんがある気がするからかな。そし たらさ、客としての俺じゃない俺も見て欲しくなってさ」
アキの想いとシンクロするようにサンジが呟いた。
アキは頷いた。
憧れて見上げるだけではなく同じ高さに立つ、ということなのだろうかと思った。見上げて賛美するだけでは満たされなくなった心。サンジの。
「サンジ君、浴衣で料理するの?」
アキの心配そうな声にサンジは笑った。
「大丈夫、俺、明日は仕込までだから。それからはウェイターと雑用に回るんだ。結構
アキちゃんたちと一緒にいられると思うぜ。あのアホだけにいい思いはさせねェ」
アキは笑ってサンジの後ろを指差した。
「あのアホって、あそこの?」
「へ?」
振り向いたサンジと首を回したゾロの視線がぶつかった。
「うわ!なんだ、お前!」
「買い物か?」
空いた椅子に置いてある
アキとサンジの袋とゾロが左手に提げている袋。3人は同時にそのおそろいの袋を見た。
「お前・・・浴衣買って来たのかよ。なんつぅか・・・律儀な野郎だな」
「るせぇ」
ゾロは袋を放り出すように一緒に置くと、椅子に座った。
「ゾロ、今浴衣買ってきたの?」
「ああ」
「あのね、お店の中、散らかってなかった・・・?」
「なんだか忙しそうだったけどな。やけに気合入れて薦めるんですぐに決められたのはいいけどよ。・・・・ふ〜ん」
ゾロはニヤリと笑った。
「お前ら、なんかやったのか。そういや、平日だってのに店じゅう大わらわって感じだったな」
「別に何もやってねェよ。俺たちも浴衣を買っただけだ」
ゾロは笑ったまま、反論するサンジと顔を赤くした
アキを見た。
「だ、大体、お前、浴衣なんて自分で着られるのかよ」
「ああ。着物と似たようなもんだろ。お前はどうなんだ?コックは着物なんて着ねぇだろ」
サンジの口が勢いよく開いて、無言のまま閉じた。
まさか・・と思った
アキとサンジの目が合った。
「いや、大丈夫、一応着られる・・・と思うんだけどよ。クソジジイも・・・・いや・・・。あのさ、
アキちゃん、悪いんだけど、ちょっと早めに来て見てくれる?仕込が終わったら着替えてるから、俺」
どこか必死なサンジの声に
アキは大きく頷いた。
ゾロは声を上げて笑った。
「それでよく俺に浴衣、浴衣って言えたもんだな」
「・・・・るせェよ。俺なんか、
アキちゃんが見立ててくれた最高のやつだからな!いいか、ちゃんと
アキちゃんをエスコートして来いよ。ちょっと早めにだぞ!」
「わかってる」
笑うのをやめたゾロの顔からサンジはぷいと視線を逸らした。
多分、あれからサンジはマリエの店に行っていない。
アキはなぜかそう思った。